エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

放談「文化・歴史」

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幣原喜重郎の覚悟と意思を伝える貴重な資料
『幣原喜重郎の直筆原稿が加美で見つかる 憲法9条の意義強調』

転載元 河北新報オンライン様


 戦後2人目の首相として憲法制定交渉に携わった幣原喜重郎(1872〜1951年)の直筆原稿9枚が、宮城県加美町の民家で見つかった。占領期に書かれた「年頭雑感」で、憲法9条の意義などを強調する内容。独特の表現で国力再生の道を説いている。

 原稿はA5判ほどのサイズに万年筆で書かれている。正確な執筆時期は不明だが、「講和会議を目前に控えて」の文言から、1951年9月のサンフランシスコ講和会議前となる51年か50年の年頭と考えられる。当時は衆院議長に就いていた。
 「ラジオ放送原稿」とも伝わっているが、裏付け史料は見つかっていない。加筆や修正も多く、文章を練った様子がうかがえる。
 幣原は連合国軍総司令部(GHQ)の指示の下、憲法改正に当たった。原稿では荒廃した国情を踏まえつつ、「日本の将来はまことに多難であるが、地平線上に一条の光明が輝いている」と論じる。
 9条に戦争放棄と軍備全廃を明文化したことで、国力を平和産業の発達と科学文化の振興に振り向けられると指摘。他国による侵略の可能性に対して「軍備の充実や、他力本願によって国家の安全を求めてはならない」「最も効果的なる城壁は正義の力である」と持論を展開している。
 所蔵していたのは、元宮城県知事の本間俊太郎さん(78)と弟の昭雄さん(73)。昨秋、衆院議員だった父俊一氏の遺品を整理した際、蔵の中で見つけた。日本進歩党などで幣原と行動を共にした俊一氏が遺族から原稿を譲り受け、額装して居室に長く飾っていたという。

 個人での長期保存が難しいとして、2人は近く原稿を公的機関に寄贈する考え。俊太郎さんは「改憲論議が浮上する中、憲政史料は広く一般に公開した方が良い。憲法について考える契機にしてもらいたい」と話す。

<外交官らしい表現/中央大総合政策学部の服部龍二教授(日本政治外交史)の話>
 首相時のラジオ放送原稿は何点か確認したが、衆院議長時のものは見たことがない。美しい言葉を多用しているが、何を言わんとしているかは分かりにくい。本心を幾重にもオブラートに包んだような表現に、熟練の外交官らしさがにじむ。幣原は野党を巻き込んだ「超党派外交」を追求しており、はっきり本心を表明できなかったのだろう。「他力本願」は国連による平和を指しているとも読める。分かる人には分かるよう、工夫しているように感じる。

[幣原喜重郎]政治家、外交官。大正末から昭和初期にかけて4度外相を務め、対英米協調の「幣原外交」を展開した。戦後の1945年10月、73歳で首相に就任。昭和天皇の「人間宣言」を起草するなど天皇制護持に努め、憲法制定交渉に尽力した。49年、首相経験者で初めて衆院議長に就任。51年3月、在任中に死去した。

(家族の絆)  精神科医・野田 正彰さん 2002年4月

・・・八十年代の富裕な消費社会を経験し、独身貴族、家庭内離婚、ホテル家族と浮かれ、それまで家族のなかで営まれていた衣食住のほとんどを家族外のビジネスに代行させてしまった。その後に、「家族はいいものだ」「家族の絆を大切にしなければならない」という、家族回帰の主張がよく聞かれるようになった。そうかもしれないが、そこには過去の家族について美化や偽りがないだろうか。

個人においても、過去の家族は美化される。やさしいお母さん、黙々と働き後ろ姿で生き方を伝えていたお父さん、かわいい弟、勝気なお姉さん、お母さんが入院したとき、あんなにも支えあった家族、といったように。しかし、皆が皆、こんなふうに美化できるわけではない。偽りの美化をしている傍らに、美化できずに黙っている多くの人がいることを忘れるわけにはいかない。

