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岩手県宮古市 『増坂勲・油彩水彩小品展』
地元、宮古や三陸の魅力を題材に 岩手県宮古市茂市(もいち)駅前「ギャラリーヒロ」にて 北三陸の雄大な海の風景と風物詩を 50年にわたって描き続けてこられた増坂勲氏
海で生まれ育ち、教職に就いた後も 三陸が醸し出す空気の中で生活し、 いわば海は、切っても切れない存在だった. 「海は私たちを育み、夢を育ててくれた尊いふるさと」 ところが、東日本大震災発生で「恵の海」への不信と憤りを覚えることに。 町では翌日から 不眠不休の復旧作業が始まっても
手を差し伸べる術がない自身の無力さが もどかしく、1ヶ月も葛藤が続いた。
5月になって「みんなが奮起している時に自分も心を新しくしないと」と決意。 悔しさや駆り立てられる感情を カンバスにたたきつけ、 80歳で持病を忘れ、異例の3ヶ月で80号の作品 2枚を 仕上げたことも。 |
要談「宮古市・田野畑村」
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東日本大震災とネパール大地震、2つの支援活動を、どうか支えて下さい。(2015.4.29) |
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●関口村長の盟友に、田老町漁協の初代組合長・山本徳太郎さんという方がいました。
山本さんは小学校もいけないほど貧しかったのですが、独学で経理や設計、工学なども勉強し、20代で田老村漁業会(現町漁協)の組合長になりました。
当時の田老には、摂待、田老、乙部の三つの集落があり、それぞれの漁師の団体が作られていました。
しかし、田老が復興するには、三つがバラバラでやっていてはダメだろうということで、一つにまとめたのが、山本さん。
「連帯と団結」が田老の町、漁業組合のスローガン、当時の漁業会はとても封建的で身分の上下があり、親方と子方、船主と普通の漁師には厳しい上下関係がありました。
そんなことでは、沢山の人が死んで、少なくなった漁民でうまくいくはずがない、みんな平等だ、仲良くしよう
と、みんなで困ったら、分け与えながら、漁業をやっていこう
そうして、やってきて、田老は今にいたっています。
岩手県で120、宮城県で160ほどの漁港がありましたが、東日本大震災以降、岩手と宮城では全く違う復興方法をとりました。
宮城県は「選択と集中」 160の漁港の中で40だけを復活させる。
外部から業者を入れて・・・
しかし残念ながら、うまくいっているとは、とても言えません。
日本で一、ニを争う漁港、気仙沼、石巻でさえ、青息吐息の状態です。
「絆なんて、最初から無かったんだ」と語った石巻の漁師さんもおられました。
対して、岩手県は全部の漁港を復活させる、ということをやってきた。
宮城県と対比した時、割とうまくいっています。
その中でも、特にうまくいっていて、目覚しい復活をしている漁港が二つあります。
アワビの収穫一番の重茂漁港と、もう一つが田老なんです。
共通して言えるのは、重茂も田老も、漁協を中心に平等と協働でやってきたことです。
選択と集中ではないんです。
この二つの漁協は、漁師さん復活の模範となり希望となっています。
漁船はほとんど流されて、20ほどが残りました。だから組合が購入して無料で580ほど漁師さんたちに貸与し、そして後継者も育っています。
今、田老漁協の将来の問題は「鮭」の心配。
大震災の年に、鮭の稚魚を放流できなかったので、昨年、鮭が遡上しないのではないかと心配されていました。
やはり、その通りになりました。
しかし、なぜか、湾内では大漁でした。近年になり豊漁。
ただ、残念ながら遡上はなかった、地形の変化か、水の匂いの変化なのか、それは不明。
今年はどうでしょうか・・・?
