エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

放談「文化・歴史」

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全米が見守るなか、ローザ・パークスさんの像の除幕式が開かれました。

リンカーンやジェファソンなどと並んだローザ・パークスさんの像

黒人女性ではじめての栄誉です。
 
イメージ 1
 
あまりにも有名な「バス乗車ボイコット運動」から半世紀以上が経ち
アメリカ連邦議会議事堂に、実物大の像が設置されました。
 
以前、職場の学生アルバイトさんと、アメリカではバスに乗るのも、白人と有色人と席が分けられ、白人が優先されていた
と言うと、かなり驚かれたことがありました。
アメリカがそういう国だということが、信じられないというのです。
 
ローザ・パークス女史は、バスの車内で白人に席を譲るために「立て」と命令された時
彼女は席を立つことよりも、人間としての当たり前の権利を守るために、屈せず逮捕されることを選びました。
やがて、それを知ったアフリカ系アメリカ人は、バスに乗ることをやめて歩いて職場や学校や買い物に出かけました。
その命がけの戦いから、法律上の人種差別撤廃、公民権を獲得にいたり
アフリカ系の大統領誕生へと繋がります。
 
一方日本は、ヘイトスピーチが広がり、ヘイトクライムが我が物顔でデモをする国にしてしまいました。
自分に関係ないことに対する、見て見ぬふりや、それを知りたくないという無関心が
それを許していると思います。
 
日本で「英雄は?」と聞かれると、スポーツ選手や芸能人が上位にきます。
パークス女史は、人種差別に静かな抵抗を試みて、逮捕されました。
当時の国家や社会に抗して逮捕された
ーーそのような人を「英雄」として尊敬すること。

私たちの社会には、あるでしょうか?

あるのは、吉田松陰を尊敬するぐらいかなぁ。

それは、結局、「国家に抗して投獄された」ではなく、
江戸幕府に抗して、明治国家の礎を創ったということ。

例えば、第二次世界大戦中の軍部に抗して、
投獄された人たちを、
私たちは、「英雄」と見る意識をどれほど持ち合わせているでしょうか。
 
 
 
マータイ博士  日本へのメッセージ
「2005年から、創価学会の皆様と交流を続けてきた。私は『幸福』といえば、創価学会員を思い描くようになった。私が確信を込めていえることは、旅先で幸福な創価学会員にお会いしなかった場所は一つもなかったということ。創立者の精神を受け継ぎ、世界中に平和と人類愛を広げている連帯の輪に、私も加わりたい。私の兄弟姉妹の創価の皆さま、(会長就任50周年・創立80周年)おめでとうございます!」
博士が人々の、そして子どもたちの心に植えた           
平和の苗が、年月を経るほどに大きく育つことでしょう。
ケニアをはじめ、東アフリカで広く歌われてる
ソウルソング 「マライカ」
"Malaika" (スワヒリ語)
ローマ字読みで発音してください
 
 


Malaika nakupenda malaika      
Malaika nakupenda malaika

Nami nifanyeje ee
Kijana mwenzio oo
Nashindwa na mali sina ee
Ningekuoa malaika

Kidege nakuwaza kidege
kidege nakuwaza kidege
ningekuoa mama
ningekuoa dada
nashindwa mali sina wee                
ningekuoa malaika

Pesa zasumbua roho yangu
pesa zasumbua roho yangu       
ningekuoa aa dada
ningekuoa aa mama
nashindwa na mali sina wee
ningekuoa malaika

Malaika nakupenda malaika      
Malaika nakupenda malaika           


マライカ、君は僕の天使さ、愛してる。               
マライカ、君は僕の天使さ、愛してる。
でも、僕にどうしろっていうんだい。
君の恋人の若い僕には、結婚するお金が
ないんだよ。金のせいでみんなぶちこわしさ。
ああ、僕の天使よ、君と結婚できたら、
どんなにいいだろうね...

キデゲ、君はぼくの小鳥さ、恋してる。
キデゲ、君はぼくの小鳥さ、恋してる。            
ねぇ母さん、僕は結婚したかったのです。
ねぇ姉さん、僕は結婚したかったのです。
なのに、お金のせいでみんなぶちこわしです        
ああ、僕の天使よ、君と結婚できたら、
どんなにいいだろうね...                                              
                                 
金、金、金が、僕のこころを苦しめる。                            
金、金、金が、僕のこころを苦しめる。

ねぇ母さん、僕は結婚したかったのです。
ねぇ姉さん、僕は結婚したかったのです。
なのにお金のせいでみんなぶちこわしです
ああ、僕の天使よ、君と結婚できたら、
どんなにいいだろうね...

