エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

要談「琉球 沖縄県」

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明日23日は、「沖縄慰霊の日」とされる日。
沖縄戦による身元不明の遺骨が多いと言われています。
その理由は、兵士よりも住民の犠牲が多かった地上戦であったからと。
今でも遺骨収集作業はボランティアによって続いています。
ご遺骨は一緒に見つかる持ち物から兵隊か住民か分かりますが、名前が書かれた遺品が出てこないかぎり、身元の特定にはつながらないそうで、兵隊の場合、そうした遺品が見つかりますが、それでも100体のうち5体もない割合。
住民にいたっては全くなく、着の身着のままで逃げ惑った住民の過酷な状況が伺えます。
今、永田町では戦争による国際貢献なるものが議論に。
悲惨な戦争から尊き平和へと歩む方々
東北・北関東では被災から復興へ、今日も一歩を歩む方々
どちらも忘れてはいけない。


私たちが語る平和は
おじぃや、おばぁが
思い出したくもない辛い思いを
語り続けなければ保てないほど
弱くて、もろい。

痛みに共感し、同苦し、
受け継がなければならない。

痛みに深く共感もせず、
過去の悲しみを美しいものに
すりかえる者が現れるから

いつまでも、
おじぃや、おばぁが、
語らなければならない…。

『語り部懸命の講話 
進む高齢化 大きい負担』
(沖縄タイムス6月22日)

93歳、現役最高齢の語り部はその日、
会場に来られなかった−。

20万人超の犠牲者を生んだ沖縄戦から
69年を迎え、
体験者による語り継ぎが
今、厳しい局面を迎えている。

2日夜、那覇市内のホテル。
大阪府から来た修学旅行生が待つ会場に、
講話をするはずだった北中城村の
安里要江(としえ)さん(93)は現れなかった。
体調不良が理由で、直前に断りの連絡が入った。

安里さんは沖縄戦で母親や夫ら
家族11人を失った。
生後9カ月の娘を背負い、
4歳の息子の手を引いて、
爆弾や銃弾が降り注ぐ
「鉄の暴風」から逃げ惑った。

死臭が漂う壕の中、娘は餓死した。
死に顔も見られない闇の中、
冷たくなった顔をなで続けた。

戦後は保育園で働き、
再婚して5人の子を育てた。
60歳のころ、頼まれて語り部を始めた。

思い出すと涙が止まらなかったが、
それでも年40回のペースで続けた。
「(戦争で亡くなった)家族と歩み続ける。
これは使命だと思った」

90歳を過ぎ、両膝に人工骨を入れる手術をした。
めまいや手足のしびれで、寝込む日が増えた。
直前まで悩んだ末、
講話のキャンセルを決めることも多い。
会場までの車の送迎を担う
平和ガイドの松永光雄さん(60)は
「講話中に倒れないかって、
そればかり気にしているんです」。

●予定びっしり
沖縄戦下の壕内で負傷兵の看護に当たった
元白梅学徒隊の語り部、
那覇市の中山きくさん(85)は
今年に入り、依頼が倍増した。
手帳を開くと、講話予定を示す
緑色の文字がびっしり書き込まれている。

「少なくなった語り部に依頼が集中している。
体力的に厳しく、来年はもうやれない」と、
中山さんは悩ましげに言う。

昨年9月、ひめゆり学徒隊の元隊員が
「ひめゆり平和祈念資料館」
(糸満市)以外での講話を終了した。

館外の活動は多い年で700件以上あったが、
語り部の負担を考慮した。
25年前の開館時は27人いたが、
現在は86〜89歳の9人。
2012年末から4人が亡くなったり、
体調を崩してやめたりした。

●身ぶり手ぶり
講話に復帰した安里さんは20日、
地元の小学校の児童約340人に向け、
沖縄戦の様子を伝えていた。

「戦争は怖いよぉ」
「ドドドドッ、ドバーン」

座っていた車椅子から立ち上がり、
擬音語で「鉄の暴風」を再現し、
身ぶり手ぶりを交え30分近く語った。

「気づけば最高齢になりました。
明日の命も分からんヨボヨボの体です。
そろそろ、足洗わんといかんかね」

自宅への帰り道、
安里さんは名残惜しそうにつぶやいた。
手帳には12月までの講話予定が記されている。

「まだまだ足りんですよ。
もっと多くの人に、
戦争の恐ろしさを伝えたい」
(矢島大輔)

