エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

要談 「震災関連 神戸・東北」

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【この根本的問いは、あの場に行ったあの人だから出来たのか】
ロート製薬が、「薬は病気を治すけど、はたして、人を日々幸福にしているのだろうか」というラジカルな自省をして、そのファーストステップを踏み出しました。
果物や野菜の栄養素や酵素に注目した。それだけだと、サプリみたいな「薬」になってしまう。
そんなのは、薬でたくさんだ。
ではなく、おいしいスイーツや食べ物として、提供しようということで、フローズン・フルーツ・バーのネット販売と、実店舗販売を開始してるんですよ。
このプロジェクト、推進したのが、みちのく未来基金の河崎保徳さん。

大震災で、親を亡くした子どもたち、全員に、返済しなくていい
請求そのままの(だいたい今まで、年間300万円)大学院卒業まで可能な、奨学金をだすみちのく未来基金。
カルビーと、カゴメ、そしてロート製薬が(のちに、エバラも)立ち上げた、すばらしい基金です。
川崎さんは、3年間、東北に暮らしながら、立ち上げの中心となった方です。
その東北での経験、そして、みちのく未来基金での経験が、「薬とは何か」「製薬会社が果たすべき役割とはなにか」、そしてそこに勤める「自分が果たすべき役割とは何か」という、根本的な問いとして結実したのです。







避難所から彼女たちを求め電話をしてくる人。中には愛する家族を失った人たちも多かったようです。

お客のひとり、30代後半の男性は、こう語っています。
「どうしていいか分からない。人肌にふれていないと正気でいられない」と。
「子供と奥さんと両親が津波に流され、長男と次男は助かったらしいんですけど、いちばん下の男の子と奥さん、あと両親が亡くなったそうです」
男性は、サービスの後で添い寝をして欲しいといい、チャコさんは応じたといいます。この男性は、震災時に仙台に出張中で、両親・妻・娘ふたり・妻の両親を乗せたワゴンが津波に流されました。後日、現場へ行ってみると、ワゴンの中には遺体が残されたまま...。無惨な光景を目の当たりにしたといいます。現場は遺体搬送が出来ないほど人手不足だったようです。44歳で夫と3人の子どもを持つユキコさんの話。亡くなった妻に似ているんだよね・・・


今日、病院の待合室で読んだ記事です。
以前、被災後に生きるためにAV女優になった女性の本もありました。
真剣な大震災のリアルとして。


「震災風俗嬢」 e-hon 一頁堂

東日本大震災発生からわずか1週間で営業を再開した風俗店があった。死者1万5894人、行方不明者2562人(2016年2月10日現在)という未曾有の大災害の直後にもかかわらず、普段の倍近い客が殺到。それを「不謹慎」という言葉で切り捨てるのは簡単だろう。

 だが極限状態だからこそ、人は肌の温もりを求めずにはいられなかった。3月10日に発売される『震災風俗2 件嬢』(小野一光著)には、テレビや新聞では決して語られることのないドラマが描かれている(本文中の発言は同書より引用)。

 震災直後に営業を再開したデリヘル店がある。“戦場から風俗まで”をテーマに執筆活動をしているノンフィクションライターの小野一光氏は、2011年の4月上旬、被災直後の北上市のバーでそう耳にし、被災地の風俗店を訪ね歩いた。

 21歳のラブさんと28歳のチャコさんが働いている石巻市のデリヘル店は、震災後わずか1週間で営業を再開していた。事務所は津波で被害に遭ったため、ごく普通の民家を新事務所にしての再開だった。

 ラブさんは地震発生後、石巻市の繁華街に隣接する日和山に避難して事なきを得た。津波が街を呑みこむ様は、「映画の世界にいるみたいで現実感がまるでなかった」という。だがなんと、その1週間後には風俗の仕事に復帰したのである。

 店の経営者によれば、自分たちの商売ということもあるが、「女の子たちが稼いでなんぼの世界だからね。こういうときだからおカネも必要でしょ」と早めに女の子に連絡をつけ、逞しく営業を再開したのだという。

 石巻市内で最初にラブホテルの営業が再開したのは3月28日だった。電気の復旧は早かったが、水道がなかなか復旧しなかったのだ。しかも営業を再開したのは2軒だけ。そこには避難所で風呂に入れない被災者が殺到し、空き待ちで車の列ができた。