また「真崎のワカメ」の売上も落ちているとのこと。
私のような関西人は、ワカメと言えば、鳴門を想起します。
大震災以降、次第に知られてきていますが、実は鳴門のワカメの種苗は三陸、真崎ワカメ
いわば、田老生まれ 鳴門育ち
さらに、この田老ワカメは外洋で育てています。
昆布は北のモノ と言われますが、田老辺りが、その南限になります。
ワカメは南のモノ と言われますが、田老辺りが、その北限になります。
田老という地域は実に珍しいですね。
もうご存知のように、外洋で育ち、三陸の荒波にもられるので、肉厚でどこにもない最高のワカメ。
ところが、残念なことに、価格はドンドン下がっています。売れないんです。
大きな理由
一つはデフレ、円安。
安い海外産がどんどん入ってきて、一般消費者は「ワカメって、このぐらいの値段のもの」と
安い価格が常識化して、高級ワカメは「高級」ではなく、「高い」ということになる。
価格低下圧力がとても高い。
そして、もう一つが「風評被害」
東北と聞いただけで、東北の食べ物を敬遠していく傾向があります。
田老町だけをとってみたら、事故が起きている大熊町の原発から田老までの距離
東京より三倍も離れています。
こうした被害の払拭が重要です。
田老漁協は先月に、決起大会を行いました。
大震災後はじめて。
それは今年こそ正念場ということで。
ワカメが売れるかどうか、アワビが復活するかどうか
さらには、税金の問題もあるようです。
岩手では船の貸与がありますが、個人で購入すると、一隻百数十万円で、動産としての税金がかからず、控除される限度内。
しかし、田老漁協では、震災のダメージのある1人1人に負担をかけられないと、五百数十隻を漁協で購入して、それを組合員に貸与しているので、動産税がかかってきます。
今は震災特措法で減免されていますが、来年から全額かかってくるんです。
田老はみんな仲良く、平等
単なるきれいごとのスローガンではなく、どのように平等か
ワカメのメカブ、東北の方々は本当に大好きですよね。
私たちも、虜になりました。
ワカメの種ですが、メカブは漁師さんが天然の漁場から獲ってきます。
その良い漁場を知っている漁師さんがおられる、それは絶対に教えない・・・
腕の良い漁師さんは、良質のメカブをいっぱい獲ってくる、漁師さんの腕のみせどころ、技量のみせどころ。
そこから、団結と協働します。
それを、みんなの共有にします。
やっぱり、あのじっちゃんは、良いところを知っているなあ、その誇りだけを得て
あとは「みんなのもの」
これが「団結と共同」
宮城県の「選択と集中」では残念ながら、きびしいことになっていますが
田老と重茂は「団結と共同」で復活しました。
有名な「45号線」が新しくなりましたね。
山側に高盛道路になり、1m以上高くなって、海側に平行して旧45号線が走っています。
途中で行き止まり。
残念なことに、新しい道路には信号機が無い・・・品薄のために、信号機がまにあってない・・・東京五輪の影響もあるようです。
高台に逃げられるように整備された十字の道路だったのに、新しい45号線の高盛の築堤が遮ってしまいまい、逃げられなくなってしまいました。
破壊されなかった、関口村長の時代の防潮堤の上に、とってつけたように白いコンクリートの70cmほどの堤防をかさ上げしておこうと・・・
そのかさあげしたところには何があったのか、ご存知の通り、昭和三陸津波で亡くなった方々全員の911基の墓標がありました。
行政は何も考えずに、コンクリートで覆ってしまいました・・・
途中で気がついて、10基ほどはのこっています。
堤防を見るだけで、行政のあり方がわかります。
そして、田老町漁協では高さ20mほどの製氷機を再建しています。
青砂里の丘の下にあります。
その製氷機に黄色い印があり、そこ一番下が、昭和の大津波がきた高さ。
二番目が明治のお大津波の高さ
一番上が今回の津波の高さです。
小堀内では、39m以上と言われていますね。 |
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昭和33年 1958年万里の長城と呼ばれることになる、田老に防潮堤(防浪堤)は完成。
船のへさきの形をしていて、襲い来る津波を左右に分け、長内川と田老川に受け流す、とても知恵が絞られた堤防でした。
津波、いわば自然の力に逆らうのではなく、受け流す、「いなす」発想で波の勢力を弱める
このことで、最初にみんなで作った防潮堤は、2011年の津波にはビクともしなかったんです。
しかし、破壊はされなかったけども、津波は堤防を乗り越えてしまった。
防潮堤が高すぎて、津波がまったく見えなかったという負の面がありました。
昭和35年 1960年5月24日のチリ地震津波の時は三陸沿岸部に大きな被害が出て、大船渡や女川では、数十人の方が亡くなった。
その中で田老は大丈夫だったことが、あの防潮堤のおかげ、「津波くじく防波堤」と報道されてしまったことで、三陸沿岸を中心に日本中で、防潮堤・防波堤が作られていきます。
所得倍増・高度経済成長で公共投資をバンバンやれの時代だったことが助長しました。
しかし、実際にチリ津波を見た田老町の人々は「新聞はデタラメを書くな」とも。
安保闘争の騒然とした環境の国会では田老や三陸を視察した議員から
「田老のような防潮堤を是非頼む、というのが合言葉であった」と答弁されているのですが
しかし、この時に日本中にできた防潮堤・防波堤の形は、波に逆らう遮へい型、断面が台形ではなく、丘、壁です。田老に作られたのり面のあるものとは似て非なるものであったことが、問題でした。
国は、「百の財産よりも、ひとつの堤防」と津波対策をこれらの防潮堤など、コンクリートの構造物を作ったことでよしとして、政策は終了。
津波常襲地の三陸の沿岸にも、田老とは似て非なる、波に、自然に逆らう、海に挑むかのような遮へい型の防潮堤ばかりが作られて、三陸の津波対策は万全とされました。
チリ津波で大きな被害を受けた大船渡でも19億円かけて防波堤が作られ
三陸沿岸に総延長50kmに及ぶ防波堤が作られていきました。
すべての事業が終了した翌年、昭和43年1968年十勝沖地震津波が発生。
最大6mの津波が三陸に到達しましたが、防潮堤が津波を防いだんです、そのことで、特に若い人たちの間に、津波は防潮堤で防がれるとの意識が植えられていきますが
2011年の巨大津波では完全に粉砕されてしまいました。
▼このことにより、どうなったのか?
