琉球朝日放送 Qプラス 2011年12月7日放送 アーカイブ
http://www.qab.co.jp/news/2011120732485.html
1959年(昭和34年)6月30日、うるま市石川。コントロールを失ったアメリカ軍のF100ジェット機が、授業中の小学校に墜落。パイロットは脱出して無事だったが、小学生11人を含む、17人の尊い命が奪われた。
事故後、学校には慰霊碑が建立され、毎年6月には宮森の記憶を語り継いでいる。しかし、この事故から、わずか2年後に同じ型のジェット機が再び墜落したことを知っているだろうか?
1961年12月7日
米空軍嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット機が具志川村川崎(現・うるま市川崎)に墜落した。
死者2人、負傷者6人、家屋や畜舎が焼ける被害を出した事故。
地域の人たちは長年、事故を語らなかったが、2014年証言集「具志川・川崎ジェット機墜落から50年『記憶と記録』平和への願いを込めて」が完成した。
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「この冷やかな視線が すべてを物語っています」
東京写真記者協会(新聞、通信、放送など33社加盟)は24日、今年の優れた報道写真に贈る各賞を発表し、東京新聞の「沖縄の視線」が協会賞グランプリを受賞した。沖縄慰霊の日の「沖縄全戦没者追悼式」で献花に向かう安倍晋三首相に対して翁長雄志知事や関係者、子どもたちが視線を注いだ瞬間を捉えた。
受賞作品を含む約300点の写真は「2017年報道写真展」で展示される。期間と場所は12月19〜25日が日本橋三越本店(東京都中央区)、12月27日〜来年1月3日(元日を除く)が静岡伊勢丹(静岡市)、1月13日〜3月25日(休館日を除く)が日本新聞博物館(横浜市中区)。
昨年のグランプリは、リオ五輪 男子400m ボルト選手と競り合うケンブリッジ飛鳥選手
一昨年は、安法法案に反対するため国会議事堂前に集まった人たち
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沖縄の伊江島土地闘争が激化した1955年の住民側の記録「真謝日記」が、故阿波根昌鴻さんが残した資料群から見つかった。島を訪れた調査団に「(土地を)これ以上取られたら死あるのみ」と訴える場面など、住民の生の声が刻まれている。インターネットで資金を集めており、近く冊子として刊行する予定だ。(北部報道部・阿部岳)
土地を強制接収した1955年
米軍が伊江島に射爆撃場を建設するため、土地を強制接収したのは軍事占領下の55年3月。日記は翌4月28日に始まり、7月25日まで続く。
ノートの表紙には「日記帳 真謝区民 区長 大城幸藏」と書かれている。中には複数の筆跡があり、交代で現地の記録をつけていたことがうかがえる。阿波根さんが書いていたかは不明。
当時、伊江島住民が沖縄本島に出向き、窮状を訴えたため、調査団が相次いで訪れた。6月7日には琉球政府の法務局長ら17人が訪れた記録がある。
住民は「土地を取られ、土日も演習され、子供達(たち)の養育も不可能であり食量既になし」「土地ドロボーをつかまへろ」(原文表記のまま)と訴えた。これに対し、政府側は「中間に立つ『主のう』のつらさを認識して貰(もら)いたい。了解して貰いたい」。絶対権力だった米軍との板挟みに遭う政府首脳を指したとみられる。
記録への信念うかがえる
日記はまた、本島に陳情へ出かけた際の経費を電報、せっけん、ちり紙、かつお節などと事細かに記録。苦しい運動の中で、お金を大切に使っていた様子が分かる。
真謝日記は阿波根昌鴻資料調査会が2002年から15年間続けてきた調査で見つかった。代表の鳥山淳沖縄国際大教授は「島ぐるみ闘争の出発点である伊江島の闘いが、ゼロから立ち上がる経過が見える。厳しい状況の中でも、事実を記録し知らせることで社会の意識は変わっていくという信念がうかがえる」と話す。
資料群を収蔵する「わびあいの里」は25日まで、沖縄タイムス社が運営するクラウドファンディングサイト「Link−U(リンクユー)」で刊行費用を募っている。
伊江島土地闘争とは
米軍は1953年、射爆撃場建設のため伊江村真謝、西崎両区の住民に土地を明け渡すよう通告した。55年には住宅をブルドーザーで引き倒し、放火して強制接収した。住民は琉球政府前の座り込み、本島各地を巡る「乞食行進」で世論に訴え、後の島ぐるみ闘争につながった。
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阿波根さんが残した資料は反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」の展示品のほか、倉庫や物置にあふれていた。アーカイブズ学を専門とする国文学研究資料館教授(当時)の安藤正人さん(66)=神奈川県=らが2002年に阿波根昌鴻資料調査会を立ち上げ、以来15年間にわたって毎年2回の調査に通ってきた。
