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再三にわたる除染要望にも
農業用ため池ダムの除染をしないのは 汚染物資が水底に沈殿し、水は放射線を遮へいするから、周辺環境への影響はないと言ってきましたが それは建前で 福島民報の記事にあるように 環境省と農水省の縦割りがさせなかった。 ため池ダムは農水省 除染は環境省 三年過ぎてやっと調整がついてきたと。 東京で同じことが起きたら、三年間も放置しないでしょうに。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140322-00000035-fminpo-l07 上記URL 福島民報の転載 復興庁は21日までに、福島県内の農業用ダム・ため池の除染を「福島再生加速化交付金」の対象事業に加える方針を固めた。底土の放射性セシウム濃度が高い中通りと浜通りの計1000カ所程度が対象となる見通し。県や市町村が実施主体となり、今秋から本格的に作業に入る。汚染状況に応じて、放射性物質の除去や底土の流出防止措置などを講じる。 復興庁は、一般廃棄物処分場で処理できない1キロ当たり8000ベクレル超の放射性セシウムが底土から検出される箇所の除染を交付金の対象とする方向で検討を進めている。 県と農林水産省は今年度、県内の農業用ダム・ため池3730カ所のうち1940カ所で放射性物質検査を行った。その結果、会津地方を除く中通りと浜通りの558カ所の底土から、1キロ当たり8000ベクレル超の放射性セシウムが検出された。復興庁は未調査箇所も含め、除染の実施対象は1000カ所程度になるとみている。 底土を吸い上げて洗浄し、放射性物質濃度の低い砂だけを水中に戻したり、底土をセメント材で固め、汚染されてない土で覆ったりする作業を想定している。 同庁は今月中にも、県や市町村から除染の事業計画受け付けを開始する。 一方、農水省は県内約30カ所のため池で実施している実証事業を基に、除染の工法をまとめたマニュアルを作り、県と市町村に配布する。 農業用ダム・ため池の除染をめぐり、県は「住民帰還後の営農再開や農産物への影響が出かねない」として、再三にわたり国に早期の実施を要望してきた。しかし、除染を所管する環境省は「ダムやため池の水には放射線の遮蔽(しゃへい)効果があり、周辺環境に与える影響は小さい」として、除染対象として認めていなかった。 田村市都路町で4月1日、東京電力福島第一原発事故による避難指示が旧警戒区域で初めて解除される。住民帰還が進めば営農再開の動きが活発化すると予想され、復興庁が環境、農水両省との調整を急いでいた。 ◇ ◇ 「福島再生加速化交付金」は政府の平成25年度補正予算で創設された。26年度当初予算と合わせて約1600億円を計上している。 |
要談「福島県 全般」
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東日本大震災、東電の原発事故に関する情報で、一方的なものを短絡的に信じて拡散することで、二次三次の見えざる災害が発生していると、肌で感じる毎日。
たとえば福島県の子どもの甲状腺ガン発生率では、アウトブレイクをひた隠す、国、県、大学、企業、という構図。 そういうことを県外から拡散することで、福島県に暮らす子どものいる家庭で、何が起きているか、想像力を働かせてほしい。 しかし、原発事故が原因であることが低いことを、他県で健康調査するこで証明することが、本来福島県の子どものためだけど 他県の子どものためには、周囲と社会からの偏見が考えられ、のしかかる健康調査費負担、生活の質などQOLの低下、さまざまなことを考え、さまざま立場の方の話しを伺うと本当にむつかしい。 どちらにしても、そういうことが、Twitterなどでワンクリック、タップで簡単に拡散されている現実が怖い。吐き気さえします。 自分で考えること 慎みをもった行動で、静かに語る必要を感じます。 センセーショナルに撒き散らすことで、過去にどんな結果をもたらしてきたか。 沖縄基地、ガレキ広域処理、放射性廃棄物処理場、福島県の子どもの健康 に対する私たちの眼差し、根底に流れるものへ、人々の顔を思い浮かべ、想像力を多いに働かせたいものです。 |
