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12日に中国 天津で起きた、大爆発事故。
114人の方が犠牲になりましたが、そのうち大半は消防士でした。
ここで取り上げたいのは、日本のメディアは、中国の人々のこういう姿を報道することが、ほとんどないということです。
偏見をどんどんと刷り込まれていってます。
これも報道されませんが、こうした事件事故が発生した時の、中国政府、自治体の対応は早く、補償も迅速です。
四川大震災でも、とても早く復旧復興させましたし
中国の社会保障は日本の比ではないです。
(写真はCCTVページより転用)
天津港“8•12 ”特別重大火災爆炸事故
我为你默默地祈祷冥福 一路好走
願逝者安息,生者堅強!
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要談「海外被災地」
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ネパールのフェアトレード団体からのメッセージ(2015.5.1) 【ネパールのこと】 この本の英語版は現地で購入可能です。日本語版出版(明石書店、矢野好子訳)されています。 |
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まずネパール政府への批判ではないことを前置きしておきます。
世界中の紛争や自然災害に対して、募金をするくらいが精一杯の私たちですが
ネパール大震災についても同じ。
特に日本時としては地震災害に対して、同苦の心が沸き立ちます。
なにもできないけれど、色々と考えて、今後の糧とすることはできるかもしれません。
●ネパール政府は外国の捜索、救援隊をこれ以上派遣しないように伝えたと、4月29日に報じられました。
現地で取材している日本人ジャーナリストの中には、ネパールの人々にそのことを伝え、国民は怒っていると報じたものも。
ネパール政府は〈十分な人数の救助隊員がいる〉ということがその理由だそうですが
空港は小さく滑走路が一本、十分に舗装が届きわたっていない道路事情、王政から共和国に以降してまもない政治状況、色々な背景を考えれば、キャパシティは限界があり、伝えられる情報では、運良く着陸できても、支援物資をどこで誰に渡せばいいのか把握できない。
支援チームがどこに行けばよいか分からない、行き先が決まっても、どの道路が仕えるか分からない
ネパールを知る人には用意に想像できることだとのこと。
そういうことから、ネパール政府が言う「十分な人数がいる」というのは、そう言わざるえない方便なんだと察してしまいます。
情報収集や手配、マッチングに対してパニックになっている中、次々と世界中から善意が集まっても、受け入れてさばけないのでは。
政府、行政などの担当者の中にも被災された人が多くおられることも想像できます。
しかし、今 この時もガレキの下で、瀕死の中、生きたいと願いながら、救助を待つ方がおられるかもしれないと思うと、胸がしめつけられる思いがします。
●そうしたネパールの対応に接すると、東日本大震災発生直後の4年前を思い起こします。
被災自治体の中には、大槌町や陸前高田市、南三陸町のように、役所が被災した地域も少なくなく、県庁も政府も災害の状況の全体像をまったく把握できていませんでした。
支援の要請が次々に寄せられる自治体もあれば、まったく連絡が取れなかった自治体もありました。
私たち県外の者には、現地入りやボランティアはまず控えてほしい、現地が受け入れられるようになってからに、ということがメディアからも再三通達されていました。
これが、大災害ということですね。
目前の要請に対応するだけで、双方の現場はクタクタになり、各地で陸の孤島が生まれたり、激甚被災地がどんどん後回しになっていき、メディアでは取材が入れる地域から繰り返し伝えられ、偏ってしまいました。
個人的にも、それまで東北に土地勘がまったく無かったので、3月11日に多くの被災した地名を覚えることになりますが、メディアから伝わっていたことでは「陸前高田市」がとても甚大な被害を受けた、という印象が当時あり、たまたま同じく陸前高田が大変らしいから行きます、という方々と同じ車に乗せてもらい、陸前高田を目指しました。
すると、同じ印象を持って来た全国からのボンラティアが陸前高田に集中し、大型バスだけでも数十代が停まっており、その他の車は数え切れないほどでした。