安藤さんは「鼻紙以外には何にでも文字が書き込まれていた。阿波根さんの記録に対する強い意志を感じた」と振り返る。「刊行を契機に、生の資料を閲覧できる体制整備が進むことを願っている」と語る。
調査会の辛抱強い作業を見守ってきた謝花さんは「専門家がボランティアで作業を続けてくれていることに驚き、感謝している」と話した。「戦争は人災だが、平和をつくるのもまた人だと教えられた」
調査の成果第1弾となる「真謝日記」刊行はインターネットで資金を募集し、25日の期限を前に目標の30万円を上回る37万8千円が集まっている。わびあいの里監事の渡嘉敷紘子さん(34)は「阿波根さんを知らない世代や層にも関心を広げられたのではないか」と手応えを語る。
12月にも500冊を刊行し、伊江村内の学校や県立図書館、大学の図書館に寄贈する。一般向け販売も予定している。今後、調査が終わった資料は順次刊行していく。
問い合わせはわびあいの里、電話0980(49)3047。
米軍のでたらめに事実で対抗
■鳥山淳沖縄国際大教授
「真謝日記」は米軍による土地の強制接収から1カ月半という早い時期の伊江島土地闘争の記録である。生活の手段を全て失い、ゼロから闘いを始めていった経過が見える。当面の生活をどうするか、何をどう訴え、交渉すべきか。全て住民自身が考え、動いていった。追い込まれたがゆえの創造性があった。
驚かされるのは厳しい状況の中で付けていた記録の克明さ。阿波根昌鴻さん自身は島外に出る機会が多く、現地記録であるこの日記を書いたかは分かっていないが、常に記録の重要さを説いていた。
米軍のでたらめに対して事実を突き付け、広く知らせることで社会の意識は変わっていくという信念、運動の方針がうかがえる。
真謝区の住民が土地取り上げに正面から異議を唱えず沈黙していたら、その後の島ぐるみ闘争があったかも分からない。具志、伊佐浜とともに導火線の役割をした。その出発点を伝える貴重な記録といえる。(沖縄現代史、談)
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飯舘村も浪江町もそうなんです。
満蒙開拓から命からがら帰ってきて、あてがわれたのが、未開墾の山林。
掘っ立て小屋をたて、荒地、山地を開拓し、農耕ができるまでは、切り倒した木を薪や炭に。開拓が終わってやっと自分の土地になる。
そして半世紀がかりで土を肥やしたら、原発事故。
【東】東村高江のCH53E炎上事故現場で20日、米軍がショベルカーで何度も現場周辺を掘削し、大型トラック5台分の大量の土を持ち帰った。現場は、土地の所有者である西銘晃さん(64)が30年間かけて牧草地として土壌を作ってきた場所。20日夕方に規制線が外れて、事故後初めて現場まで行った西銘さんは「もう牧草も地面にへばりついてぺしゃんこになっていた。大型車もあれだけ入っていたから。変わり果てていた。いまさら元には戻らないだろう」と肩を落とした。
午後3時半ごろ、米軍の大型ショベルカーが炎上した機体のあった場所に近づき、牧草ごと土を掘削し始めた。台風の影響で強い風が吹く中、土とともに牧草がむしり取られていった。大型トラックの荷台からはみ出すほど盛られた土と牧草は、日も暮れた午後6時半に最後の1台が出て行った。
西銘さんは、前日に米軍から土を調べるため持ち出すとの説明は受けていたが、土質調査のため少量だと思っていた。この日、機体の一部が広範囲に飛び散っていて台風までに全ての残骸の回収が困難だったため「土ごと回収して部品を選別する」と米軍から説明を受けた。しかし大量に土を持ち帰る米軍車両を見て「ええ! あんなに持って行くわけ? 県の調査も全然できていないのに」と驚いた様子で話した。米軍から持ち帰る土の量の説明は事前になかった。
西銘さんの牧草は畜産農家からも「質が高い」と有名だった。豚を飼育しており、豚の堆肥を土に混ぜて30年間耕してきた。ヤギや牛が好んで食べ、中南部の人も牧草を買い求めるほどだった。「土壌は30年かけてとても良くなった。元通り回復するのはかなり不可能に近いだろう」と話した。
事故現場には2ヘクタールの牧草が残っている。だが「その部分はもう駄目だ。もうやっていけないから」と、20日から別の畑の植え付けを始めた。規制線で入れなかった先にも、まだ刈り入れしていない3ヘクタール分が残っている。だが事故から1週間がたち、雨も降り品質は落ちた。「原状回復にどれくらい時間がかかるか。30年かけて肥やした土は、はぎ取られてしまった。もう最初から諦めている」。怒りを抑えるように語った。
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