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“英霊”に参拝するのは当然と言って、靖国神社に大臣などが参拝するけど
そもそも神道の考え方を無視して、ただナショナリズムの為というのが見え見えです。
個人的考えでは、「英霊」など存在せず、祀られているのは戦争に駆り出されて犠牲になった方々がほとんどで
またA級戦犯は戦死者ではなく刑死者ですが、先日行われた主権回復なんとか式典はサンフランシスコ講和条約に基づいたもので、それはA級戦犯が戦死者でなく、正式な裁判による刑死者と認めたことにもなるので、
非常に矛盾だらけ。
大相撲も「神事」と言われていますが、勝利したことを喜んだりせず、敗者の相手を敬う精神が根底にあります。
日本に培われてきた精神風土には、そうしたものがあるのに、彼のナショナリスト達は正反対。
先日、神田明神の神輿のニュースがありましたが
日本中にある「明神」や「天神」
明神は「平将門」をまつっていますが、平将門を滅ぼした方が、敵である平将門の霊を慰霊するために作りました。
天神の天満宮も菅原道真がまつられていますが、これも道真をうった敵側が、敵である菅原道真の霊を慰めるために建てられたもので、母なる大自然に神性を実感する中で人々の融和を計っていく
これが神道の考え方、あり方だったのですが
その神道の古式にのっとるなら、靖国神社も、中国、アメリカ、東南アジア、オセアニア、オランダ、イギリスなどの兵隊の霊を慰めるためのものにするのが道なんですが。
靖国の宮司の中にも、海外の慰霊所を視察した人がいて、本殿の左奥に敵味方国内外一切の霊をまつる鎮霊者があるそうですが、ナショナリストはこれを靖国の祭神の否定と指摘しています。
西郷さんから白虎隊、湾岸戦争などの戦没者が祭神だという主張です。
A級戦犯も以前はこの鎮霊者に祀られていたという説もあるようですが。
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雅談
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ー ゆく河の流れは絶えずして しかも もとの水にあらずよどみに浮かぶ
うたかたは かつ 消え かつ結びて 久しくとどまりたる例なし
世の中にある人と栖(すみか)と またかくのごとし ―
この有名な書き出し部、読んでいてそのリズムの良さが、すうっと心に入ってきます。
この冒頭部があまりにも名文すぎて、かえってアダとなって続きが読まれなくなったと言われてます。
人生は川の中に現れては消えてゆく、水の泡に、人の命も、住まい、営みを例えています。
東日本大震災が発生して以降、鴨長明の「方丈記」が見なおされています。
400字詰め原稿用紙にして、20枚〜21枚程度のコンパクトな作品。
それは方丈記の約半分が天災と人災の記述でしめられており、
いかに災害が人と住まいに対して、苛烈であったかを書き記されたものであることから
多くの人が再注目し、読まれているようです。
▼安元(あんげん)の大火
800年前から現代人へのルポルタージュ「方丈記」は
平安京を襲った五つの災害を記録したもので
災害描写の一つ目は、西暦1177年 安元の大火
「安元3年4月28日、風の強い戌の国(8時ころ)
都の東南から出火、火は瞬く間に西北西に燃え広がった。
火は朱雀門、大極殿、大学寮、民部省あたりまで燃え広がり
一夜のうちに灰燼に帰した。火元は舞人が宿泊していた
樋口富小路(ひぐちとみのこうじ)の仮小屋。」
火元まで特定した、ニュース原稿のような、しっかりした記録。
その後に、どのような光景であったかなども、克明に記され
最後に、鴨長明の「つぶやき」が盛り込まれてます。
「@Choumei_Kamono
人のやることは全て愚かなものだと言えるが
何が一番かというと、これほど危うい都の中に、
財をつぎ込み、神経をすり減らすことは、
この上なく愚かで、
この上なく無益なことだと思います」
▼養和(ようわ)の飢饉(1181年)
鴨長明の文章は、物事を対比させるのが特徴で
また、社会的に弱い立場にいる人へのまなざしも、その人間性をあらわしていると言われてます。
「養和の頃、2年もの間、飢饉が続き、想像もできないことがあった。
土塀の前や道端で飢え死にした者の類は、数もしれず
