エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

放談「文化・歴史」

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神道と国家神道の違い




「神事」と言われている「大相撲」は
勝利したことを喜んだりせず、敗者の相手を敬う精神が根底にあります。
日本に培われてきた精神風土には、そうしたものがあります。

日本中にある「明神」や「天神」
明神は「平将門」をまつっていますが、平将門を滅ぼした方が、敵である平将門の霊を慰霊するために作りました。

天神の天満宮も菅原道真がまつられていますが、これも道真をうった敵側が、敵である菅原道真の霊を慰めるために建てられたもので、
母なる大自然に神性を実感する中で人々の融和を計っていく
これが神道の考え方、あり方。

日本古来の伝統というなら
中国、アメリカ、東南アジア、オセアニア、オランダ、イギリスなどの戦死者の霊を慰めるためのものにするのが道かもしれません。
幾度か記事にさせていただいた、宮城県女川町にある、カナダ人クレー大尉の慰霊碑
女川を攻撃して亡くなった、いわば敵の士官を女川の方々は弔いました。


蛭子(エビス)というには、もともと異民族や障がい者、ハンセン病の人たちを
かわいそうにと、むしろ大事にしようという人たちがいて
そういう子を川に流すという風習がある地域もありましたが
流された子を漁師が発見して、それを神として祀った。
それが蛭子・戎・夷 神社。
「えべっさんにお参りするときは、裏から周りや、えべっさんは耳が遠いし、足が不自由やから こっちから周りやー」と
本来の身体が不自由な人を大事にしようという風習が残ってました。
ところが、今は商売好きの神主によって恵比寿と変えて商売繁昌の神さんに変えられてしまいましたが

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さて、伊勢神宮を、国家神道の第一の神社として崇めるため、一帯を大神都として拡大する計画があがり、多くの朝鮮半島(当時は韓国は無かった)労働者が強制的に労働従事させられ
その時、三重県内の古い歴史の9割の神社が潰されました。


靖国も国のために命を捧げた“英霊”に参拝するのは当然とするけど
個人的考えでは、「英霊」など存在せず、祀られているのは戦争に駆り出されて犠牲になった方々がほとんどですし、その半分以上は餓死者。
またA級戦犯は戦死者ではなく刑死者ですが、
5年前に行われた主権回復なんとか式典はサンフランシスコ講和条約に基づいたもので、それはA級戦犯が戦死者でなく、正式な裁判による刑死者と認めたことにもなるので、主張は矛盾だらけ。


靖国の宮司の中にも、海外の慰霊所を視察した人がいて、本殿の左奥に敵味方国内外一切の霊をまつる鎮霊者があるそうですが、一部の人たちからはこれを靖国の祭神の否定と指摘しています。
西郷さんから白虎隊、湾岸戦争などの戦没者が祭神だという主張です。
A級戦犯も以前はこの鎮霊者に祀られていたという説もあるようですが。



神道の精神が、国家主義 国家神道と相いれない思うんです。




【洪水支援の原点】

宮川左近ショーの左近先生が眠る鉄眼寺さん。(大阪市浪速区 瑞龍寺=通称 鉄眼寺)

鉄眼は、中国でも日本でも国家事業だった仏教の経典の版木作りを決意し、全国を行脚。

そして六万枚に及ぶ版木の費用を準備します。

しかし、近畿一円に大洪水。

目の前の人を救うのが仏の道と、すべてを支援物資と支援費用に。

そしてふたたび、全国行脚へ。

費用が集まったら、近畿一円に飢饉が。

ふたたび、全部を支援のために。

三度目の行脚で、一切経版木は完成。重要文化財です。

そして、原稿用紙の形式と明朝体は、この鉄眼版木の発明です。

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出典  m?bius-rebellius Socialwriter & activist
シンガポール 米朝会談。
 
日本では朝からメディアはさかんに報道していますが、ここまで日本と朝鮮半島の近現代史を前提としていない報道もないように感じています。

日本も韓国も戦後ずっとアメリカの傘の下、
当然に両国の近現代史もまたアメリカの傘の下のものであったわけです。

歴史は傘の柄を握る者たちのものであったわけです。

傘の下では語らぬこと、語ってはならぬことが無数にあった。

封じられた声、ないことにされた出来事、読みかえられた事実、いないことにされた人びと、殺された命も無数にあった。日本でも、韓国でも、在日にとっても。

いま、日本にいながら、日本の報道をとおして、どうしようもなく当然のようにアメリカ目線で語られている私たちの「現在」を見つつ、
日本や朝鮮半島に生きる私たちこそが、私たちの「植民地」と「属国」の近現代史を直視して、考えて、語り合って、この「現在」を乗り越えてゆく道筋を拓いていくことの大きな意味を思うのです。

↓ ここには、わたしたち自身の近現代史を取り戻すためのきかけの一つとなるであろう「声」や「資料」があります。

是非、多くの方々が立ち寄られますよう。

冷戦より冷麺を


Let’s eat  NaengMyeong = Korean Cold Noodle Soup rather than The Cold War

冷麺食べました
冷戦より冷麺を 
ということで
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鎌倉山女相撲濫觴 天明5年(1785年)
「結界」してる内側の土俵に女力士がのってます
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「相撲は、神道との関わりがあるから女性を排除する」という論理は、明治期以降に、相撲界による地位向上なとの企図にもとづいて虚構されたものである。

相撲が初めて史書に登場するのは,采女(女官)による女相撲。采女が雄略天皇に呼ばれ,その場で着替え,その場で相撲をした。(日本書紀)

1596年(文禄5年)刊行の「義残後覚」には比丘尼(びくに=尼さん)が勧進相撲の寄手として自由に相撲に参加できた様子が記述されている。

天明5年(1785年)の鎌倉山女相撲の資料がある。裸にまわしを纏った「女性力士」が二人、描かれている。

明治10年、内務卿の大久保利通から神社仏閣の境内での見世物興行の禁止の布達が出さた。

相撲はまだ「見世物」の一種とされていた。国技の地位ではない。「古くから神道との関わり」を持つというが、神社仏閣の境内から排除された。相撲界と神道とのかかわりは、単に興行場所が寺社仏閣だったにすぎない。

明治17年の展覧相撲の開催などで相撲禁止論は影を潜め,明治42年(1909年)に相撲は国技となった。とはいうものの、国技としての相撲の歴史は、まだわずか100年余。


出典  
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/…/…/933/1/59-1-zinbun-06.pdf


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