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「人なのに、認知症になるとなぜか人として見られなくなってしまっている現実があるんです」
人として見られるなくなる現実とは何か。 それは、認知症になった途端に、自分のことすら自分で決められないと思われてしまい、「善意」のもとに本人不在のまま様々なことが決められて、まるで赤ん坊のように思われてしまう、認知症をとりまく今の日本社会の現実のことを言っているのではないか。
その現実に身をさらされて深く傷つき絶望しているのは、若年性であろうが老人性であろうが、あるいは初期であろうが後期であろうが変わらないだろう。 人は認知症になっても、人として尊敬されて最期まで希望をもって生き続ける権利があるのだ。
私は、聞き書きを通して認知症の人のこれまでの生きてきた人生やその思いを共にすることが、その方を人として尊重することであり、それがその方の生きる希望に繋がると考えて活動してきた。 それは決して間違っていないと思うし、これからも続けていきたいと考えているが、それとともに大切にしなければならないと、改めて思ったことは、認知症の人たちの生きる今を、そしてこれからの人生を、どう尊重し、共に考えていくことができるのか、ということである。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」とは、自分たちのことは自分たちに決めさせろ、といった自己決定権を主張しているのではないように思う。 そうではなくて、「善意」の下に当事者不在のまま進められてきた決定のプロセスに対するアンチテーゼであり、当事者の自分たちを中心にすえて、共にみんなで考えていってほしい、という切実な願いであり社会に対する必死の呼びかけなのではないかと思うのだ。
私は、人が人として最期まで希望をもって生きるために、すまいるほーむで私たちは何ができるのか、何をなすべきなのか、改めて真剣に考え始めたのだった。 出典 六車由実『介護民俗学へようこそ! 「すまいるほーむ」の物語』
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雅談
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