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http://sp.mainichi.jp/select/news/20140301k0000e040233000c.html
【毎日新聞デジタルから】 福島県立高校(96校)の大半で卒業式が1日あり、1万5050人が巣立つ。県立双葉高(双葉町)の卒業式は午前10時から、いわき明星大(いわき市)内のサテライト校の講堂であり、前生徒会長の山本未来(みき)さん(18)が卒業生34人を代表し「別れのことば」を述べた。 ◇「別れのことば」 福島県立双葉高校第66回卒業生代表 山本未来 今こうして顧みますと、高校での3年間の生活は短く、一瞬の出来事のようでした。 千年に一度と言われた東日本大震災と、それに伴う東京電力福島第1原発の事故により私たちの生活は一変してしまいました。今まで耳にしたこともないサテライト校という特殊な教育環境で高校生としての第一歩を踏み出したのは5月9日のことでした。 双葉高校での生活を楽しみにしていた多くの仲間たちが県内外の高校に転学していき、制服もなく、入学式も経験していない中の40人のスタートでした。 中学生の時に思い描いていた高校生活とは、あまりにもかけ離れた日々が続きました。 慣れない土地での生活。少人数のクラス。行事の少ない学校生活。精神的に追い詰められた日々。 当然、私たちも迷いました。悩みました。 でも双葉高校に残ることで何かが見えてくるのではないかと思い、残ることを決意しました。県内4カ所に分かれていた私たちが初めて顔を合わせたのは、本宮総合体育館でした。その時、先輩たちは離ればなれになっていた先生たちや友人との再会を喜び合っていましたが、初対面の私たちは戸惑いを隠せずにいたことを覚えています。 2年生に進級し、双葉高校はいわき明星大学に集約され、初めて私たちは同じ教室で学ぶことができるようになりました。1年間離れていた日々を埋めるように打ち解け合い、同じく集約された双葉翔陽高校、富岡高校との3校合同球技大会などで、その絆はさらに深くなりました。また、遠足や3校合同ステージ発表会などの行事が増え、やっと高校生らしい生活を送れるようになったという喜びはとても大きいものでした。愛媛県の方々の温かいご支援により実現した修学旅行は、みかん狩りやぞうきんがけレース、そして八幡浜高校との学校交流は忘れられないものとなり、ひと味違った心に残る修学旅行となりました。4日間寝食をともにし、仲間との友情を再確認したことは言うまでもありません。 声を限りに応援した夏の高校野球大会。最後まであきらめない野球部のみなさんの姿に感動しました。ボランティア部と生徒会で、お世話になっているいわき市への恩返しとして始めた清掃活動では、先輩方にも活動の輪が広がり、とても充実した活動となりました。そして創立90周年の記念事業の一環としてクラスごとに挑戦した自主映画製作。シナリオから編集まですべて行うのは、受験を控えている立場から考えるととても心配でした。最初のシナリオから壁にぶつかり、その不安は大きくなるばかりでした。しかしその壁を乗り越えると意外にも作業が進み、撮影が終わるまで短く感じました。上映会でも各クラスの完成度の高さに驚くばかりでした。すべての生徒が協力し合って完成させた作品を見て、双葉高校が一つになったと感じた瞬間でした。 この3年間、辛(つら)かったことも、楽しかったことも、悲しかったことも、私たちにとっては何物にも代えがたい大切な思い出という宝物になりました。そして、その思い出の中には、いつも、いつも、仲間たちがいました。ともに笑い、ともに涙を流した友がいました。一生に一度しかない高校生活を、この双葉高校で、人数は少ないですが最高の仲間たちとともに過ごすことができたこと、私たちはずっと忘れません。お互いに支え合い、競い合ってきた仲間がいたからこそ、今日、そろって晴れの日を迎えることができたのだと思っています。 在校生のみなさん、困難な状況の中で、私たちとともに双葉高校に通うことを決意してくれたことを誇りに思います。平成27年度より生徒募集は停止する、と県教育委員会よりの発表がありました。