 こんな家族像は、日本の三、四十年前に限っても虚偽でしかない。実際には生計を維持するのに疲れ、子どもを放任していた夫婦は少なくない。結婚を妨害された男女から生まれた子どもは、養子に出されたりした。貧困からの児童虐待もけっして少なくなかった。昔の新聞を開くと、継母による「まま子いじめ」の記事がよく出ている。そのため、今は死語になった「まま母根性」「まま子根性」といった不快な言葉もあった。挫折感から酒に溺れ、妻子に暴力をふるい続ける男も多かったが、妻子は行くところがなくそれに耐えていた。昔は現在よりはるかに殺人事件が多く、それも家族間の争いによる事件が多数を占めていた。家出、行方不明も少なくなかった。

・・・それゆえに、家族とはこうあるべきだと声高く主張する人には注意した方がよい。「女性は家庭に帰れ」「父は権威をもて」「父母は睦まじく、日本の伝統を子に教えよ」、こんな家族像を説く人の家族関係が、しばしばすさんだものであったりする。・・・

・・・どんなに努力しても仲良くやっていけない事情のある夫婦、子どもの非行や引きこもりに困惑し疲れ果てている親、父や母の横暴に苦しんでいる子どもなど、不幸な家族が少なくないことを忘れず、そんな人を援助するにはどうしたらいいか、考え続けるべきである。



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暗殺される前日のスピーチ 日本語字幕あり

「しかし 私は知っている 暗闇が深いときこそ 星は輝いて見えることを」
「私は立ち止まらない」

今日で50年



東日本大震災、原発災害が発生して7年
同じ7年前の3月、中東シリアが戦禍にのみこまれていきました。
シリア危機も8年目に入りますが、昨年一年で910人もの子どもが犠牲になり
前年より50%も増えたとのこと。
さらに子ども兵は3倍に増え、シリア危機発生以後最悪とユニセフは伝えます。
シリアでは空爆などによる民間人虐殺が今も続いているという現実。

73年前の今日、1945(昭和20)年 3月13日の深夜から翌日未明にかけて
大阪大空襲と呼ばれる、大阪中心部へ奇襲空爆による民間人虐殺が行われました。(第一次大阪大空襲)
前年の12月から空襲が始まり、敗戦前日まで 大阪は空襲を受けることになりますが
中でも45年の3月13日から14日にかけての大空襲がもっとも甚大な被害が出たとのこと。
この3日前には東京で、前日には名古屋、そして大阪にはこの後も続き、一般市民を狙った空爆は日本全国で行われました。

大阪大空襲の時、今の大阪市難波に暮らしていた私の母は、焼夷弾の雨の中を祖母(母の母)におぶられて奈良まで逃げました。
わずか4歳だった幼女の脳裏にはっきりと記憶され、のちに祖母が母に伝えたことも含めて
その時の生々しい体験を私は小学生の頃から何度も聴いてきました。
過去にも書いたことがありましたが、後年に聞き直した話しと
昨年に久しぶりに会えた伯母から聴いた話しを加味して母の表現で書かせていただきます。

母は6人きょうだいの末っ子
家は難波高島屋のすぐ近くで、大正時代は宮内省御用達の箸問屋を営む大きな家だったそうです。
姉2人兄3人でしたが、男は兵役と疎開で家におらず、姉の1人は風船爆弾工場に動員され
もう1人の姉は女学生。家は祖父母(母の両親)と母と姉と従業員(丁稚さん)で暮らしていました。
1945年、丁稚さんたちも全員疎開し、家は家族4人と番頭さんだけでした。
3月13日の深夜、警鐘が鳴り始め母は起こされて祖母と一緒に防空壕へ。
祖父は警防団だったので、近所にBが来る防空壕へ逃げるように叫びながら走ったと。
やがて空襲警報が鳴り、高島屋が狙われるという噂があったので、家を捨てて逃げる事に。
全員一緒に逃げたら、全員一緒にやられてしまうということで
祖父と伯母(母の姉)、祖母と母、番頭さんに分かれて逃げて、おさまったら
高島屋に集まることを約束して、違う方向に逃げました。

