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まあ、なんですねえ
集団的自衛権・・・最悪の事態に備えねば!最悪の事態から「国家」を護る!
って外ばっかり向かって言うてますが、原発事故の最悪の事態には備えず
輸出に再稼働に励むって、どういうことなんでしょうね。
大震災で甚大な被害を受けた地域の一つ、宮城県女川町。
ビルが基礎から横倒しになった様子がよく映し出されますが、港を望めばカタールの支援で出来た「マスカー」という多機能水産加工施設(冷凍冷蔵庫)の威容が目に入りました。
国内外から様々な支援の手が差し伸べられた女川は、カナダのネルソン市からの義援金や支援物資もありました。
もともと女川町とネルソン市は長い交流の歴史があるそうで、女川湾を望む崎山公園にネルソン市にゆかりある碑が建っていると。
長崎に原爆が投下された昭和20年 1945年8月9日、女川には大日本帝国海軍の戦艦が駐留しており、それを撃沈するため米英とカナダの艦載機からの攻撃を受け、それは翌日の朝まで続きました。
150人以上もの人が亡くなったともいわれます。
この時に攻撃を指揮したのが、ロバート・ハンプトン・グレー大尉という人で、グレー大尉が搭乗した爆撃機は被弾して墜落、大尉は亡くなり、最後のカナダ人戦死者となりました。
女川の丘に建つ碑は、グレー大尉を慰霊するもので、大尉はカナダ・ネルソン市の出身だったようです。
グレー大尉は女川攻撃を指揮し、女川の人々の命を奪った「敵」でしたが、女川の人々は大尉のために記念碑を建立(カナダ海軍パイロット、グレー大尉のビクトリア勲章・特別功労章受章記念碑)
その碑文には「昨日の敵は 今日の友となり 女川の人々は多大の好意をもってこの記念碑の建立を援助した」
「この碑が、この戦闘の戦没者全員の霊を慰め、平和と我ら両国の友情の変わらぬ徴し(しるし)とならんことを」
とあります。
そういえば、日本の各地にある明神は「平将門」をまつってますが、平将門を滅ぼした方が敵である平将門の霊を慰霊するために作られ
天神さんの天満宮にまつられている菅原道真も、道真をうった敵側がその慰霊のために建てられたもの、さらに大相撲も「神事」と言われますが、勝利した力士が喜びを現わさないのは、敗者の相手を敬う精神が根底にあります。
人々の融和を計っていくのが本来の神道の精神でした。
女川の碑も敵味方なく、すべての霊を慰める日本の精神風土が根付いていたのでしょう、慰霊碑建立も平和の徴しとして願ったのが、女川とネルソン市の交流が始まった原点であるということです。
ナショナリストのそれは、いちいち正反対のことばかりで矛盾だらけですが
この女川とネルソンの出会いは当初、悲劇でしたが、それを平和への原点に転じた先達がいたんですね。そして平和への交流の第一歩とした当時の人々。
その戦争の惨劇から平和への交流に転じた歴史が、大震災で被災した女川への支援の動機とした人々に繋がりました。
あえて言えば「日本」とはそういう人たちの「国」だったんですね。
それに逆行したから“悲惨”な体験をした、だから反省にたった。
でも「強い国」を優先する人の発想はなんか違和感が・・・
先日会った、ケニアの「マサイの戦士」は “敵”を仮定して戦おうとする乾いた発想ではなく、弱い立場の人を守り支え合う「平和の戦士」でした。 悲惨な戦争から尊い平和へ、被災から復興に、共に歩む人々
強いというのは、そういう人のことなのでしょうね。
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要談「女川町」
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http://sp.mainichi.jp/select/news/20140225k0000e040149000c.html?inb=tw