今後、双葉高校は単独校としての存続は難しくなりました。でも周りにはかけがえのない仲間がいます。支えてくださる先生方がいらっしゃいます。仲間たちとの絆を深め、毎日を大切に過ごしてください。応援しています。 私たちはこれから自分たちが選んだ道を進んでいきます。この双葉高校で培った質実剛健、終始一貫の精神を胸に、堂々と社会の荒波に立ち向かっていく覚悟です。人として、また双葉高校の卒業生として恥ずかしくない人生を一歩一歩確実に歩んでいく覚悟です。 最後になりましたが、本日、私たちの卒業式にご臨席くださいました来賓のみなさま、3年間、時には厳しく、時には温かく、情熱的にご指導くださいました校長先生はじめ諸先生方、本当にありがとうございました。私たちの進路希望実現のため、校長先生自ら面接指導をしてくださいました。本当にありがとうございます。私たちのわがままを温かく見守り支えてくれた両親と家族。そして私たちを受け入れてくださったいわき明星大学と地域のみなさまに感謝申し上げ、別れのことばといたします。ありがとうございました。さようなら。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 震災以来、一度も、自分たちの高校(中学校)の校舎で授業できず、 仮設校舎で、授業を受けることができなかった 高校生・中学生が今春、卒業します。 |
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今日、2月22日は、クライストチャーチ大震災が発生して3年目の日。
前年の9月に起きた地震の余震でしたが震度6を観測しました。 当時は新燃岳噴火、口蹄疫被害など災難が続き、この三週間後に東日本大震災、東京電力原発事故が発生。 その東日本大震災が発生した同じに日起きた福島県白河市の土砂崩れ。 それを報じる河北新報の記事を紹介させていただきます。 【河北新報から転載】 記事中の日付けは2011年 証言/「埋もれた災害」 土砂崩れ後の白河市葉ノ木平地区を上空から撮った写真。中央の山の斜面の土砂が崩れ、住宅をのみ込んだ=3月14日(国土交通省提供) 豪雨で吉津さん方に押し寄せた土砂=8月6日、福島県只見町熊倉 福島県には東日本大震災の津波被害と福島第1原発事故に隠れ、クローズアップされなかった災害が幾つかある。大震災当日に起きた白河市の土砂崩れはその一つで、13人もの死者を出している。7月の新潟・福島豪雨でも、奥会津地方が大水害に見舞われた。当時の関係者の証言を集め、「埋もれた災害」を再現した。(菅野俊太郎、勅使河原奨治) ◎白河・土砂崩れで13人犠牲/震災直後「山が動いた」/住宅10軒、木っ端みじん 「山が動いた」 白河市葉ノ木平地区の飲食業渡辺敏勝さん(58)は3月11日午後2時46分、激しい揺れに自宅を飛び出し、庭の植え込みをつかんだ。近くの電線は波を打ち、住宅のプロパンガスのボンベが次々に倒れた。 揺れ始めから30〜40秒後、地鳴りのような重低音がとどろいた。自宅の約200メートル先で、山の杉の木がメトロノームの針のように左右に大きく揺れながら滑り落ちた。 土砂が幅100メートル、高さ約40メートルにわたって崩落した。体積は約7万立方メートルに及ぶ。「バリバリ。バリバリ」。瞬く間に10軒の住宅を巻き込み、木っ端みじんに砕いた。 土砂は住宅を挟んで反対側の山を約6メートルさかのぼって止まった。辺りは舞い上がった杉の花粉で煙が立ちこめたようにかすんでいた。 <生存絶望> 発生直後から消防、警察、自衛隊、建設会社の関係者が24時間態勢で、土砂に埋まった家の住人を捜索した。住宅の柱は粉々。自動車も厚さ約30センチまでぺしゃんこになっていて、生存は絶望視された。 遺体を傷つけないよう重機で土砂の表面を少しずつ削り取った。土砂は押し固められ、スコップで掘り返す手作業は難航した。 発生2日後の13日、最初の遺体が見つかった。23歳と19歳の姉妹で、土の中で重なり合うようになっていた。その4日後には6歳の男の子と一つ下の妹が発見された。西郷村に住み、葉ノ木平地区の祖母の家に遊びに来ていた。捜索に当たった消防団員は「遺体の損傷が激しく、見るのがつらかった」と振り返る。 