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東京23区の9割の面積の石巻市
津波大震災では、最も多くの方々が亡くなった市であり
最大の被害が出た市です。
仙台に次ぐ都市であり、名前も有名で、多くの支援を受けましたが、復旧、復興の情報が乏しいという実感が内外にあり
小泉改革、平成の大合併のひずみで、大震災の象徴的事件がいくつも起きました。
2011年、大津波の被害を受け、避難される方が日々増えて、避難所の数は市内で259ヶ所に。
雄勝半島、牡鹿半島や北上側流域など、10年前に石巻市に合併された旧群には、陸の孤島が多く生まれました。
もともと石巻市であった、いわゆる中心部と、旧群部との格差は、人々の注目度に比例して
大きく開いているという実感が、大阪に住む私でも感じます。
ある市職員の証言によると、大きな被害があった南浜地区で、津波で家が流され
屋根と棟だけが別の建物にあたって残った、その屋根の下で、避難所に行かずに暮らす家族がおられました。
支援の手が届かず、飲まず食わずで過ごしていたその家族はなぜそこに留まったのか。
その連絡を聞いた職員は、翌朝その屋根のある家族のもとに物資を持って行きました。
避難所に行くように説得すると、家族が津波でバラバラになった、家族はこの屋根を見て帰ってくるかもしれない、と訴えました。
職員はそこで初めて、避難所に行きたくても行けない人がいること、物資を避難所に届けるだけではいけないことに気がつきました。
家の一階を津波で抜かれて、残った二階に暮らす人もいるだろう、など、在宅で避難生活を送る人が
かなりの人数で絶対にいると確信し、災害対策本部に「在宅で避難している人がかなりいる、早く把握しないと大変なことになる」と提案しました。
在宅避難者は、石巻市全体で6万人以上と分かりました。
しかし、当時の市の防災計画には、在宅避難者の支援のことが、なにも決められていませんでした。
物資を避難所に届け、それをさらに在宅避難者にも届けてほしいと願い出ましたが
避難所にいる人は、受け入れる人、掃除係など、避難所のルールを作って、そうしてルールに基づいて集団生活を送っていました。
避難所のルールに参画しない人に物資を供給することは難しいという声が出てきます。
そこで、市の職員の人たちは、指定避難所以外に避難者が集まっている所には物資を届けることにしました。
しかし、それでも、同じ被災をしながら、支援が受けられず、いわば見向きされなかった方々が多くいること、さらには、同じ被災者でありながら、在宅ということで、避難所の支援を強いられ、帰宅後は電気も灯油も無い中、震えながら夜を過ごした方々がいたことを知っていかねばと思います。
石巻市が、防災計画を見直し、在宅避難者にも、避難所と同等の支援をすると
地域防災計画に明記したのは、昨年の12月です。
災害が発生すると、混乱の中で、住民の状況を把握するのは時間もかかり、大変な状況が予想されます。だからこそ、教訓から学び、様々な手を事前に打っていく必要がありますが
在宅で避難生活を送る人には、防犯や離れた家族を待つ人、病気や障がいがある家族がいるなど
それぞれの理由があり、行政は区別することなく、支援をする体制作りをお願いしたいものです。
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要談「石巻市」
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「あの日 わたしは」から
石巻市にあった、精神科 恵愛病院
2011年3月11日の大津波で、24人の患者と3人の職員が亡くなられました。
また津波襲来後、支援が届かず数日孤立しました。
同院で看護部長を務めていた女性
『必ず、どんな状態でも生かす努力をするのが私たちの役割なのに
それをできないで・・・手放さなくてはならないのは、大変なことでした」
多くの命を失われたことで、震災後も苦しみ続けました。
あの日、病院には115人の患者がいました。
地震発生後、職員の方々は、患者を一階から二階へ避難させようとしていました。
50人ほどが集まっていた一階の広間にいた、看護部長だった女性は
窓の外を見て異変に気付きます。
『津波がやってきたんです。
本当に中庭から見ると、上から波が降りてくる感じでした』
黒い水が窓を突き破って流れ込み、天井近くまで達します。
患者や職員たちは、浮いたり、沈んだりしながら、互いに声を掛け合いました。
しばらくして、水が激しく引き始めました。
水の中には、まったく動かなくなった患者が20人以上いました。
全員を助ける時間はありません。
女性は決断を迫られます。
『あきらめる人と、今すぐ助ける人との、区別をつけなくてはならない・・・
「どうしますか」と言われた時に、やはり、それを判断するのは自分だと
若い人には、そういうことをさせられないなと思って
1人でも多くの人を助けるためには、諦めなくては いけない人もいると・・・』