●田老の防潮堤・二期工事で作られたところは木っ端微塵に破壊され、関口村長の時代に作った防潮堤を乗り越えた津波が、引き波となって返ってくるのですが、受け流しの防潮堤はそのままあるので、それを越えることができなくなったために、水たまりのような形になり、ガレキがプカプカとたまり、じっちゃん、ばっちゃんが海に流されずに助かった、屋根に上がって助かった、ということがあり、実際にNHKのインタビューも受けておられました。
ところが、田老の浜の東、最初にできた防潮堤の外側にあたる野原地区、乙部(おとべ)・青砂里(あおざり)には、遮へい型の二期工事で作られた防潮堤しかなかったために、今回の津波で破壊され、引き波によってすべて海に流されてしまい
田老の行方不明の方々の7割が、野原、青砂里地区の方々です。
この地区には以前ほとんど家が無かったのですが、核家族化や土地不足から、先に防潮堤が作られて、野原地区の市街地造成が進められ昭和50年頃盛んに家が建つようになっていきました。
さらに野中地区も造成され、第三期の防潮堤が作られ、
昭和三陸大津波から70年目の2003年、田老は津波防災の町宣言に至ります。
その背景には、防災意識の薄れ、風化、津波避難訓練を実施しても、参加者は訓練対象地域の町民の1割を下回るところまできたからでした。
●もういちど関口村長が考えたことに戻りますが
村長が考えたことの一つに津波は抗うものではなく、受け流すことだが、しかし、乗り越えてくる津波もあるだろうと想定しました。
そこから、町の道路を真っ直ぐに整備していきます。
町のどこからでも、まず外で出て、すぐに高台につながるまっすぐな道に出られるように区画整理し
5分から10分あれば高台に逃げられるようにしました。
広い道路が山にぶつかるところから、山を登る道を作った。
田老村再建時に、村民から二割の土地を提供してもらい、道幅も広げて、京や奈良の都のように、碁盤状に区画したんです。
この災害に強い町づくりに至った原因とは
昭和三陸津波の直前に日本でおこった大きな災害、それは10年前の関東大震災でした。
東日本大震災後に注目された、当時の内務尚・後藤新平によって、帝都復興が進められました。
しかし、予算規模が大きすぎ、軍事体制が進む中で復興予算が削られ、すべてがうまくいきませんでしが、関口村長は後藤の復興計画に着目し、後藤のもとで図面を描いた技師・平間米吉ら二人を、東京から呼び寄せて共に復興プランをねりあげて、漁民を守るため、村の平年の予算の十数倍の予算がかかることを、丁寧に理解を得ながら
「村費でやっぺし」と、国に「現地復興を成すほか道なし」と言わせ、後藤新平が果たせなかった東京の都市計画を田老で実現するに至りました。
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岩手県の田老、記録に残るだけで平安のはじめの貞観から何度も何度も大きな津波被害に遭ってきた地域で、「津波太郎」と呼ばれたことも。
そして、「三陸」という言葉は、明治三陸大津波、昭和三陸大津波、これらの大津波が襲来してからできた言葉で、それから広く「三陸」「三陸」と使われだしたんですね。
岩手の閉伊川を境に北と南でリアス式の海岸の違い、三陸で採れたアワビやフカヒレなどが長崎俵物として日本を救い、三閉伊一揆が南部藩、そして徳川幕府を揺るがした、明治維新の本当の立役者だった歴史。
「白川以北 一山百文」という言葉があるように、藩閥政府に対抗して自由民権運動の結社が150も生まれたのも東北、しかも農村にできた。
民主的で先進的な憲法草案を作った、植木枝盛、五日市憲法の千葉卓三郎や久慈出身の小田為綱
工場制手工業も農村で生まれた、地方分権を先取りしたのも東北でした。
知れば知るほど、現代に投げかける様々なヒントを歴史から学ぶことが多い東北。
東日本大震災の復興を考える上でも、重要な示唆を与えてくれます。
しかしこの4年間、地質学、風土、そして歴史などを無視をした支援や復興案が押しつけられる傾向があったのも事実。
▼明治三陸大津波では1867名、昭和三陸大津波では911名の方が亡くなった、田老。