サンフランシスコ条約で日本の独立のためにアメリカに身売りされた沖縄は、1972年昭和47年の5月15日
その執政権が日本国に返還され、再び沖縄県となりました。
島津侵入 薩摩藩の侵攻による第一琉球処分から数えて、4度目の『世変わり』琉球処分とも言えるこの日。
復帰すべき国は「日本国」だったのか、という論調もあります。

自分が沖縄に関心を持ち始めたきっかけは、中学時代の授業でしたが
さらに強くなったのがウルトラマンでした。
そのウルトラマンの再放送を大人になって観た時に、子どもの頃とまったく違うものに見え、それを作った人が沖縄の人で、時代の流れの中で苦悩し続けた人だということを知ってから、沖縄の歴史をもっと知りたいと思いました。

▼沖縄が米軍支配下にあった昭和40年代のはじめ(1960年代後半)
ウルトラQ ウルトラマン ウルトラセブンが放送されました。
そのウルトラマンを作った男として知られているのが「金城哲夫」さん。
光の国の使者 光線 地球滞在時間三分などのアイデアをはじめ、多くの脚本も手がけました。
金城哲夫は昭和13年東京生れ、翌年に沖縄に帰郷し戦時下では米軍収容所にいました。
高校は東京の玉川学園に入学、24歳で脚本家デビュー
28歳時にウルトラQ ウルトラマン その後ウルトラセブンの企画立案・脚本などを手掛け
31歳で円谷プロを辞めて沖縄に帰郷、ラジオやテレビの司会、沖縄海洋博の開会式の演出を手掛けた直後、自宅の階段から落下して37歳の若さで亡くなっています。
ウルトラマンが放送されだした頃、佐藤首相の沖縄訪問を機に、一気に沖縄返還への機運が高まります。


▼ウルトラマン史上屈指の名作と言われる「まぼろしの雪山」
雪山怪獣ウーが登場する回。単なる勧善懲悪を描くのはではなく

怪獣ウーの正体を知る少女が正義のため、人類のために戦うヒーロ
ウルトラマンに対して
「なんでもかんでも怪獣呼ばわりして 殺してしまう 恐ろしい人たちだわ」と言い放つ。
正義とは何か、なんのために戦うのか・・・そんなテーマも。
子どもの向けの娯楽だからと、「子ども扱い」しない姿勢があります。

●メフィラス星人が登場する「禁じられた言葉」の回では
言葉によって人間の心を支配するメフィラス星人とウルトラマンの一対一の対話のシーンでは地球を売り渡す人間はいない と言うウルトラマンに対して
「黙れウルトラマン 貴様は宇宙人なのか? 人間なのか?」というセリフを盛り込む。そこには金城哲夫が自分はウチナンチュかヤマトンチュかという自分への問いかけも。
沖縄が変わろうとしている時、沖縄人の哲夫が東京で仕事をしている自分はどっちの人間かと悩む。そのころ、沖縄在住の米兵によるレイプ事件をテーマに、米軍支配下の沖縄の苦しみを描いた大城立祐の「カクテル・パーティ」が芥川賞を受賞。
哲夫に大きな影響を与えたと言われる。
沖縄人として自分を常にみつめ、心に期するものがある半面、周囲の人間には沖縄の話しを一切しなかったという。
こうしたシナリオに対する意義づけも、後付けではないか、と言われるほど
哲夫はまったく沖縄のことを口にしなかった。
同じ沖縄出身の脚本家も
哲夫は普段から政治色もなく、沖縄のことをまったく話したことがなかった。酒が好きでお茶目な男と言う印象。しかし
戦時下、よく生きていた という体験をしてきただけに、傷が深いほど口にしたがらないものだ、だからウルトラQシリーズにそういうことを盛り込むわけがないだろう
と語る人たち。
この心情が非常に理解できます。

▼哲夫の父は腕の良い獣医、誕生翌年に沖縄の南風原村(はえばるむら)に帰郷。
数年後、太平洋戦争がはじまり父はビルマに出征。
そして米軍が沖縄本島に上陸。母や米軍の小銃機に左足を撃たれ膝から下を切断。
家族バラバラに逃げ、やがて捕虜収容所で生き延びました。
母とも再会でき、終戦後は復員した父と弟妹共にもとの生活を取り戻す。
哲夫が高校に進学する時、地元の学校の受験に失敗した時、母の勧めで東京の玉川学園に進むことに。
哲夫の母親はペルー移住からの帰還者。移住先のペルーで標準語のできないことで差別を受けた経験から、高い教育を受けさせたいという強い思いがあった。