「それでお風呂に入りにきたついでに遊びたいというお客さんが多かった。だからお店もすごく忙しくて、(震災前は一日二〜三件だったのが)一日に五本とか六本とかついたりしてました」(チャコさん)

 さらに、客が女の子に求めたのは性的快楽だけではなかった。

「みんな癒やしを求めてましたね。お客さんの口から『癒やされたい』とか『心を落ち着かせたい』という言葉が出ていました。だから私もそういう人たちを癒やしてあげたいなって……。髪を洗ってほしいと言われて、洗ってあげたりとかしましたね」(ラブさん)

 話を聞く、肩を揉む、髪を洗う、全身を洗うなど、性感サービスに限らず、相手に求められることをやったのだという。

 チャコさんは、1階が津波で完全に破壊されたアパートの2階に呼ばれたこともあった。

「家を流されたり、仕事を失ったり(中略)家族を亡くしたという人もいましたね」

 両親と妻と子供を一度に津波で失った30代後半の男性客は、チャコさんにこう打ち明けたという。

「どうしていいかわからない。人肌に触れないと正気でいられない」

■取材協力/小野一光(ノンフィクションライター)

※週刊ポスト2016年3月11日号

祈りの場所

大震災発生の翌月に、京都駅から車で陸前高田を目指したのが、初めての東北でした。
その時は、声にならないため息ばかりと、言いようの無い緊張感に全身が包まれました。
カメラを持参したわけでもなく、当時の携帯で撮影をしようとも思えず。
また当時はボランティアをしたとブログに書くのもどうかとも思っていたり
自分なんかが、東北の現状を伝えるのはおこがましいと思っていたので
陸前高田にご友人がおられるブロ友さんに個人的にお伝えする程度でした。

さて、自分の思い出話しなんかをする意図はないんですが
1年目の前半は岩手の陸前高田と大槌、遠野の避難所でした。
自衛隊などが重機でとりあえず確保された道路以外は、すべて津波流出物、いわゆるガレキで埋め尽くされていました。
現地に着いた時、誰が言うともなく、自然に誰もが町に向かって手を合わせていましたし
ボランティアの活動をする場所に行く間に、時折、花が手向けてある場所や
津波で流されたのではなく、後から置かれたであろう
子どもが好きなキャラクターのぬいぐるみなども目に入ると、そこで足を止めて手を合わせ。
また作業開始前にも町や海に向かって黙とうしていました。

ガレキが取り除かれていくと、それまで、ガレキの中の建物として見えていた、津波に残った鉄筋コンクリートの建物が次第に浮いて見えるようになっていきました。
そして、それらの場所に花が集中しはじめ、祭壇もできていきます。
そこには国内外の様々な宗教の礼拝対象物や塔婆、像、千羽鶴、人形、飲みもの、食べ物などが
置かれていき、次第にその場が祈りの場所になっていきました。
その場所は、亡くなった方々がおられた建物でした。

まる1年が過ぎて、次第にガレキがほとんど撤去されていくと
残った建物だけがポツン ポツンと存在していましたが
そこが祈る場所だということには変わりませんでした。(主観的に)
また、建物に限らず、歩いている道、見えている町のすべての場所で
数百 数千の方が亡くなった場所でもあり、今もそうですが、やはり緊張感があります。
そして、遺構という言葉が使われはじめ、存続か解体が言われはじめます。

その遺構の候補も次第に解体されていき、盛り土がなされていくと
私たちのような県外の人間には、祈る場所として意識する場所が無くなっていくように感じていきます。
もちろん、遺構だけが祈りの場所ではありませんし、また追悼ための施設や墓碑などは別です。
また、「被災地」とは言いますが、普通の町だった所で、すべてを祈る場所として捉えて良いのかも分かりませんが
県外の者がそこを訪れる時、少なくとも祈るということが、心から発してくるんです。
陸前高田でいえば、一本松や高田町の海の家などが保存されていますが、そこでは手を合わせることはないです。
その前に高田の松で作られた追悼施設があるので、そこでは手を合わせますが
気持ちとしては、町の中や海に向かう時に自然に手が合わさったり、心で祈ります。