最も多くの犠牲者が出たのが田老でした。
昭和8年1933年の昭和三陸大津波を経験された方が、今も田老に何人かおられますが、90歳前後の方々ですが、80年経とうが「忘れられない」と当時のことを詳細に覚えておられます。
田老を知るきっかけになったのも、津波被害
あの「万里の長城」と呼ばれる「防浪堤(防潮堤)」の存在が入口でした。
昭和三陸大津波で被災した翌年から建設が始まった「防浪堤」
その先頭に立ったのが、当時の田老村長だった関口松太郎。
着工から実に24年後の昭和33年1958年に最初の防浪堤が完成、その2年後にチリ地震津波が襲来、津波はこの防浪堤には到達しませんでした。
しかし、この防浪堤が津波を防いだと報道されてしまい、高度成長政策とともに、三陸の各地に防潮堤が作られることになり、津波対策=防潮堤となり、完成すればそれで終わり、津波は土木工事で防ぐものとなってしまいます。
田老の防浪堤も二つ目、三つ目と作られ、あのX字の全長2.4kmの防潮堤が完成。
それから33年後の2011年に東日本大震災が発生、巨大津波が防潮堤を越えました。
●昭和三陸津波は宮城県の現山元町から北海道のえりも町までが被災し、犠牲になられた方は3000人にのぼり、その3分の1の犠牲者が出たのが田老。
その3ヵ月後に国が出した復興計画には「もっとも推奨すべきは高地への移転」とされ
つまり海で生計をたてる田老の人々に高台移転を勧めました。
しかし田老では国の方針とは別の道を模索します。
当時、県の議会などでは「田老満州移転論」まで出てましたが、関口村長は被災のわずか三日後に
「堅牢たる防波堤を適所に築造し、安全なる小漁港たらしむる」と綴っていた記録があるように
関口村長の念頭にあったのは海で生計をたてる人々の家が、海に近いことは重要なことでした。
ここで思い出されるのが、柳田国男の「雪国の春・二十五箇年後」の一文ですね。
アワビの口開け、ウニの口開け、ワカメの養殖、昆布の養殖、と1年を通して、ほとんど浜で暮らすような生活の田老の人々は、翌年から次々と海の近くに家を建てて戻ってきました。
やはり元の場所に村を復興させるしかないと、県知事をせっとくし、関東大震災の復興に携わった人材を東京から呼びよせ、村の人たち漁師さんに土盛りをすることで働いてもらいました。
海からの高さが10.4m地上からは5m〜6m、なだらかなスロープのある台形の防波堤建設がはじまります。
そこには若い女性たちも働きました、「そ〜ら よいとまけ」と声をかけながら丸太を埋めていったと。
しかし、昭和12年に関口村長は亡くなります。
時代も太平洋戦争へと突入し防浪堤の建設は中止されました。
そして田老の男たちは生きて帰られないと言われたニューギニアに動員され、多くの田老の男たちが戦死しました。
田老には熊野神社が三つあります。熊野神社といえば紀州。紀州の漁師が日本の漁を教えたと言われていますが、海路を通じて紀州と田老は交流があったということです。
しかし、東京を中心とした道路網や鉄道網が作り上げた不便から、陸の孤島という偏見を植え付けていきます。そこにはもともとの豊かな地域であった三陸の各地でしたから、外から誘致していた企業がなく、田老にも一つもないまま、漁業を中心にやってこれました。
そこに作られた防潮堤は、船のへさきの形をして、津波を左右にわけて、受け流す形になっています。
津波をガンと防ぐのではなく、自然の力に逆らわず、長内川と田老川に受け流すという、とても知恵と経験が反映された防潮堤ですが、関口村長が東京から呼び寄せた、後藤新平のもとで関東大震災復興に尽力した技師二人の力もありました。
つづく
田老町立(宮古市立)田老第一中学校の校章には
一中の文字を、防浪堤が三角で囲み、まわりに波をあらわすデザインがされて
堅牢な防浪堤が津波から守ることが込められていると。
さらに、校歌には
「防浪堤を仰ぎ見よ 試練の津波幾たびぞ 乗り越えたてし 我が郷土 父祖の偉業 跡つがん」
と綴られている。
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