強烈な引き波の中で、女性は息がある患者を二階へ運ぶ指示を出します。
一方、助かる見込みが少ないと思われる患者の手を離さざるえませんでした。
『手を離すと、すごい勢いで流れていくわけです
本当に断ち切られる、という感じでした。』
その後、女性たちは生き残った患者たちを、市街の病院へ順次転院させることにします。
3月末に、すべての患者の移送が完了したあと病院は閉鎖
女性も退職します。
あの日の出来事は、女性を苦しめ続けました。
女性は人と会うことを避け、毎日、近所の道をひたすら歩きました。
『生きてていいんだろうか、取り返しのつかないことを
自分がしてしまったような、そんな気持ちで・・・・』
1年後に転機が訪れます。
知り合いに誘われ、デイサービスで働きはじめます。
そこからは、元の職場の病院が見えます。
『進みたい という気持ちかな
あとは、声をかけられたのが、一番大きいと思います。
病院の跡地を、毎日、出勤の度に見られることで
私としては、亡くなった方たちに、(祈り)の気持ちを告げられるっていうか
そういうチャンスをいただいたことに、今になって感謝しています。』
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テイラー・アンダーソンさん、10代のころから日本に憧れを抱き続け、2008年にアメリカから来日。
英語指導助手ALTとして「外国青年招致事業」で、万石浦小学校に派遣されました。
2011年3月11日午後、津波警報が鳴り響く中、アンダーソンさんは、小学校に残り
教え子を全員親に引き渡すまで、津波の恐怖から逃げませんでした。
そして、最後の1人を親御さんに引き渡してから、自転車で高台に逃げる途中に津波にのまれ
亡くなりました。享年24歳
「青い目のおなご先生」その後に「夢を生きる」というドキュメンタリー映画が製作され
石巻でも上映されました。
石巻市で震災の津波の犠牲となり亡くなった米国人英語指導助手テイラー・アンダーソンさん(当時24)の父親アンディーさん(57)と母親ジーンさん(同)が12日、同市を訪れた。鹿妻小学校ではテイラーさんの指導を受けた児童たちと、思い出を共有した。 |
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貧困にある子どものために、全国に広がりつつある「こども食堂」
石巻の貞山(ていざん)にもこのほど運営が始まったとの報道がありました。
大震災発生後の課題も包摂している点でも、ブームに乗った形でないことがうかがえます。
県内初の「子ども食堂」 食事で居場所づくり石巻市内で生活困窮世帯向けの学習支援を行うNPO法人TEDIC(テディック・門馬優代表理事)は、子どもたちの孤食を防ぐため、県内初となる「子ども食堂」の運営を始めた。初回は2日に貞山会館であり、小学生から年配者まで幅広い年代が一緒に夕食の時間を共有した。「子ども食堂」は孤食解消だけでなく、震災後の課題である地域コミュニティー形成の新たな手法としても注目を集めそうだ。 |
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もうすぐ5年と言うタイミングですが、「毛布」なんです。 5年だからこそ、「毛布」なんです。
ご存知のように仮設住宅は、「プレ協」と政府、自治体の提携で、
迅速に、大量に、建設することが出来ます。 ただし、それをずっと保管しておかねばならない経費などがうわのせられて、
一部屋600万円〜700万円します。 今回の震災で、日本工務店サポートセンターなどが、
地元の製材所と、大工さんを結んで、 保管費0、切り出して、その場で加工・製材し、 地元の大工さんが建てるというかたちで、 かなり、木造仮設住宅ができました。 しかし、基本は、あの、全国どこでも一律同じの、
工事現場のプレハブです。 東北の寒冷地では、結露、結氷などが、「普通に」でてきて、
狭く、寒々、じめじめとした、プレハブのなかで暮らしていくわけです。 また、円安や、オリンピック需要もあり、
例えば、コンパネの値段が、10倍とかにあがったりで、 家を建てるにも、建設費が高騰、 また地価が高騰しています。 若くて、仕事が見つかった方などは、
仮設住宅から出て行かれていますが(それでも膨大な借金です)、 この段階で、仮設住宅に残っておられるかたは、 かなり、生活がきつくなっておられるかた、 高齢者のかた、障がいがあるかた、 また、長引く仮設生活で、慢性疾患を抱えるようになったかたが、 どうしても、高率になってきます。 もう、4年間も、同じ毛布で寝ています。
じめじめとしたところで。 そんな毎日を想像して、私たちも、なんらかの支えになれないものかと思います。
新しい毛布、未使用な毛布、また、使用していてもクリーニングに出した毛布を、お願いいたします。 送り先などは当ブログまで問い合わせください。
なにとぞ、よろしくお願いもうしあげます。
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