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何度か投稿してきた母の空襲体験。
昨年の投稿を再掲載します。
74年前の今日、1945(昭和20)年 3月13日の深夜から翌日未明にかけて
大阪大空襲と呼ばれる、大阪中心部へ奇襲空爆による民間人虐殺が行われました。(第一次大阪大空襲)
前年の12月から空襲が始まり、敗戦前日まで 大阪は空襲を受けることになりますが
中でも45年の3月13日から14日にかけての大空襲がもっとも甚大な被害が出たとのこと。
この3日前には東京で、前日には名古屋、そして大阪にはこの後も続き、一般市民を狙った空爆は日本全国で行われました。
大阪大空襲の時、今の大阪市難波に暮らしていた私の母は、焼夷弾の雨の中を祖母(母の母)におぶられて奈良まで逃げました。
わずか4歳だった幼女の脳裏にはっきりと記憶され、のちに祖母が母に伝えたことも含めて
その時の生々しい体験を私は小学生の頃から何度も聴いてきました。
過去にも書いたことがありましたが、後年に聞き直した話しと
昨年に久しぶりに会えた伯母から聴いた話しを加味して母の表現で書かせていただきます。
母は6人きょうだいの末っ子
家は難波高島屋のすぐ近くで、大正時代は宮内省御用達の箸問屋を営む大きな家だったそうです。
姉2人兄3人でしたが、男は兵役と疎開で家におらず、姉の1人は風船爆弾工場に動員され
もう1人の姉は女学生。家は祖父母(母の両親)と母と姉と従業員(丁稚さん)で暮らしていました。
1945年、丁稚さんたちも全員疎開し、家は家族4人と番頭さんだけでした。
3月13日の深夜、警鐘が鳴り始め母は起こされて祖母と一緒に防空壕へ。
祖父は警防団だったので、近所にBが来る防空壕へ逃げるように叫びながら走ったと。
やがて空襲警報が鳴り、高島屋が狙われるという噂があったので、家を捨てて逃げる事に。
全員一緒に逃げたら、全員一緒にやられてしまうということで
祖父と伯母(母の姉)、祖母と母、番頭さんに分かれて逃げて、おさまったら
高島屋に集まることを約束して、違う方向に逃げました。
この時13日、アメリカ軍の爆撃機 B(ボーイング)29はグアムを発ち
深夜に西から大阪湾に飛来、その数274機
低空飛行で焼夷弾を人口密集地の大阪市に次々と投下していきます。
祖母は母をおぶって、綿が沢山詰まった冬用の厚手の布団を水槽に浸けて
水を吸った重い布団を母をおぶったまま被って、そのまま避難を始めます。
しばくして防空壕に逃げますが、こんなところはすぐにやられるという声に
防空壕を出てさらに逃げます。B29は母たちの頭上を飛び、クラスター焼夷弾を容赦なく人間の上に落としてきます。
頭から被っていた重い布団は、家屋が焼ける炎の熱ですぐに乾いてしまい
川を見つけては、その布団をつけてずぶ濡れの重い布団をまた被って逃げます。
女性の体力で大変だったと思います。
その時、必死に逃げる人たちは、転んでしまう高齢の人をまたいで、お構いなしに逃げていた光景を
母はよく覚えていました。
焼夷弾が落ちる音、爆発する音、油の匂いや焼ける匂い、煙の匂いなど
嗅いだことのない匂いも覚えていると語っていました。
祖母と母は、銀行の地下に逃げるように促されて一旦入りましたが
祖母は煙が地下に入るのを見て、ここは危ないと思い、頼み込んで反対を押しきってそこを出ました。
日付が変わって、深夜の1時から2時と思われる時間帯ですが、炎で昼間のように明るく
そしてとても暑かったと。
母は祖母におしっこがしたいと言いますが、祖母はおぶったまま、そのままするように言ったと。
時間が経つにつれて、逃げ遅れて路上に沢山の人が倒れていましたが
2人はその合間を逃げきることができ、やがてB29の飛来音もしなくなり、日が昇り始めると
大阪市は焼け野原となり開けてしまい、高島屋が見えたそうです。
しばらく休んで、祖母と2人で高島屋を目指し、母たちは先に到着しました。
祖父と伯母がなかなか来ないので、亡くなったと半ば諦めていたようですが
やがて乾パンを配る人が来て残りが少ないと告げるので
祖母が母にあげてほしいと言い、母が手を出すと、突然母の手を払ってその乾パンを奪って逃げる人がいたそうです。
家は全焼してしまい、祖父たちも現れないので、祖母の実家のある奈良に行くことに。
電車も一駅二駅で止まり、そこから電車を降りて線路を歩き、また電車に乗れてもすぐに止まってしまい
また歩く、という繰り返しの中、道すがら顔も服もススだらけの母娘を見て、昨夜の空襲を逃げてきはったんやな、かわいそうにとおにぎりを差し入れてくださった方もいたと。
万が一は奈良に行くと祖母が言っていたらしく、祖父たちも奈良に向かい、やがて家族は再会でき
そして、祖父方の実家のある滋賀県に移り住み、母は二十代半ばまで滋賀に暮らします。
滋賀でも攻撃があり、母や伯母は米軍の機銃掃射で狙われた経験もあり
伯母は未だにアメリカ人を見ると、腹がたつことがあると言ってました。
終戦後、兵役を終えた兄や空襲を逃げた番頭さんも含めて、一家は全員無事でした。
この日の空爆は3時間以上続き、21平方キロメートルが消失し
約4000人の方が犠牲になり、50万人以上が被災しました。
低空飛行による焼夷弾投下で焦土化する奇襲作戦は、夜間に遂行されましたが
これは対空砲火を避けることもあったようで、実際に大阪から高射攻撃をしましたが
一機のB29を撃墜したに終わりました。
計8回の大阪への空襲で、府内で1万5000人以上が亡くなり、120万人以上が被災しました。
また、空襲を受けた旧大阪市電路面電車の車両が復興されて
現在、広島市内を現役で走っています。