13人目の遺体は3月23日に発見された。77歳の女性で、約1キロ離れた自宅から散歩に来て被害に遭ったという。 葉ノ木平地区は里山に挟まれた谷間に位置する。福島県の調査で、崩れた山は、固い粘土層の上に火山灰層が載っていたことが判明した。1998年8月に県南地方で最大1200ミリの大雨が降った際も異常はなく、県の地滑り危険箇所の指定を受けていなかった。 <最大惨事> 地震の強い揺れで、火山灰層が粘土層の上を滑り台を滑るように崩れ落ちた。県南建設事務所の小野保夫河川砂防課長は「激しい揺れが土砂崩れの原因とみられるが、同じような地質の場所が県内のどこに分布しているかは崩れるまで分からない」と言う。 白河市の土砂崩れは大震災の土砂災害では最大の惨事だった。津波被害と原発事故が前面に出たことで、犠牲者の遺族は置き去りにされた感を抱いている。遺族の一人は「ここで大災害があったことを忘れてほしくない」と訴える。 ◎新潟・福島豪雨/濁流一帯覆い尽くす/只見川が浮き上がった 「こんなにひどくなるとは思わなかった」 福島県只見町熊倉の農業吉津政勝さん(80)と妻芳江さん(71)が振り返る。7月29日、新潟・福島豪雨により裏山で土石流が発生し、築100年以上の自宅や水田が土砂に埋まった。 土石流は裏山の沢が引き起こした。7月26日に降り始めた大雨で増水し、土砂を押し流した。同居する長男夫婦は仕事で不在。2人の小学生の孫を連れ、膝まで水に漬かって隣の集落に避難した。 翌30日、車に乗せられて家に戻った。土砂は家に押し寄せ、車をのみ込んでいた。「岩や泥でぐちゃぐちゃだった」。がくぜんとした。 <雨量680ミリ> 熊倉地区は十数軒の農家などが点在する。只見川の支流の伊南川沿いにあり、吉津さん宅の裏山の沢水も伊南川に注ぎ込む。只見町では7月27日午後1時〜31日午前0時に680ミリの降水量を記録。土石流の他、伊南川が氾濫し、大部分の住宅が損壊や床上、床下浸水の被害を受けた。 吉津さんは今、町内にある長男の妻の実家に身を寄せている。「元の家には怖くてもう住めない」と移転を考えている。 新潟・福島豪雨は只見川流域に被害が集中した。堤防を越えて水があふれ、濁流と土砂が一帯を覆い尽くした。 只見町八木沢地区は只見川の百数十メートル西に位置する。全約25戸のうち約20戸が損壊したり、浸水したりした。田畑に被害のない家はなかった。 「29日午後から徐々に集落が水に漬かった」と区長の五十嵐一さん(64)。近くの家の家財道具を2階に上げる作業を手伝い、お年寄りに避難を呼び掛けた。 <集落孤立> 屋外では水が腰の高さまで来た。「只見川が浮き上がったように見え、怖かった」。自宅はやや高い場所にあったが、水は床上まで上がり、2階に逃げて一夜を明かした。 只見川に架かる橋が通れなくなり、集落は一時孤立した。住民は30日に自衛隊のヘリコプターで救助された。集落で死者やけが人は出ず、五十嵐さんは「これだけの災害で死傷者が出なかったのは奇跡だ」と語る。 水害は只見町より下流の金山町や柳津町にも広がった。金山町越川地区に住む元町長斎藤勇一さん(72)は「道路と住宅の境が分からないほど冠水した」と言う。 金山町は1969年にも集中豪雨の被害に遭っている。斎藤さん方を含め地区の住宅は約3メートルかさ上げして建てられたが、各住宅とも床から高さ2メートル近くまで水をかぶった。 只見川には水力発電用のダムが約10カ所設けられ、ダムを管理する電源開発や東北電力は豪雨を受けて放流した。両社は「適正だった」と説明するが、放流が水害を増大させた可能性を指摘する声も出ている。 [新潟・福島豪雨]7月26日から30日にかけて降った大雨で福島、新潟両県の県境を中心に大水害に見舞われた。福島県では只見川が氾濫。1人が行方不明になり、流域の只見町など1市8町2村で33棟の住宅が全壊、77棟が床上浸水した。JR只見線は只見川に架かる金山町の鉄橋3本が落ち、一時全線不通になった。現在も会津川口(金山町)―大白川(新潟県魚沼市)間は復旧のめどが立っていない。福島県によると、土木、農林業関係の被害は約250億円に上る。 |
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