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反戦ブーム 敗戦70周年週間も終わるでしょうか
米軍との戦闘に備えて2万の日本兵が駐留していた、千島列島の先端、古守島(シュムシュ)
1945年8月18日 日本の敗戦、玉音放送の3日後、その島にソ連軍が攻めてきて、戦闘に。
9月2日に降伏調印でソ連の占領下に。
そのことを、着想から30年を経て、蒼穹の昴などの作家、浅田次郎氏が、客観的で徹底した取材をもとに小説化し、5年前に出版されています。
小説「終わらざる夏」
ひとつひとつの命は ひとつひとつの人生であるということを 自分に言い聞かせながら書いた」
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放談「文化・歴史」
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5年前に一度書かせていただいたことがありますが、加筆してまたブログに残しておきたいと思います。
私の父は昭和11年生まれで、敗戦後まで当時の中国(中華民国)大陸を転々としていました。
通った幼稚園や小学校は「大日本帝国北京第一小学校」ということや
小学生の父がバスに乗ると、日本人の大人が中国人に対して「そこをどけ」と父に席を譲らせた話しなども聞いていました。
祖母からは逆に中国人に優しくされ、守られて日本に帰国できたことなども聞いています。
祖母も、また父は今も中国や中国人を「シナ」「シナ人」と言います。
ネトウヨのように悪意で言うのではなく、当時そのように口にしてきたことで、染みついてしまってます。
母は昭和15年生まれ、6人姉弟の末っ子で、長女とは20歳離れています。
小学生の頃から、よく空襲の話しを私にしていまして、未だに耳に残っています。
5年前にあらためて聞いて記事にしました。
それは1945・昭和20年 3月にあった、第一回目の大阪大空襲の話しでした。
同年3月13日の深夜から未明にかけて、米軍のB29(Bはボウイングの略)が274機も飛来し
現在の大阪市の都心部の一般民家に対して焼夷弾を夜間に投下した、無差別攻撃でした。
母の家は、難波の高島屋の裏手にあった箸問屋で、大正天皇御用だったと聞いており
当時はお金持ちだったそうです。
しかし、空襲によって全てが焼き払われ、滋賀の田舎に疎開してからは、貧乏暮らしだったとのこと。
1945年3月母はまだ4歳、後に祖母(母の母)から聞いたことも含めて、4歳の少女の脳裏に、記憶として鮮明に刻まれた大空襲。
3月13日日付けが変わる直前、空襲警報が鳴り響き、祖父(母の父)は地域の防災長のような事をしていたので、町中を走って大阪に爆弾が落ちるから防空壕へ逃げるように、呼びまわりました。
深夜の寝静まった時間に空襲が始まり、高島屋を狙ってくるという噂が広がり、母の家族は防空壕から出て、避難することにしました。
母の家族は当時、母ともう一人の姉と、祖父母の四人家族、出兵した長兄以外の番頭や丁稚などの従業員と男兄弟は全員疎開、長女は女学院生でしたが、風船爆弾工場に動員されていました。
その風船爆弾工場も爆撃を受けることになりますが、避難する際に兵士から
「大和撫子たるもの、米兵に捕まったら、これを飲め」と一人一人に青酸カリが配られていたと聞いています。
B29飛来の爆音が聴こえると、家族4人が一緒に逃げると、全員一度にやられてしまうから
と、祖父と伯母、祖母と母、の二手に分かれて逃げることにし
空襲が止んだら、また高島屋に集まろうと約束をして、それぞれに逃げました。
当時、防火用水が町中にあり、綿が沢山詰まった厚めの冬の布団を、その水槽に浸して
母をおんぶしたその上から水を浸した布団をかぶって、逃げたとのこと。
それだけでも、想像以上に大変だったと思います。
しかし、それでも焼夷弾によって町中が燃えていて、布団がすぐに乾いてしまい、用水路を見つけては、その布団を浸して、おぶった母の上から重い布団をかぶり、また逃げるということを繰り返していました。
しばらく走って、一旦防空壕に逃げますが、兵隊からこんな所はすぐにやられる、と言われ
また逃げることになりました。
その時に母が見たのは、転倒した高齢の方は、みんな構うことなく、むしろまたいで逃げていたと。
さらに銀行の地下に避難しましたが、祖母が地下に煙が入って来るのを見て
ここは危険だから外に出た方が良い、と言いましたが、皆は外の方が危ないと、祖母を引き留めようしましたが、祖母は振り切って外にでて、焼夷弾の雨の中を逃げました。
母の耳には、焼夷弾のカラカラカラという音、深夜なのに、すべてが見えて、家が燃え、煙がもうもうとあげて燃える音が、今だに残っていると言います。
3月の深夜に水に濡れた厚い布団をかぶっているのに、町が炎の海なので、寒いどころか、むしろ暑かったそうです。
後日の報道で、地下に逃げた人は、煙にやられたり、シャッターが開かなくなって、蒸し焼き状態で全員が亡くなったと、祖母から聞いたようです。
祖母が逃げている間も、逃げ遅れて亡くなった人が沢山倒れている町の中を、避けながら走り
母がおしっこをしたいと言っても、祖母はおぶったまま、そのまま出させていたと言います。
やがて、焼夷弾が落ちてこない場所にたどりつき、陽が昇り始めた頃には、B29も見えなくなり
逃げてきた大阪市内が焼け野原のなり、遠くから高島屋が見えたと言います。
そこから、また高島屋を目指して歩きはじめました。
おそらく往復で30kmはあると思いますが、母をおんぶして、水に浸した布団をかぶったまま15km走ったのではないかと察しています。