これらの死体をかたづけることもできないので、臭い匂いがこの世のすべてに満ち満ちている。
腐って変わり果ててゆく有り様は、目もあてられないことが多い。
鴨川の河原などの死体の捨て場では、馬や車が行きかう道すらなかった。
薪が不足してくると、食べ物のあての無い人は、自分の家を壊して薪にし、市場で売る。
不思議なことには、薪の中には赤い塗料がついたものも交じっており
その元を調べたところ、困り果てた人が、寺に入って仏像や仏具を盗み出し、割砕いていたのだった。
まさに私は、けがれた世に生まれ合わせて、こんな情けない仕業を見てしまったのです。
大変労しいこともありました。
深く愛する、妻や夫がいる者は
愛する心が強い方が、必ず先に死んでいく。
我が身を次にして、手に入れたわずかな食料を、相手に譲ってしまうからだ。
母親の命が尽きたことも分からず、いたいけな幼子が、なおも乳房を吸いつつ、横たわっていることもあった。」
抑制のきいた、淡々とした文書で、事実をそのまま伝えるという、ジャーナリストの筆致
生々しい描写が、心をうちます。
極限状態に陥った時の、人間の対象的な行動
「神仏をも恐れぬ行い」
「愛情が深いほど、死に近い」
二つの描写がありますが、仏像を割り割いて薪にして売ってしまう人を
悪人と言ったり、咎め立てする文章は書いておらず
止むにやまれずに、そういうことをせざるえなかった、
追いつめられた人は、こうなってましたよ
そういう描写を通じて、個人の力ではではどうしようもない、
社会や政治の在り方を情けなさや、当時の状況を語っています。
▼元暦の大地震(1185年)
「同じ頃、この世のものとは思えない、すさまじい地震があった。
山は崩れ、川を埋め。
海は傾いて、陸地を水浸しにしてしまった。
大地は割け、水が噴き出し
都の建物で無事だったのは、一つと無かった。
あるものは壊れ、あrものは倒れてしまった。
最も恐ろしいのは、ただただ、地震なのだとわかりました」
平安京、今の京都市内中心部に津波が襲った描写がありますが
これは、琵琶湖の津波ではないかと言われています。
当時の貴族の日記にも、琵琶湖の水が引いたという記録もあり
証明する遺構もみつかっていることから、湖も津波が起ることがわかっています。
長明は、この大地震の記述の最後の「つぶやき」では、
当時の大震災の風化を憂いています。
「@Chomei_Kamono
地震が起った当初は
人々もこの世のむなしさを述べて
心の濁りも薄まったように見えたが
月日が重なり、年が経ったあとでは
地震のことを話題にする人さえいなくなってしまった」
風化の事も言及してます。
方丈記の時代と、今とが重ね合わさってきます。
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童謡「赤とんぼ」について ーー15でねえやはどこにいったのか?
今、ちょっと見たら、 童謡「赤とんぼ」 三木露風作詞・山田耕筰作曲 夕焼小焼の、赤とんぼ 負われて見たのは、いつの日か 山の畑の、桑の実を 小籠に摘んだは、まぼろしか 十五で姐やは、嫁に行き お里のたよりも、絶えはてた 夕焼小焼の、赤とんぼ とまっているよ、竿の先 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き お里のたよりも、絶えはてた これは、三木露風先生の、孫弟子から聞いた話で、 三木先生ご自身の意図を最も表している可能性が高い話です。 昔、日本の農漁村では、 「間引き(堕胎、胎児を殺す)」や
「口減らし」(自分の子どもを奉公に出す、といえば聞こえがいいですが、人身売買です)が、
普通に行われていました。 あの、漢字学の世界的権威の白川静さんも、そうです。 もちろん、売られていった先が、きちんとした商家ならばいいのですが。 特に女性の場合は、年齢的に言いますと、 6歳ぐらいから、15歳までは、「子守り奉公」。 つまり、裕福な過程の、低賃金ベビーシッターです。 今、世界各地でもベビーシッターの奴隷労働が問題になってますが、 日本でも戦前はそれが当たり前でした。 もちろん、優しい家ならば、まだマシですが、 やはり、生まれた家から離れて、一人、知らないところで暮らすのはつらいです。 この「赤とんぼ」の「ねえや」は、まさにそうです。 年老いた、お手伝いさんは、「ばあや」と言いますね。 あれと同じで、「ねえや」は血のつながった「お姉さん」ではありません。 