哲夫が高校2年の時、哲夫の影響で沖縄に対する関心が高まった学園では
「本土」では初めて沖縄に学生が渡る「玉川学園沖縄慰問団」が結成されるまでに。
玉川大学に進んだ哲夫は、劇団に所属しやがて脚本家を目指すようになり、そして円谷プロに入社。

▼ウルトラマンの放送後、半年してウルトラセブンが放送開始。
その傑作の一つ「ノンマルトの使者」
海底の楽園に暮らすノンマルトと、海底開発を進める人間との戦い。
元々地球に暮らしていたノンマルトは、人間に追いやられて海底に住むことになる。
人間は自分たちが地球の先住民だと思っているが、本当は侵略者だ という
ウルトラセブンはノンマルトと戦うべきか苦悩する。
静かに暮らしていた場所に侵略者がやってきた怒り。
琉球と日本 沖縄と米軍 様々な想いをこめて
子ども番組の枠を超えたテーマが沢山描かれていた。

自らが「本土」で生み出したヒーロー ウルトラマンに沖縄人としての思いを反映させてきた金城哲夫。
ある日、「沖縄人沖縄人というけれど、君は沖縄のために何をしてきたのか?」と同僚に突きつけられ、入社3年で円谷プロを退社し沖縄に帰郷。

そのころの沖縄は、どのような形で日本に返還されるのか
基地の無い沖縄としてか、本土並の返還か、返還後なにが起るのか
沖縄は混とんとしはじめていた。
哲夫はラジオのDJとして人気を博すようになり、テレビ番組の司会なども受け続け
それが災いとなっていく。
やがて、沖縄芝居の脚本も手がけるようになり、沖縄はこれでいいのか、という強いメッセージを盛り込むも、大和口(標準語)でしか脚本を書けず、芝居の段階で自分で書いた脚本が沖縄の言葉に訳されるという事態になり、沖縄の人々との間にも違和感が生まれ始めた。
本土にいても本土人になりきれず、沖縄に帰っても沖縄人になりきれず
哲夫の苦悩は続き、やがて酒の量が増えていく。

▼沖縄人としての心を掴みなおそうと悪戦苦闘を続ける中
昭和47年 5月15日 沖縄は沖縄県になり核抜き本土並みという日本政府のシナリオ通り。
そのころ、自衛隊問題が沖縄で渦巻いていたころ、自衛隊機に乗ってラジオ中継をしたことが批判の的となり、ラジオやテレビから姿を消し、酒の量がさらに増える。

「本土復帰」を記念した「沖縄海洋博」の開会式 閉会式 ジャパンデーの演出の担当を引き受けることになる。
しかし、海洋博は環境破壊しか残さないという県民がほとんどであった。
閉会式では、会場の海を沖縄の漁船で埋め尽くそうというプランをたてるも
沖縄の漁師からはほとんど賛同を得られず、海洋博終了後も哲夫は沖縄社会で良い評価がされない状態に。
哲夫はさらに酒の量が増え、専門の病院に入院することに。
家族は福岡の病院に入院させようとした時
泥酔した哲夫は自宅の階段で転落して病院に搬送され
海洋博終了後のわずか40日後の1976年昭和51年2月26日永眠した。

哲夫と親しかった人たちは、日本と沖縄の懸け橋になりたかった
日本人 沖縄人 両方の心が分かるだけに 優しさが強い人間だった。
と語る。

「無くてはならないものは そう多く無いはずだ
いや それは一つしかないと 思えばよろしい」と書き記した。


 
 
日本が本当に帰るべき祖国だったのか  【本日付 沖縄タイムスより】
日本本土が沖縄などを米軍統治下に残して独立した1952年のサンフランシスコ講和条約発効から28日で62年。1年前には、東京で政府主催の「主権回復」記念式典が開かれ、沖縄では「屈辱の日」に抗議する大会が開かれた。その後も温度差は広がる一方だ。
 本土が独立を果たした後、奄美群島は53年、小笠原諸島は68年、沖縄は最も長く72年まで占領下に置かれた。
 昨年の式典で、安倍晋三首相は「沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだ」と語った。
 政府は実際には、オスプレイの追加配備を容認し、名護市辺野古への米軍新基地建設を強行に進めた。沖縄では式典開催への反発から出発し、日本の主権の内実を問う声、日本が本当に帰るべき祖国だったのかという疑問にも発展していくきっかけになった。
 
