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今年の4月28日、沖縄屈辱の日
政府は、主権回復の日としました。 官房長官自ら、お祝いの日ではないと、喧伝して回りましたが、あの席で天皇陛下万歳と手を振り上げ歓呼したのは、山本太郎を天皇の政治利用と叫んだ政治家でした。 6月23日の慰霊の日に出席した安倍首相は、二ヶ月後に、オスプレイ追加配備を決定。 11月末、石破幹事長は、沖縄選出の5人の自民党議員に方針転換をさせ、公約撤回。 その1年前は、県外移設しかないと、民主党政権を批判していました。 金さえ出せば、沖縄はなんとでもなる。 ごねてるのは、結局お金を引き出したいから 内地から浴びせる偏見 沖縄戦から68年 復帰から41年 沖縄の姿は、幼いころから見てきた姿となんら変わっていない それどころか、悪くなっているようにさえ見える。 翻弄され続ける沖縄の姿を どれほどの人が、悔しい想いで見てきただろう。 ある沖縄の方の言葉から引用。 知事はどんな決断をして、県民に説明されるでしょうか。 |
要談「琉球 沖縄県」
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石破幹事長が、沖縄選出の自民党国会議員5人に、普天間基地県外移設の公約を撤回させ、さらには国政で連立を組む公明党の沖縄県本部にまで手を伸ばした。
内政干渉も甚だしく、公明沖縄の金城幹事長は激しく抵抗を表明しています。 沖縄のこうしたことは、国際基準から見て民族問題の初期段階、しかし大多数の日本人はこのことを皮膚感覚でわからない、と指摘してきたのは佐藤優氏。 しかし現状はより深刻化しています。 沖縄選出自民党議員の公約撤回も、沖縄のメディアが批判しているのは国場議員以外の4人で、東京新聞も含め、中央のメディアは沖縄の現実を真正面から見ようとしていません。 沖縄民衆(あえて県民ではなく)の感情はピークに達しています。 それは、薩摩藩・明治政府による琉球王国侵略と消滅、第二次大戦では戦場とし、戦後はアメリカへ質入れし、今度は辺野古移転を強要と 日本政府の沖縄の扱いがどういうものか、よく分かります。 金城勉氏の魂の叫びが、心に響く。 沖縄の人々は、繰り返された琉球処分と同じく自国史として思い起こし 沖縄独立も現実的になるかもしれません。 |
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それは、長野県松代(現長野市)に地下大本営と皇居を作るためです。
地下宮殿と地下大本営、それと皇居から地下通路を作るのに時間がかかります。
沖縄は、この大本営建設の時間稼ぎのための、「捨て石」にされました。
その頃、神戸市出身の島田叡氏が沖縄県民を憂い、誰もなりたがらない沖縄県知事に
自ら名乗りを上げ、最後は濠に県庁舎をかまえ、沖縄のために命を捧げました。(当時は内務省による官選知事)
ですから、沖縄県・福島県
沖縄戦で命を奪われた方々と、東電の原発事故で命を奪われた方々を、同列に並べて語るのは間違だと思います。
そうして利用する権力者とやっている事は、感覚は同じだと思います。
沖縄県民でもなく、福島県民でもない私のような人間が
基地を県外にと言って、自分の町には来てほしくない
原発は要らないと言って、自分の町には核のゴミを埋めてほしくない
と叫んだら、こっちの方が同列として語るのが、筋でしょうね。
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1609年(慶長14年)徳川家康の承認の下
薩摩の侵攻によって、与論島以北 の島々を割譲され琉球王国は、日本(薩摩藩)領とされました。
1871年(明治4年)廃藩置県を実施した日本(明治)政府は首里城を接収
沖縄を一方的に鹿児島県の管轄とし、
1879年(明治12年)琉球を強制廃止して、沖縄県の設置を一方的に通達してきた。(公文録)
日本は軍隊と警察隊を送りこみ、力づくでの占拠も持さないかまえ。
琉球は従属か徹底抗戦か、あるいは清(中国)に助けを求めようとする声もあがるなど国内は混乱に。
その清は光緒(こうしょ)年間、西太后慈喜(ツーシー)が実験を握っていた時代。
欧米諸国の進出に苦しみ、琉球に助けを出せる状況でありませんでしたが、それでも清は再三に渡って、日本政府に抗議。
1880年(明治13年)北京で日清の交渉が行われます。
そこで日本政府は、沖縄の領土分割で、日清両国で領有しようと「分島改約」案を提示したのです。
沖縄本島と周辺を日本領、八重山群島を清領とする案。
対して、清は琉球を三分し、北部(奄美)を日本領
中部(沖縄)を琉球として王国を再興
南部(宮古・八重山)は清国領とすることを提案。
しかし、日本はあくまでも「分島改約」案に固執。宮古、八重山の両群島を清国に割譲しそれと引き換えに、日清修好条規を改約することを清国に提案します。
改約とは、日本が欧米並みの待遇を受けられるようにし、中国内地において日本人が商売できるよう、条項の追加を求めたものでした。
宮古、八重山の両群島の土地、住民と中国内地の貿易の利権とを、交換しようというものであったわけです。
清国側は譲歩し、ついに1881年(明治14年)1月をもって分島改約を発効させることで決着をみました。
しかし清国側の内乱などでうやむやとなり、結果的に沖縄県はそのまま日本帝国の領土として組み込まれていきます。
第19代琉球王の尚泰(しょうたい)は、抗戦による国民の犠牲を憂い、退位と首里城の明け渡しを決断。
首里城は日本軍の駐屯地として接収。
近代の荒波にかき消されるように、琉球王国は450年で消滅し日本帝国の一県として、日本領土となりました。最後の王、尚泰は息子たちのと東京に移住させられ、二度と故郷にも戻れませんでした。
桃香さんのブログ参照
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