⚫大空襲とは別に
1945(昭和20)年7月20日午前8時半ころ
私が現在暮らすところから、自転車で15分ほどの場所に
模擬原爆が投下されました。
これは、実際の核攻撃の予行演習で、長崎に使われたプルトニウム型原子爆弾と同じ形状の爆弾に
通常の火薬を詰めて投下したものです。
この日を皮切りに、8月14日まで全国で50回近く模擬原爆が投下され、約400人の人が
犠牲になりました。
この最初に投下された地点に
その記憶を留める碑がひっそりと立っています。
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放談「文化・歴史」
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出典 東京大学教授 渡邉英徳様 ツイッターのスクリーンショット化
同ツイッター画像から拝借
心揺さぶる一枚
ニューラルネットワークによる色付け 補正。
「原爆ドーム」としてしか知らない産業奨励館が
電飾でキラキラしていることと
70年以上前とは思えない 音や笑い声が聞こえてきそうな空気
ビール瓶一本まで身近に感じる画の力
この写真が撮影された後に、ここで起こったことを知るゆえに
心を動かされてしまいます。
渡邉教授のリツイートから
なぜこの写真が心を揺さぶるのかと言えば、誰に対しても、どんな人たちに対しても開かれているささやかな、ほんの小さなしあわせ、すなわち真の幸福が、見事に写し取られているからだろう。その後の歴史の残酷とともに。写真は未来を写すことができるのだ。
アメリカによる 原爆核攻撃後の広島市の写真
同じくニューラルネットワーク様によるカラー化。
阪神・淡路大震災の後に
モノクロの戦争 戦災の写真や映像がとてもリアルに感じるようになり
東日本大震災の後に、さらに音と人の息づかいを感じるようになりましたが
こうした色付けにより モノクロの引き離す感覚から現実にあったこと として
伝わる感覚を大事にせねばと思いました。
壊滅的な広島の光景と普通なカップルが対照的です。
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日本で、漆掻きのカンナを作る職人さんは
青森県田子(たっこ)町の中畑文利 和子さんご夫妻だけと。
そういえば、NHKの「仕事の流儀」で観ました。
町が募集したお弟子さんに、技術を伝えつつあるとのことですが
英語でJAPANと呼ばれる漆、たしかにこういうものも支えていかなあかんと感じます。
岩手日報 伝統技術x革新
時給率わずか3% 危機の国産漆 常識破りの機械化で守る
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高校野球を普段観ることは無いですが
昨日の決勝にはちょっと注目し
大阪府民の私でさえ秋田県代表の金足農業高校を応援したい気持ちにさせてくれた
そんな色々な要素が集まった、決勝戦でしたが
ニュースでも優勝校より、準決勝の金足農業高校を取り上げるものが多かったのは頷けます。
そんな金足農業高校の校歌も、その全力で歌う選手の姿勢などが話題になりましたが
その校歌を作詞者は、戦前、軍国主義に抵抗していて、治安維持法で逮捕された経験がある日本文学者だったと。
1930年東京音楽大学の講師に就任するも、32年に反戦主義で思想事件として講師を解任され、
1934年法政大学教授に。1944年治安維持法で逮捕、玉川警察に拘留され翌年に釈放されています。
抑圧に屈せず、戦争に反対し続けていたんですね。
作曲者は、「春の小川」「故郷」「春が来た」「おぼろ月夜」などの作曲で有名な岡野貞一 どこまでも、素敵な話題を提供してくれる金足農業高校です。
出典 転載元
上 信濃毎日新聞様 コラム「斜面」
下 日本文學誌要 随想 「近藤忠義先生と校歌」
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様々な書物からも、それを見てとれましたが
映画「この世界の片隅に」では、それがとてもリアルに描かれていた一つに
女性は労働力ということでした。
片渕監督がお金の無い中、自腹で当時を生きた人たちにインタビューを重ね
通行人まで、本当にそこにいた人をつきとめて描くほど
徹底した考証に基づかれて作られた映画だけに
どんな実写の映画より、とてもリアルにそれを感じました。
主人公すずさんは子どもの頃から、海苔を収穫し干す 家の仕事を手伝い というより従事し
突然 苗字も見覚えもない人と結婚して
“嫁ぎ”先では、足の不自由な義母に「嫁もきたし家のことは任せて」と話す義父
結婚後のすずさんは、日が昇る頃から水汲み
炊事、掃除、洗濯、買い物、風呂焚きと家の中のことだけではなく
地域の寄り合い、配給、千人針、防空防災、、、、
さらに労働力として駆り出され
食事のときは、家長のお茶碗に大盛りのご飯が盛られ
次に息子(すずさんの連れ合い)、女性は少量。
すずさんの義姉さんの子ども はるみちゃんは、一人でいるシーンが多く
「近年 母親が仕事とかで家にいなくなり、子どもとの触れ合いが無くなった
日本の伝統は、母親が子どもと家で一緒にいることだ」
なんてことはなかった
母親は労働力として外に出され、子どもはほとんど ほっとかれた
ってことでした。
今も上映され続ける映画「この世界の片隅に」
12月には約30分追加された「この世界の さらにいくつもの 片隅に」が公開されます。
すべての人が観るべき映画 と個人的に思ってます。
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