マライカ、君は僕の天使さ、愛してる。
マライカ、君は僕の天使さ、愛してる。

 
 
 

母の空襲体験

私の母は 昭和15年生まれで 女3人男3人の6人姉弟の末っ子で 長女とは20歳離れています
 
私が小学生の頃に よく空襲の話をしていまして 未だに耳に残ってますが 昨日 あらためて聞きました
 
昭和20年 4歳だったのに 祖母(母の母)から聞いた話と相まってものすごくリアルに記憶が残っているようでした
 
母の家は大阪の難波の高島屋付近で宮内省御用達のお箸問屋の末娘として生まれ なに不自由なく育っていたようですが
 
昭和20年の大阪大空襲で 一家が一時期バラバラになり すべてを失い 貧乏のどん底に180度変わりました
 
同年の3月 毎日米軍のB29が飛来していまして ある日の夜中に空襲警報と共に
 
地域の防災長のような事をしていた祖父が町中に大阪に爆弾が落ちるから防空壕へ逃げるように呼びまわりました
 
深夜の寝静まる時間帯に空襲が始まり  そのうち高島屋を狙ってくるという噂が広がり 
 
防空壕から出て 避難することにしました
 
その頃 母の家族は母ともう一人の姉を残し その他の兄弟や丁稚など従業員は全員疎開していて
 
家には祖父母と母と姉の4人でした もう一人の姉は女学院生でしたが 風船爆弾工場に動員されていました
 
しかしこの空襲の前に工場も爆撃を受け 避難する際に兵士から 
 
「大和撫子たるもの 米兵に捕まったら これを飲め」と一人一人に青酸カリを配られたといいます
 
空襲の日 4人一緒に逃げると 全員一度にやられるので 二組に分かれ
 
また高島屋の前に集まろうと約束して 逃げました
 
当時は防火用の水槽が街のあちこちにあり 綿が沢山詰まった厚めの冬用の布団を 水槽に浸して
 
祖母は母をおぶって その上からその布団をかぶって 逃げます
 
焼夷弾で町中が焼けていて すぐに布団が乾いてしまうので 用水路などを見つけてはまた布団を浸して 被って逃げたと言います
 
女性が4歳の子供をおぶって水に浸した冬用の布団をかぶって走るということを 今思えば 想像を超える大変なことと思います
 
別の防空壕に逃げましたが 兵隊のような人がこんな所すぐにやられると言い
 
また逃げることになりましたが 高齢の人など転倒してしまうと 構うことなく むしろまたいで逃げていたのを見たとも
 
そして銀行の地下にまた避難しました 祖母が地下に煙がすうすうと入ってくるのを見つけ
 
ここは危険だから外に出た方がいいと言いましたが 皆は外の方が危ないと言って 祖母を引き留めようとしましたが
 
振り切って祖母は母をおぶって外へ出て 焼夷弾の雨の中を逃げました
 
焼夷弾のカラカラカラカラと鳴りがら落ちてくる音や 町中の家が燃え 炎がもうもうと燃える音も未だに耳朶に残っていると言います
 
3月に水にぬれた布団をかぶっても 街が炎の海なので 全く寒くなく むしろ暑かったそうです
 
後日の報道で地下に逃げた人は  煙にやられたり  シャッターが開か無くなって 蒸し焼き状態になって 
 
全員が亡くなったというのを 祖母が母に語っていたと言います
 
逃げ遅れて亡くなった人が沢山倒れている街の中を 走りぬき 母がおしっこをしたいと言っても
 
祖母はおぶったまま そのまま出させて 安全な所までたどり着いたと言います
 
陽が昇って 空襲が収まり 焼け野原になり 遠くから高島屋の建物が見えたと言います
 
それを目指して歩いていきました
 
やっと高島屋に着くと 母達が遅く着いたようで 祖父と姉は死んだのではないかと 半ば諦めかけていたと言います
 
乾パンを配りに来る人が来て 祖母がこの子(母)にあげて と言うと 配ってる人が母の手にわずかな乾パンを
 
渡そうとすると 横から母の手をはらって その乾パンを奪っていった大人もいました
 
家も焼かれ 祖母方の実家のある奈良へ向かいました かろうじて動いていた電車も 一駅か二駅で止まってしまい
 
線路に降りては歩き 電車が動いて乗っても すぐに止まってしまうので また歩く ということの連続で
 
奈良の道すがら ススで顔も服も真っ黒になった母達をみつけた 見ず知らずの人が
 
大阪で空襲をうけたんやなあ かわいそうに と言っておにぎりを差し入れてくれた人なども 大変よく覚えています
 
もっともっと比べ物にならない大変な体験をされた方や地獄から生還された方は何万とおられますが
 
4歳の女の子の脳裏に65年経っても 未だに記憶を残す この体験がどれほど凄まじい事だったのかと思います
 
