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発災後の 「前を向こう がんばろう 笑顔で 」 という県外からの投げかけは
すでに向き合わず、ひとの苦しみから目を背ける意思だけが蔓延していたと痛感します。
『記憶の風化と呼ばれるものは
記憶そのものが薄れることであるよりも
自らの記憶・経験に向き合う意志の弱体化を示してるように思われます。
あの出来事は一体なんだったのか。
この問いに答える知性の力を私たちは鍛え続けなければなりません。』
転載元 立教大学様
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要談 「震災関連 神戸・東北」
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損害賠償を求める訴訟も起きた津波予報の過少判断
最近、災害発生を伝える報道やアラートが、大げさで疲れる
そういう意見もあるようですが
東日本大震災 巨大津波災害の教訓の一つに
津波の水位の過少評価によって、多くの方が犠牲になったという指摘があります。
小野寺五典議員(現防衛相)が国会で質問したこと
小野寺現防衛大臣による2012年(当時野党)の予算委員会での質問から
『「三陸沖に津波が来る」と、以前から「99%の確立で津波が来る」と
言われていたから、沖合いにブイを浮かべていました。
そして津波が沖から襲ってきたら、津波の高さでそのブイが持ち上がる。
即座に人工衛星で 「沖合○○mのブイは、今何メートル高くなった」
そうすれば沿岸に何分後に到着して、「○○町の○丁目に○メートルの津波が来る」このような予報システムを造っていたんです。
今回、津波が来ました。
この予報システムは完全に当たっていました。気象庁にもデーターは送信されてるんです。
沖合いの津波計、4メートルを越える津波が来たのが測れた。
経験則からいうと 「これは最大20メートルは越える。」
とんでもない津波!
ところが気象庁は何をしたか。 このデーターを無視したんです。
そして気象庁が発表した津波の高さは
「宮城は最大6メートル」、
「福島、岩手は最大3メートル」。
だから、陸前高田では3メートルだったら、水門閉めれば津波は来ないんですよ!
消防団はみんな行ったんです。水門を閉めに…
南三陸町では最大6メートル。だったら、2階にいれば大丈夫だったんです。だから防災庁舎に残って、最後まで町民に知らせたんですよ。
大川小学校ではどこに避難したらいいか 6メートルだったから判断を迷ったんです。
実際に来た津波… 最大16メートル。 ビルの5階でもダメかもしれない。
いちばん遡上した高い潮位は40メートル。
これ気象庁が後で言っているんです。
「予報が間違った」…
そして「せっかくの津波計の情報を無視した」…
何で無視したか?
沖合いの津波計を設置したのは 国土交通省の「港湾局」。
津波の予報を出すのは 国土交通省の「気象庁」。
役所が違うからダメだ。
実はこの問題は、私は前にも国会で質問していたんです。
「なんとかしろ!なんとかしろ!なんとかしろ!」…。
「この津波計の情報を気象庁が直接使えるようにしろ!」と。
後で議事録を見たんです。 いつ質問したんだろう…
質問した日は衆議院の災害対策特別委員会、2010年の3月11日…
震災のまる一年前の日に 実は質問をしていました。
今でもあの時の情報がしっかり使えてもらえれば、
こんなことにはならなかった。
それを悔いています。
そしてこのことは気象庁にもしっかり伝えました。
気象庁も実は知っていました。
これから東海・東南海沿全体にこのブイが設置されます。
そしてこの情報はきちんと使うとそう明言しています。
そして最後におそらく報道で見たと思いますが、
津波の最大高さというのは もう出さないようにしよう。
このよう今回は改善をしてもらっています。
ぜひ私達の経験したこのような辛い経験を いまどこで起きるかわからない。
全国のみなさんには 二度と味わっていただきたくない、そういう思いでありました』 |
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今日 行われた、政府主催の東日本大震災 7周年 追悼式で
福島県を代表して言葉を述べられた「五十嵐ひで子」さん。
5年前の2013年に放送された、NHK「あの日 わたしは 東日本大震災 証言記録」に出演され
翌年1月に、強い印象に残っ方の一人として、当ブログで紹介させていただいていました。
今日の追悼式でも「ひで子ーっ! ひで子ーっ! ひで子ーっ!」
と津波に流されながら、必死に妻の名を叫ぶ夫の最後の声を、五十嵐ひで子さんは 声を絞るように叫んでおられましたが
それをテレビで聴きながら、5年前に語られたことを思い出しました。
結婚されて40年近く、ひで子さんのお連れ合い利雄さんは、日頃 ひで子さんを名前で呼ぶことがなく
「おい」や「おうっ」と言っておられたと。
あの日津波に打ち上げられ、たまたま近くの松の木につかまることができたものの
利雄さんは流されてしまい、ひで子さんの名前を必死に叫びました。
その時にひで子さんは、「あれ、うちのお父さん(利雄さん)、私の名前知ってたんだ」と
頭によぎったとのこと。
ひで子さんも「お父さんっ!」と叫ばれますが、やがてひで子さんも津波にのまれ流れてしまいます。
利雄さんと叔父は21日後に御遺体で発見されました。
津波にのまれて、自分の名を叫ぶ夫の声に、そういう瞬間でもふと、日頃 おい としか言わないのに名前を知っていたんだ、と頭によぎったという、その直前まで津波は来ないと楽観視していたのに、一瞬にして現実かなにかわからない状況になったその心境がとても生々しく感じました。
追悼式で、利雄さんの最後の言葉を叫んだ、五十嵐ひで子さんの心境を色々と想像しました。
以下のリンクがその時の記事です。
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安田菜津紀の写真日記
震災から7年 「明るい話題を」に思うこと
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