この誤解が、ネット上すごく多い。 さて、問題の「15で」です。 「子守り奉公」は、基本的に15歳まで。 15歳からは、どうなるかというと、 「女中奉公」になります。 お手伝いさんとして、「子守り奉公」先にそのまま残るか、 口入屋 (周旋所、ここがしばしば悪徳暴力人身売買の温床となったので、 戦後、公の紹介所以外は、原則職業の斡旋はしてはならないことになりました。 だから、派遣労働は、労働法では禁止・規制されてるんですが、 小泉ー竹中改革のときに、それが普通になりました) 口入屋を介して、別のところに売られていくのです。 これが15歳から18歳。 18歳以降がどうなるか、 それが「妾奉公」つまり、誰かの今で言う愛人として売られていくのです。 もしくは、「お女郎奉公」、つまり、不特定多数のセックスの相手をする売春宿に、 売られていくのです。 「赤とんぼ」で、幼い私をおぶってくれた、私の家に「子守り奉公」に来ていた、 あの優しい「ねえや」は、 別の家に、女中として売られていった。 でも、そのことが子どもに知られると悲しがるだろうなと、 お父さん・お母さんは、「ねえやは、幸せなお嫁さんになった」と、 ウソをついたわけです。 その「ねえや」の実家から、あいさつとして来ていた年賀状とかも来なくなり、 その「ねえや」は、私の記憶の中にあるだけの存在となったのです。 悲しい日本の歴史です。 三木露風さんは、日本が「世界に冠たる大日本帝国」とか言ってるときに、 東北を初めとする農漁村が、どれほど貧しく苦しかったかを、 こんな優しいメロディに載せて、 詠んだのです。 |
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名に立ちゅる沖縄(ウチナー) 宝島でむぬ
心(ククル)うち合わち う立ちみそり う立ちみそり ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ (2) 稲粟(イニアワヌ)ぬ稔(ナウ)り 弥勒世(ミルクユ)ぬ印(シルシ) 心(ククル)うち合わち 気張(チバ)いみそり 気張(チバ)いみそり ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ (3) 楽(ガク)や鳴(ナ)いしゅらさ 花や咲ち美(ジュ)らさ 我(ワ)した 此(ク)ぬ沖縄(ウチナー) 世界(シケ)に知らさ 世界(シケ)に知らさ ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ (4) 人(ッチュ)ぬ取ゆる歳(トゥシ)の んぱんぱぬ なゆみ 覚(ウ)びらじに取(トゥ)たさ 六十(ルクジュー)ばんじゃ 六十(ルクジュー)ばんじゃ ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ (5) 我(ワ)んや虎(トウラ)でむぬ 羽(ハニ)ちきてぃたぼり 波路(ナミジ)パシフィック 渡てぃなびら 渡てぃなびら ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ (6) 七転(ナナクル)び 転(クル)でぃ ヒヤミカチ起(ウ)きり 我(ワ)した 此(ク)ぬ沖縄(ウチナー) 世間(シケ)に知らさ 世間(シケ)に知らさ ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ 《訳》 (1) 我らのこの沖縄 宝島だもの 心をひとつにして 立ちあがるんだ (2) 作物の繁り実る沖縄は 弥勒世の印 心を一つにして がんばりましょう (3) 音楽が鳴り響き 花が咲き誇る 美しさ 我らのこの沖縄を世界に知らしめよう (4) 人が年を取るというのは、避けられないものだ 知らぬまに取っていたよ 60歳だよ (5) 我は勇猛な虎である。羽をつけてくれたなら この大海原を飛んで渡って見せよう (6) 七回転んでも 沖縄はヒヤっと起きあがるぞ 我らのこの沖縄を世界に知らしめよう |
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沖縄戦の実相を世界につたえる多元的デジタルアーカイブズ
沖縄戦の資料映像、「慰霊の日」明後日から、いよいよ公開です。
以前、少女時代に、沖縄戦で家族をすべて失い、 |



