エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

要談「大川小学校」

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原告のお一人は

「速報ではありますが、『勝訴』しました。
諸々、判決文を解読していますが、今後の学校防災の一歩になれたと思います。」
とコメントされました。



東日本大震災の津波で死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小の児童23人の19遺族が市と宮城県に23億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で
仙台地裁(高宮健二裁判長)は26日、学校の責任を認め
計約14億2660万円を支払うよう市と県に命じた。
公立学校教職員の管理監督下で震災の津波で犠牲となった児童生徒を巡る司法判断は初めて。全国の教育現場に大きな影響を与える可能性がある。

 19遺族は2014年3月に提訴。訴訟では
(1)津波の到達を予見できたか
(2)津波の被害を回避し、児童を救えた可能性があったか―が主に争われた。

遺族側は「防災無線や市広報車からの情報で津波の襲来は認識できた。
裏山などへ避難すれば全員助かった」と主張。市側は「当時得られた情報から想定を超える規模の津波は予見できず、結果は回避できなかった」と反論していた。

 訴えによると、11年3月11日午後2時46分の地震発生後、大川小の教職員は約45分間、児童に校庭で待機するよう指示。校庭近くの北上川堤防付近(標高6〜7メートル)に避難を開始した直後の午後3時37分ごろ、高さ8メートルを超す津波にのまれ、児童74人と教職員10人の計84人が死亡・行方不明になった。
 当時、校内にいて助かったのは教職員11人のうち男性教務主任1人と、児童4人のみ。学校の管理下で子どもが犠牲になった戦後最悪の惨事とされ、遺族らは真相究明を求めてきた。
 仙台地裁で言い渡された津波訴訟判決は6件目。行政の賠償責任が認められたのは、東松島市野蒜小を巡る訴訟(仙台高裁で審理中)に続き2件目となる。

2011年3月11日のマグニチュード9.0の巨大地震のあとの巨大津波は
宮城県現石巻市、追波川(北上川)を遡上
河口から4km離れた場所に建つ(旧)大川小学校にも津波が到達し
生徒70名、教員10名が亡くなり、生徒4人が今も行方不明
戦後最悪の学校災害となりました。
小学校が建つ、釜谷集落も壊滅的な被害を受け、失われました。
東日本大震災の一事件のように考えられがちですが
本当に大変な事件だという認識を今一度問い直したいです。

地震発生から、津波の到達まで約50分の時間があり
裏山にすぐに逃げられる山道がありながら、なぜこれほどの大惨事になったのか
我が子を亡くされたご家族は、本当に苦渋の決断で訴訟を起こされました。
その悲しみ、苦しみ、悔しさというものを、少しでも考えていきたいと思っています。

その判決が10月26日にせまってきました。
ご家族の心情はいかばかりでしょうか。



大川小学校 2016年4月

今年も慰霊碑にあげていただき、祈らせていただきました。
3月には神戸で佐藤元教諭の講演も聞かせていただき
とにかく、1日も早く静かな環境になること
今も行方不明の4人の生徒さんのことも、思い合わせて祈りました。

イメージ 1

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記事中の哲也さんのお父様の投稿から
5年前…
震災の前日だった今日3/10は、亡くなった妻の誕生日の前祝いで、家族で焼き肉を食べに出掛けていたのを思い出す…。
今日から、4回連載の哲也の記事です。
ずっと、寄り添って丁寧に取材された方だからこそ書ける記事です。是非読んでください。

震災を忘れ去ったかのような喧騒と、遅々として真相解明が進まない目の前の現実は、彼の目にどう映っているのだろうか──。2011年3月11日の津波で、全校児童108人のうち74人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校。只野哲也さん(16才)はその生存者だ。悲しみの癒えぬ5年の歳月を、長く大川小について取材を続けるジャーナリストの加藤順子さんと池上正樹さんがリポートする。(撮影:加藤順子)
【集中連載第1回/全4回】