あの津波の写真や映像、その後の現状を実際に目で見て、声なき悲鳴が聞こえそうな現状と
嘘のような穏やかな海が目に焼き付いているので、どうしてもそういう気持ちになります。
それは建物が無くなった跡地も同じ
宮城沿岸部や福島の南相馬や浪江、双葉でも同じでした。

実は、東北に行く5年前まで、神戸などに行くことがあっても
1月17日以外で、そこで祈るという気持ちを忘れていたことに気がつきました。
その賑わいに惑わされてしまっているのかもしれません。

被災した地域の復興が進んで賑わいが復活しだした時
「みんなに笑顔が戻った」となって忘れてしまわないか
そんなことは忘れて、笑顔と賑わいが戻ればよいのか
それとも、そもそも祈る場所ではないのか
そこに眠ってなんかいないのかもしれませんし
生まれ変わっているのかもしれませんし
宇宙に溶け込んでいるのかもしれませんが
いずれにしても、個人としてはそこで何があったのか忘れることはないので
さしでがましいと批判されても、祈る場所が無くなっても
また心の中であっても、そこに行けば祈るということは自然な気持ちとしては忘れないでしょうね。




大切なこと。

どうしても、私たちは、テレビやネットにあふれる「ざっくりした」情報とやらに囲まれて生きています。

だから、どうしても、感覚や良心が鈍感になっていく。

24時間テレビみて、障がい者のかたが必死に生きている姿を10分みて、感動して終わり。

その人たちが、24時間、365日かける何十年生きている毎日に触れる「持続」を「感動」は奪い去っていきます。

「持続」は、「幻滅」「あきらめ」、そして、それでも、これならば、続けていけるかなという「いのちのかすかなともしび」として現われるのです。

目に見えることに、その場で反応し、感動したり、悲しくなったりすることは
まあ、それはそれで大事でしょう。

しかし、ほんとうの真実というのは、「大声で叫びません」「3Dで派手に登場しません」

草のなかに、三輪車がありました。

あの三輪車は、そこにあった家のお子さんの三輪車です。

ずっと離れたところに流された三輪車を、ガレキのなかから、ご家族が見つけ

別の家とかのガレキで一杯になっていたところから

自分の家があったところの、基礎のコンクリートを見つけ、三輪車を、もとあったところに、おいたのです。

ほんとうの、悲劇は、とても、声が小さいです。

それを聴き取る耳を持つことが大事です。

もちろん、そこで何があったのかの、細かい話などは、知ることはなかなか難しいです。

しかし、小さな声を聴き取る耳は、少し静かに考えてみることで、感覚が磨かれていきます。

あれっ、しげみの中に三輪車が。

乗っていた子どもはどうしただろう。

被災地には、そういう「事実が刻みつけた傷、痕跡」が、たくさんあります。

テレビとか、YouTubeで見た映像という、「自分」をそこで出して

「ああ、知ってる。テレビでみた」とかいう反応は、消したほうがいいと思います。

なぜならば、その反応は、目の前で、いろんな事実が押し寄せてきているのに

それを見るチャンネルを切断してしまい、新しい、また、リアルな事実を

自分のなかに、蓄積することを阻むからです。

いつまで経っても、自分は今までの自分のままです。

黙祷

祈ります。

今日もいつも通り祈りますが
3月11日は、この時間帯に気持ちが寄ります。
地震発生後20分から30分前後に大津波の一波が到達しはじめていきました。
夜の7時過ぎまで、六波 七波と津波は押し寄せた地域も。

地震 倒壊 津波 火災 土砂崩れ 原発事故 その後

津波から避難できたのに
寒さで亡くなった方
移動中に亡くなった方
避難所で亡くなった方
自宅で亡くなった方
仮設住宅で亡くなった方
原発事件によって亡くなった方
風評で追い詰められた方
独りで亡くなった方

言葉にできない、悲しみ、苦しみ、悔しさ、不安、怒りを抱えながら今を過ごす方
我慢に我慢を重ねて過ごす方
がんばって がんばって がんばってきた方に

何もできないですが、せめて追善と、日々の安穏を祈り続けることだけでも。

【時間指定投稿】




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