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大川小 避難経路、最短ルートと誤解か 行き止まり知らず進んだ可能性
転載元 河北新報オンライン様
東日本大震災の津波で全校児童108人中、74人が犠牲となり、児童を保護していた教職員10人が死亡した宮城県石巻市大川小の避難ルートについて、教職員が北上川の堤防道路(三角地帯)への最短ルートと誤解し、行き止まりを知らずに裏道を進んだ可能性が高いことが、河北新報社の検証で分かった。児童の足取りを巡っては「なぜ、津波に向かって進んだのか」「なぜ、県道に直接出ず、遠回りしたのか」など長い間謎だった。(大川小事故取材班) |
要談「大川小学校」
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転載元 河北新報オンラインニュース様
東日本大震災の津波で児童と教職員計84人が犠牲となり、本年度で閉校する宮城県石巻市大川小(児童29人)について |
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転載元 河北新報オンラインニュース 様
<大川小訴訟>元校長証言「(震災2日前の)地震で津波の堤防越え考えた」
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今も放送を続けるNHK「あの日わたしは 証言記録 東日本大震災」
たびたび当ブログでも紹介させていただいていますが
先日も、現石巻市の大川小学校が取りあげられました。
今回は大川小の校舎の設計者さんが登場されました。
大川小学校の事件を知った2011年3月、最初の印象がやはり、そのモダンな設計の校舎でした。
私立の学校かと思うような設計ですが、やはり地元でも、公立小では珍しいモダンな校舎は評判を呼んでいたようです。
設計者さんは、自分が設計した建物が、悲劇の舞台となったことに、ずっと負い目を感じてこられたと。
「建物の被害は、建築家ですから、修復できますが、亡くなった命は元に戻らないから、申し訳なかった」と語ります。
設計事務所は東京にありますが、設計者さんのおつれあいが、大川地区の出身ということで、30年前に大川小学校の新しい校舎の設計を請け負うことになり
役場からは、町のシンボルとなるような、学校建築を作ってほしい、と依頼されます。
イベントや遊び場として使える小ホール、特注のタイルを使った外壁など
校舎が完成した時、町の皆さんが喜んでくれた、と語ります。
「生徒が、できあがったのを見て、そういう施設を全部走り回ってみるんですね
その光景は良かったなという印象ですね」
2011年3月11日、およそ9mの大津波が小学校をおそいました。
全児童の7割が亡くなり、小学校の校舎は町の人にとって、またたく間に忌まわしき記憶へと変わってしまいます。
想定しておらず、行政側からも注文がなかった、設計者さんも、考えなかったというのが盲点だった、と
さらにもう一点、設計者さんは後悔していることがあると、それは
最初の設計時に、小学校の避難場所になっていたかもしれない建物を考えていたことです。
「裏山に野外教室ができないかというのを、地元の行政側に相談したんですね
『この山は町の山じゃないのか』と聞いたら、『違う、民有地だからちょっと無理でしょう』と
(もしそれができていれば、裏山に)登った可能性もあったんではないかと残念に思うんです」
強く実現を求めなかったことを悔やんだ設計者さんは、5年ものあいだ、小学校の設計者であることを名乗れませんでした。
しかし、昨年の3月、大川小卒業生らの声によって、被災した校舎が「震災遺構」として残されることが決まったことで、それまでの気持ちを一変しました。
そして、震災後に一度も会っていなかったご遺族のもとを訪れました。
その後、ご遺族の気持ちを受けて、校舎保存のために協力させてほしいと申し出られました。
「最初に手をつけた関係者、始めた関係者でもあるという責任も感じていますので
提案もして、協力していきたいという気持ちですね今は」
2016年11月当方で撮影
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今年も11月17日に大川小学校を思います。
一昨日の15日、ボランティアグループの皆さんと大川小学校を訪ねて
線香をあげさせていただきました。
2011年の発災直後から訪ねている被災した町では
訪れるたびに、年月が経って行くたびに、工事現場化して
乾いた感触になります。(復興の経緯ということですが)
大川小学校も訪ねるたびに、違う印象を感じますが
乾いた感じではなく、様々な人の心が折り重ねられていく感じです。
校門があった場所で線香をあげて手を合わせたあと
先に1人で慰霊碑の前まで行き、そこでも手を合わせました。
上にはあがってませんが、慰霊碑にお名前を見つけ、言葉をかけるような気持ちで祈りました。
そして振り返って校舎を見た時に
変な奴と思われるかもしれませんが
なぜか急に、すごい物音がするような感覚に襲われて
校舎を大量の水が通り抜けるようなすごい音と圧迫感を感じたんです。
大川小学校に関わる色々な方の顔が浮んだりして、一気に感情があふれて
自分でも止められなくなりました。
ボランティアさんたちが、慰霊碑に近づいてきたので、当事者でも無いのに申し訳ないのと、恥しいのとで、ばれないように背を向けましたが
口を押さえても肩が震え、涙を拭くしぐさで、ばれてしまって、心配をかけてしまいました。
その時の頭の中で鳴った音が、今も頭の中で鳴るんです。
大川小学校を訪ねたあとに、ブロ友さんと急きょ会えることになったので
とにかく気持ちを落ち着かせるので必死でした。
当事者でもなんでもない私が僭越なのはじゅうぶん承知していますが
「被災地」では、いつもその場所に心を置いてくる努力をしているので
次第に蓄積されていき、また最近のご遺族と、石巻市などの動向にも
心を傷めていたこともあり
さらに直前にブロ友さんの声を聴き、リアルになったのかもしれません。
見える風化と見えざる風評の厳しい風あたりが、「被災地」「被災者」を追い詰め苦しめいているというのが、「東日本大震災」「東電原発事件」の現実
大川小学校では、あるご家族の方がおられましたが
その表情に想像以上の厳しい現実を感じました。
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