 * * *
 少年は、父親の背丈を抜いて青年になっていた。車を降り、柔道で鍛えたがっしりとした肩に三脚の付いたビデオカメラを担ぎ、打ちっ放しのコンクリートにレンガ仕立ての瀟洒な校舎に向かって歩き出す。震災5年を前に取材にやって来たテレビ局のクルーと一緒にいると、AD(アシスタントディレクター)と見間違うほどだ。

 只野哲也さん、16才。5年前の3月11日、宮城県石巻市立大川小学校の5年生だった哲也さんは、先生や友達と校庭から移動を始めた矢先に、津波に襲われ、偶然にも生還した。大川小の被災は、児童74人、教職員10人が死亡・行方不明という、1つの学校管理下での災害としては、類を見ないものとなった。

 あの日に大川小で起きたことを多くのメディアで語ってきた、坊主頭の「てっちゃん」をテレビで見たことのある人もいるだろう。

 あれから5年。高校1年生になった哲也さんがビデオカメラを向けたのは、震災まで過ごした思い出の学び舎だ。体育館が丸ごと流失し、ねじ曲がって横倒しになった渡り廊下や、壁が抜けて梁がむき出しになったままの教室は、津波の水圧の恐ろしさを克明に物語る。

「ここに来ることが、勇気のいるときも正直ありました。やっぱりあの日のことを思い出すし…。でも、母校だし、みんながいた場所なので、来ると気持ちをリセットできる場所でもあるんです」

 そんな話を聞いていると、ふと震災から2年の2013年3月11日のことを思い出す。この日、校舎を訪れた哲也さんは突然、自分のいた5年生の教室と、学校にいて津波の犠牲になった妹の3年生の教室に入っていった。その理由を、こう説明した。

「みんなに“元気にしてますか?”って、語りかけるんです。校舎を壊すかどうかの議論が起きているので、校舎が残るように頑張るよって、みんなに約束しました」

 地震の起きた午後2時46分が近づくと、哲也さんは校舎に入って、妹や友人たちに「おれって、間違ってないよな?」と問いかけるという。

「学校ではクラスの同級生に報告していますね。15人のクラスのうち、半分くらいの6人が亡くなっちゃったんで。中学校に入ってからもみんなの友達の家に泊まったりしていたんですけれども、高校入る前も泊まったんですけれども、少しずつ少しずつ遠くなってきているなって。それぞれの道に進むからしょうがないんだろうけれど、小学校の頃のメンバーが一生のつきあいだろうなと思っていたけれど、あんまり最近連絡もないんで、話しかけるきっかけがつかめなくて…」

 哲也さんは、今の複雑な胸の内を明かす。

 哲也さんに初めて会ったのは、2012年のこと。当時、中学1年だった哲也さんは、いつも大きな体の父親にくっついて歩くカルガモ親子のようだった。それがいつしか、話す内容まで大人びてきた。

 大川小の旧校舎のある釜谷地区は100軒余りの集落だったが、津波の被害が大きく、非可住区域に指定された。家々の土台が取り払われ、今やすっかり更地になった一帯は、この地を知らない人が見れば、人々の営みなど初めからなかった場所に思えるだろう。そんな風景の中にぽつんと残る旧校舎は、哲也さんにとって、こうした地域の現在の姿と「あの日以前」とをつなぐタイムカプセルのような存在なのだ。

 今、石巻市では、そんな大川小の旧校舎を、「震災遺構」として保存すべきかどうかの議論が本格化している。

 2月13日に市が主催した遺構に関する公聴会。大人たちや卒業生たちが旧校舎の保存や解体を求めるそれぞれの立場から意見を述べる中、哲也さんもビデオメッセージで揺れる思いと、それでも校舎を遺してもらいたいという気持ちを伝えた。

「まだ自分も完全に心の整理がついているかと言われれば、全然そうではないので、ちゃんとわかってほしい。解体してほしいと思っている人たちもある意味まだ、震災の被害を心に受けているので、全然その人たちのことを悪いと思わない。逆に何を言われようが、亡くなった同級生の親に陰で悪口言われようが、おれはもう未来の命を守れるならばどうってことないので、その人たちが遺してほしいというまで待ち続けます」

【集中連載第1回/全4回】

※女性セブン2016年3月24日号

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