高島屋には母たちが先に着きました。なかなか祖父と伯母が現れないので、亡くなったと半ば諦めていたといいます。
母たちがいる場所に、乾パンを配りにくる人がきて、祖母がこの子(母)にあげて、というと
配っている人が母にわずかな乾パンを渡そうとすると、横から母の手をはらって、乾パンを奪っていく人がいたそうです。
難波の家は全焼し、祖母方の実家のある奈良へ向かうことにしました。
かろうじて動いていた電車も一駅か二駅で止まってしまい、そのたびに線路に降りて歩き
電車が動いても、またすぐ止まってしまうので、また歩くということの連続でした。
そうした奈良への道すがら、ススで顔も服も真っ黒になった母娘を見て、見ず知らずの人が
ゆうべの空襲をうけたんやなあ、可哀そうに、と言っておにぎりを差し入れてくれた人もいたと、母は覚えていました。
やがて、祖父と伯母とも再会でき、父方の実家がある滋賀に疎開し、母は23歳まで滋賀県で暮らしました。
母は、疎開先でも機銃で狙われて、九死に一生を得た経験もあります。
現在、母とその伯母の2人になりました。
もっと、もっと比べ物にならない大変な体験をされた方は何万とおられますが
4歳の女の子の脳裏にはっきりと刻まれるほどの、この体験も、どれほど凄まじいものだったのかと考えます。
この空襲ですが、アメリカ軍はあえて空襲をしないでおいた地域があるといいます。
京都や新潟や広島など。
それは、日本への原爆投下を決めた1944年、原爆の威力を知るために、投下目標候補の都市には空襲をせずにおいた、という恐ろしい話しがあります。
戦争や大義とは、それほど人間を残忍にするのですね。
わざわざ、戦争はいけない、とは言いたくないんです。
それが、特別な考えや思想ではなく、当然の常識でなければならないからです。
平安法制とか言われていますが、自衛隊の派遣手順を厳格に決めたことは、「戦争法案」です。
二度の大戦を引き起こしたのも、相互防衛、集団安全保障でした。
後方支援こそ、最も危険に晒されます。
しかし、そうした社会、国になった時、どうするか、何をするか
戦前の国防婦人会は「暴走」と「同調圧力」が生み出しました。
写真は拾いもの 削除する場合があります。
空襲後の大阪市 今のアメリカ村あたりからの撮影でしょうか
奥に旧十合大阪店と大丸心斎橋店が見えます。
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WHOも太鼓判を押す、医療大国キューバ、いよいよアメリカ合衆国との国交が回復されます。
ここ数年知られるようになってきましたが、キューバは、医療や教育がとても充実していて
独裁国家のイメージが先行しますが、国民の満足度はとても高く、治安も良い国です。
いわゆる先進国と同じ程度の平均寿命で、医療費はほぼ無料、日本では高額治療のものでも無料で、しかも医療技術は、世界でも屈指です。
町中を走っている車を見ると、ノスタルジックな風情漂うような車ばかりですが、大切に修理しながら買い替えないで(できない)何十年も乗り続けていると。
さらに、平和的で文化、教育も高水準。
そのキューバが、世界で初めて、HIV/AIDの母子感染を撲滅したと一昨日WHOが発表したとありました。
世界の中でも日本は素晴らしい^0^/ などの妄想を抱いているうちに
どんどんと、世界は進んでいるということです。
何十億もかけて研究したのではなく、社会制度によって、ということが大切だと思います。
年金の減額、医療費負担増、そして生活保護受給者の家賃扶助減額
しかも、部屋の大きさで減額幅も変え、それを家にあがりこんで調査を開始した、大阪市橋下市政。
戦費や防衛にばかり力を入れて、弱者支援を切っていく自公政権とは真逆です。
WHOによりますと、世界では毎年140万人のエイズウイルスに感染した女性が妊娠し、抗ウイルス薬を飲むなど適切な治療を受けられなければ、15%から45%の確率で、出産や母乳などを通じて子どもに感染するとされています。 |
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ケンポウに違反しているからいけません
とか
若者を戦場に送るな
とか
戦争はいけない
とか
したり顔で叫ばれても、そんなことは、政治批判でも政治的発言でもなんでもなく
誰もが「道理」として持っておくべき「良心」というか、最低限のたしなみレベルですよね。
為政者は自分たちを平和主義者だと本気で思っている以上
戦争主義者だ と言っても届かず
ますます「平和のためですよ」と進めてきたわけですよね。
秘密保護法も集団的自衛権もお国のため、平和の御為と本気で思っているから、正面からの批判は届かなかった。
戦争に反対し、平和を口にすることは、本来 命がけのことです。
目先の利益のために強引にものごとを通す、それが政治だということに対して、罰することができるのが真の政治ではないかと思うんです。
今もこの時間、飢えている子どもやおとなが、21世紀の日本に沢山います。
自分で人生を終わらせたいと思っている人が、身の周りに沢山います。
同苦 共感から協働へ無名の連帯
為政者が「しまった」と思う時が民衆が勝つ時。
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その翌日の新聞
加害の正史
来年は敗戦から70年ですが、マスコミの戦争責任、謝罪は未だに無し。
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