この時13日、アメリカ軍の爆撃機 B(ボーイング)29はグアムを発ち
深夜に西から大阪湾に飛来、その数274機
低空飛行で焼夷弾を人口密集地の大阪市に次々と投下していきます。
祖母は母をおぶって、綿が沢山詰まった冬用の厚手の布団を水槽に浸けて
水を吸った重い布団を母をおぶったまま被って、そのまま避難を始めます。
しばくして防空壕に逃げますが、こんなところはすぐにやられるという声に
防空壕を出てさらに逃げます。B29は母たちの頭上を飛び、クラスター焼夷弾を容赦なく人間の上に落としてきます。
頭から被っていた重い布団は、家屋が焼ける炎の熱ですぐに乾いてしまい
川を見つけては、その布団をつけてずぶ濡れの重い布団をまた被って逃げます。
女性の体力で大変だったと思います。
その時、必死に逃げる人たちは、転んでしまう高齢の人をまたいで、お構いなしに逃げていた光景を
母はよく覚えていました。
焼夷弾が落ちる音、爆発する音、油の匂いや焼ける匂い、煙の匂いなど
嗅いだことのない匂いも覚えていると語っていました。

祖母と母は、銀行の地下に逃げるように促されて一旦入りましたが
祖母は煙が地下に入るのを見て、ここは危ないと思い、頼み込んで反対を押しきってそこを出ました。
日付が変わって、深夜の1時から2時と思われる時間帯ですが、炎で昼間のように明るく
そしてとても暑かったと。
母は祖母におしっこがしたいと言いますが、祖母はおぶったまま、そのままするように言ったと。
時間が経つにつれて、逃げ遅れて路上に沢山の人が倒れていましたが
2人はその合間を逃げきることができ、やがてB29の飛来音もしなくなり、日が昇り始めると
大阪市は焼け野原となり開けてしまい、高島屋が見えたそうです。
しばらく休んで、祖母と2人で高島屋を目指し、母たちは先に到着しました。

祖父と伯母がなかなか来ないので、亡くなったと半ば諦めていたようですが
やがて乾パンを配る人が来て残りが少ないと告げるので
祖母が母にあげてほしいと言い、母が手を出すと、突然母の手を払ってその乾パンを奪って逃げる人がいたそうです。
家は全焼してしまい、祖父たちも現れないので、祖母の実家のある奈良に行くことに。
電車も一駅二駅で止まり、そこから電車を降りて線路を歩き、また電車に乗れてもすぐに止まってしまい
また歩く、という繰り返しの中、道すがら顔も服もススだらけの母娘を見て、昨夜の空襲を逃げてきはったんやな、かわいそうにとおにぎりを差し入れてくださった方もいたと。

万が一は奈良に行くと祖母が言っていたらしく、祖父たちも奈良に向かい、やがて家族は再会でき
そして、祖父方の実家のある滋賀県に移り住み、母は二十代半ばまで滋賀に暮らします。
滋賀でも攻撃があり、母や伯母は米軍の機銃掃射で狙われた経験もあり
伯母は未だにアメリカ人を見ると、腹がたつことがあると言ってました。
終戦後、兵役を終えた兄や空襲を逃げた番頭さんも含めて、一家は全員無事でした。


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この日の空爆は3時間以上続き、21平方キロメートルが消失し
約4000人の方が犠牲になり、50万人以上が被災しました。
低空飛行による焼夷弾投下で焦土化する奇襲作戦は、夜間に遂行されましたが
これは対空砲火を避けることもあったようで、実際に大阪から高射攻撃をしましたが
一機のB29を撃墜したに終わりました。
計8回の大阪への空襲で、府内で1万5000人以上が亡くなり、120万人以上が被災しました。
また、空襲を受けた旧大阪市電路面電車の車両が復興されて
現在、広島市内を現役で走っています。




大空襲とは別に
1945(昭和20)年7月20日午前8時半ころ
私が現在暮らすところから、自転車で15分ほどの場所に
模擬原爆が投下されました。
これは、実際の核攻撃の予行演習で、長崎に使われたプルトニウム型原子爆弾と同じ形状の爆弾に
通常の火薬を詰めて投下したものです。
この日を皮切りに、8月14日まで全国で50回近く模擬原爆が投下され、約400人の人が
犠牲になりました。
このことは、また投稿しますが、この最初に投下された地点に
その記憶を留める碑がひっそりと立っています。
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.マーチン ルーサー キングjr.牧師の誕生日
1964年のノーベル平和賞 アクセプタンス スピーチ




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