 戦後 母の家族の中で最初に仏法に巡り合ったのが その時祖父と逃げた姉(私の伯母)でした
 
その姉の折伏で母が入会しました 子供 孫へと信心が継がれているのも 母と姉の子供 孫で
 
そして 今 生きているのも 空襲を経験した 姉と母の二人になりました
 
昨日 私が母に空襲の話しを聞いた時に言ってましたが
 
先月 母は82歳の姉と会い たまたま空襲の話もし 兄弟で空襲で命の危機を経験した二人だけになった事や
 
仏法とのめぐり合わせや使命をつくづく感じたと 語ったそうです
小説「終わらざる夏」
1945年8月18日 終戦後3日目に起こった戦争が題材
客観的で徹底した取材を基に
千島列島の先端 古守島(シュムシュ)で アメリカとの戦闘に備えていた2万を超える日本兵が駐留していた
島に終戦三日後にソ連軍が責めてきた その戦争を軸にして書かれた「小説」
着想から30年を経た先月発売された 浅田次郎氏の小説
氏は「10万人の戦死者がいたら 10万の命であるということに 思い至らない
10万の人生であることに 思い至らない これが戦争の怖さだと思う
ひとつひとつの命は ひとつひとつの人生であるということを 自分に言い聞かせながら書いた」と語っています
 
 
 
 
8月6日広島 9日長崎 から封切り 随時全国ロードショー 


メールで送信していただいた画像です
被爆50年後の8月7日の視点で発行された新聞とのことです
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「8.15あの日から私は・・・」

1945年の8月15日 私は台北(台湾)にいました

父が歯科医院を開業しており四人姉妹の末っ子だった私は

生まれて7ヶ月の乳飲み子でした

そして 終戦(敗戦)後家族そろって日本に引き揚げてきたのです

母によると 引き揚げ船の中で私は泣いてばかりだったそうです

栄養失調になり 医者は「この子は助からない」と言っており

母は「いっそ捨てていこうか」と考えたこともあったそうです

それでも家族全員が無事に帰国できたことが どれほど幸運だったかを知るのは それから ずっと後のこでした


大学を卒業後 弁護士となった私は今から25年以上前に

女性達の手による太平洋戦争の証言集の編集出版に携わる機会を得ました

戦争で財産を失い 最愛の家族を亡くした女性の方々が

「本当は思い出したくもない できることなら忘れてしまいたい 忌まわしい体験だから

しかし 再び戦争を繰り返さないため この体験を語り継ぐのが私の使命です」

と言って 涙ながらに語ってくださった証言の数々でした

特に 小さな引き揚げ船が サメの大群に襲われ 船を転覆させないため 

サメの餌として 弱った病人や子供が生きたまま次々と海へ投げ入れられた

地獄の光景を目にしたとの想像を絶する証言内容には 

そのあまりの戦慄と恐怖に 身も心も凍りつく思いでした

そうなのです 生後7ヶ月の私が無事帰国できたのは 本当に幸運だったのです

戦争はそこまで人間の心を狂わせてしまうのです

戦争は それほど邪悪で巨大な「悲惨」そのものなのです

そして この証言集の編集に携われたことが

その後の平和への取り組みの「原点」になりました

今も 地球上から戦火が消えうせたわけではありません

現在進行形で戦争の犠牲者として苦しむ女性や子供達が多く存在します

私達日本人も「戦争は決して過去のものではない」という視点を忘れてはなりません

「行動する平和主義」を掲げる公明党の代表代行として

これまで カンボジア パキスタン イラン などを訪問し難民キャンプの子供達や

女性と話をさせていただきましたが その際 子供達が瞳を輝かせて

「私は将来 学校の先生になるの」 「僕は医者になって患者を救うだ」と語る姿に

思わず目頭が熱くなったものです

この子達の未来を永遠たらしめるためにも

私達世代は この地球上に「真の平和」を構築する責任があります


そうした意味で きょう8月15日は日本の「終戦記念日」ですが

私はそれだけに終わらせることなく

「世界の終戦記念日」を創造しゆく誓いを深める日にすべきだと考えています

64年前に日本の戦争が終わった日という意味だけでなく

「世界中のすべての戦争を必ず終わらせてみせる」という決意を

世界中の人々が固め合う日とすべきではないでしょうか

きょう  この日からは・・・・

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