 
沖縄(と奄美)を差し出すことを条件に、日本は独立を果たした ともいえる、今日4月28日は沖縄の人々にとっては、戦時中と戦後の 二度にわたって、日本のために犠牲を強いられたことに なり、薩摩侵攻から数えると、3度目の琉球処分の日ともいえます。
 
沖縄でのアメリカの施策は、すべてに基地が優先
基地建設のための土地の強制収用をはじめ、
人々の権利は、深く侵害されていきました。
朝鮮戦争(韓国動乱)により冷戦構造が緊迫化すると、アメリカはアジアの共産化を恐れて当時のソ連と対立したまま、日本との講和条約の締結を急ぎます。
米軍占領下にあった奄美や沖縄では、琉球列島を日本から分離するアメリカの方針が明らかになると、公然と復帰運動に立ち上がりました。
沖縄では1951年(昭和26年)に日本復帰期成会が結成され、わずか3ヶ月の間に有権者の7割の署名(約20万)を集め、沖縄群島会議も復帰要請を決議して日米両政府に沖縄住民の意思を伝えたが全く無視されました。
アメリカ政府は琉球諸島を日本から切り離し、アジアの「防共の砦」とすることに決め、軍事基地の建設を推し進める。
1951年サンフランシスコ講和条約(対日本平和条約)が締結され、日本は独立を回復したが、沖縄だけは引き続きアメリカの統治下におかれました。
アメリカ政府は1952年4月、琉球政府を設立し、行政主席を任命制にした。
琉球政府の機構は三権分立による機関であったが、その上には琉球列島米国民政府が立ちはだかっていました。
 
「戦後沖縄の最大の問題は、軍事基地化のため、農民の土地を強制的に収用したことだ」(太田昌秀氏)
1953年、米軍は、軍用地の強制使用を定めた「土地収用令」を公布。
有無をいわせず、武装兵とブルトーザーで次々と軍用地を収用していきました。
反対する住民に対しては、軍用地の買い上げを示唆したり、借地料の166年分を「一括払い」して、その土地の永代借地権を得ようとしていく。
米軍が提示した坪当たり1円8銭という地代は極端に安く、人々は「コカコーラ地代」と呼んだ。
54年3月、「一括払い」が発表されるや土地闘争は”島ぐるみ”へと発展していきました。
沖縄は基地の島となっていきました。
 
私たちにはリゾートの島。
 
 

http://www.city.uruma.lg.jp/7/6262.html

「2014 いわて盛岡デー・イン・沖縄」
平成26年2月20日(木)〜23日(日)
イオン琉球

盛岡三大麺をはじめとする盛岡特産品ブランド認証商品、米やリンゴ、畜産加工品、水産加工品等の盛岡産食品について対面販売や実演販売が実施されます。
その他、各種イベントも予定されておりますので、みなさま、この機会に盛岡の「食」や「文化」をお楽しみください!

※うるま市は、岩手県盛岡市と平成24年7月31日に友好都市提携を締結しました。 

■開催イベント
1.セレモニー&トップセールス「盛岡の素敵な特産品」無料配布
 ○2月22日(土) 
11:00〜(イオン那覇店)  
14:00〜(イオン具志川店)

2.岩手県盛岡「さんさ踊り」
 ○イオン具志川店  
2月22日(土) 
15:00〜(1回目) 
16:30〜(2回目)

 ○イオン那覇店 
2月22日(土) 
11:30〜
 2月23日(日) 
11:00〜

3.「いわて盛岡観光パネル展」
 ○イオン具志川店
  2月20日(木)〜2月23日(日) 常設展示

4.ゆるキャラ「そばっちによるジャンケン大会」
 ○イオン具志川店
 2月22日(土)  
12:00〜(1回目) 
15:30〜(2回目) 

○イオン那覇店  
2月23日(日)  
13:00〜(1回目) 
15:00〜(2回目)

5.「伝統神ウルマ―&闘牛戦士ワイドー」登場!

 ○イオン具志川店 
2月22日(土)  13:30〜
※イオン具志川店、イオン那覇店のみでイベントを実施します。イオン南風原店につきましては盛岡の物産販売のみですのでご注意ください。

http://www.city.uruma.lg.jp/7/6262.html



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