『東日本大震災の津波で七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の行員らが支店屋上に逃げて犠牲になったのは同行が適切な避難誘導など安全配慮義務を怠ったためとして、行員ら3人の遺族が同行に計約2億3000万円の賠償を求めた訴訟で、仙台地裁(斉木教朗<のりお>裁判長)は25日、「屋上への緊急避難には合理性があった」として請求を棄却した。遺族側は控訴した。震災犠牲者の遺族が避難を巡り、勤務先や学校などの責任を問う訴訟では2件目の判決で、遺族側が勝訴した1件目とは司法判断が分かれた』 ご家族の訴えを退けた仙台地裁は斉木裁判長は 「企業は経済合理性の観点で活動している。 行政機関に比べ、最悪の事態を常に想定して高い安全性を労働者に対して保障すべきだとまでは言えない」 と 企業は利益獲得だけを目指して、社員の生命を守る義務は無くても仕方ない と言わんばかり。 大変僭越ですが まさに、その部分が問われた訴訟なだけに、原告のご遺族の心中はいかばかりでしょうか。 裁判官は異例の現地視察もしていましたが これが判例となったら、 企業の責任は問えなくなる。 非常にきつい状況に。 自己責任なのか? 家族を失いながら、裁判を戦うことの 心労の大きさ、周りからの目 そして法さえも頼れない。 我が子を亡くした母は、発見された海を見ながら 「水も冷たかったろうし、雪も降ってたし、どんなだったろうと想像すると、なんとも言えません・・・しっかりと高台に避難してれば、そんなことにならないはずだったのに・・」 別の母は 「 (息子が)無理しなくていいよ、と言ってる気もするんだけど、でもやはり、すごく無念だったろうと思うんです。 この事案はなぜなのか?という部分をしっかりと究明すること。それが息子のためと考えてます。次の教訓としなければという想い、息子の命が教訓に活かされればという想いなんです。」 今も観光などで訪れる人々に、我が子が最後にいた場所で、命の教訓を伝えられています。 |
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1枚目の横倒しのビルの前に、4枚目の写真にある祭壇が設置されていました。
そこは七十七銀行女川支店があった場所です。
行員13名のうち12名の方が大津波の犠牲になりました。
そして今も8名が行方不明のままです。
高台の町立病院に避難せずに、銀行の屋上に逃げて取り残され、3枚目の写真に写っている高台よりも2mも高い津波に銀行はのみ込まれました。
そのうちの新人行員の男性は、震災発生の半年後に初任給で仕立てたスーツ姿のまま発見されました。
ご遺族は、「なぜ高台に逃げなかったのか、走れば1分で行けたのに」と銀行に対して提訴されています。銀行側は屋上を越える津波は予見できなかったと、全面的に争う姿勢を示し、裁判は今も続いています。
是非このことを多くの方に知ってほしいとの案内者の意向で、合掌礼拝のあと撮影させていただきました。
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被災後の女川の象徴のようになっている、基礎から横倒しの江島共済会館ビル
高台から見たこのビルの写真や映像がよく出ています。
色んな条件が重なって基礎から倒れたのでしょう。
6棟のビルが同じように横倒しになり、今2棟が残ってました。
そんな巨大津波が自分の町を家族を襲うことが想像できるでしょうか。
先日の台風18号による豪雨で、私の地域に30年ぶりの避難勧告が出ました。
備えていた人は約1割、高い建物に避難した人は0、8%
増水している川を堤防まで見に行った人約2割でした。
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大船渡、陸前高田の活動の後、気仙沼の宿に泊まりましたが、その宿には2台の車があり、ナンバーは2台とも「・311」でした。
気仙沼を出て、南三陸、石巻市河北町の大川小学校とたずね、その後、女川に行かせていただきました。
いつも近くを通りながら、女川を訪れたのは初めてで、やっと来れました。
よく写真などで観て風景は目に焼き付いていましたが、あの倒壊したビルを間近で見る凄まじさは、写真で伝わらないのを実感しました。
ビルの基礎から横倒しという、津波は波ではなく海の移動というのが、ここからも伝わってきます。
ビルの右側に赤い車がそのままになっているのが見えました。
有名な「マスカー」 カタールからフレンド基金で建てられました。
津波が襲来しても、壁がそのまま流されて柱がのこって建物を守る構造。
そのままピロティとして避難所になります。
あまちゃんで有名になった三陸鉄道もクウェート支援、アラブ圏からの支援を沢山受けています。
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