多くの方が亡くなった陸前高田市社協によるボランティアセンターも、見ているだけで気の毒なほど忙しくしており、マッチングが追いつかない状況で、大船渡へ、釜石へ、大槌へ、とさらに目指して行く人が増えました。
発災から一ヶ月でもそういう状態でした。
●私たちとって記憶にも新しい、昨年の広島市大規模土砂災害の時の支援のあり方について、多くを考えさせられることばかりでした。
在宅緩和ケア、地域医療から世界の保険機関まで広いフィールドで活動されてきたある医師はこう語ります。
たぶん、いまのネパールも同じ状況です。必要なことは、この大災害に対応するオフィシャルかつ専門的な体制を国際機関の協力のもとに整えることなんでしょうね。ネパール政府は援助慣れしているので、もう準備が進んでいると思いますが・・・。 災害発生時、私たちが学んだことは、何をするべきか、を考えるのではなく、何をしてはいけないか
を学ぶことです。
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東日本大震災発生後にも掲載されていましたが
今回のネパールでの大震災発生前と後の名所旧跡の状態です。
カトマンズやバクタプルなどの寺院、仏塔、旧王宮広場など
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今日は、東日本大震災と東電の原発事件の発生から、3年10ヶ月となりました。
2010年1月12日(日本時間13日6時53分)、中米 ドミニカ共和国の隣の国、ハイチでM7の巨大地震が発生し、亡くなった方は32万人近くにのぼり、被災者は200万人以上とスマトラ沖大地震と並ぶ、空前の大震災となりました。
中米となると、あまりにも遠くて、国境なき医師団に募金をするくらいしかしていませんでしたが、ちょうど1年後に、大阪の枚方でハイチの大震災を支援するチャリティコンサートを共催したのが、唯一の活動でした。
その翌月にクライストチャーチ大震災が、その半月後に東日本大震災が発生。
ハイチでは今も8万人がキャンプ生活をおくらざるえない状況で、復興の状況は非常に厳しく、今後も十分な支援や復興はできないとの報道もあります。
来週は阪神淡路大震災の発生から20年目となりますが
未だに地震発生直前の地響きが耳に残っています。
東日本大震災以前は毎年、その時のことや、神戸に物資を届けたことなどを書いていましたが、段々と、東北・北関東の被災沿岸部の方々の苦悩を思うと、何年目 何年目 ということに、あまり意味を感じなくなりました。
年月を経るほどに、苦しみ 悲しみが取り除かれるわけでもなく、元の生活に戻ることもなく、むしろ、被災したことが、人生を変えてしまった それぞれの 今 と接することで、何年目であるということに意味を感じなくなってきました。
年月を経た今がどうかが大事だなと。
阪神淡路大震災発生20年を前に、大阪でも報道が増えてきました。
でも、1月18日からは、また何もなかったようになるのでしょう。
20年を経た今も、“震災”は続いています。
しかし報道が解決してくれるわけでもなく
なにか虚しさしか感じられなくなってしまいました。
阪神淡路大震災が発生したのは、1995年
その100年前の1896年・明治29年「明治三陸大津波」が発生
巨大地震が引き起こした巨大津波によって、2万人を超える犠牲者を出しました。
明治三陸大津波で思い出すのが、柳田國男
柳田著の「遠野物語」では、岩手県山田町田の浜 の福二の話しなども記述がありますが
彼はこの大津波発生から25年後の1920年・大正9年、被災した三陸を旅しました。
その時のことを新聞のコラムに「廿五箇年前」 二十五箇年前と題して掲載しましたが
3年後に「雪国の春」を出版した際、「二十五箇年後」と改題しています。
「前」から「後」に一文字の変更ですが、25年前の津波の悲劇から、25年後の現在にこそ意味があるとの大きな変更だと捉えられます。
雪国の春では有名な高台移転の問題の記述もありますが、復興には科学的な部分と精神的な部分とがきちっと向き合っていくことが重要であると、訴えているようにも思いますが 考えてみれば、方丈記の時代から同じ教訓が訴えられ続けているようです。
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