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発見

昨日、用事を終えてから花見に行くことになり近所の大池に行ってみた。
桜は、この二三日で急に満開近くになって見頃となって、三月の光の中で
美しさを見せていた。周囲四キロほどの池であるが、桜の本数はさほど多く
なく散在している。それでもベンチが置かれているところもあり、既に先客が
占領していたので直接草むらに腰を下ろして弁当となった。
急ごしらえのおにぎり弁当であったがなかなか美味しいもので、桜と空気、
それに相棒というものの存在が美味しくさせたのかもしれない。おにぎりを
食べていると、対岸の右手の奥に閃光が時々走るのに気が付いた。なんの
閃光かと不思議に思いながら、自然が造るものは予期しないものがあると
思って百ミリの望遠レンズつけたカメラで覗いてみると、何と小さく釣り人の
姿が見える。ああそうだったのか、なるほどそうか、釣り糸が竿を振るたびに
光っているのだと知った。これは人口の閃光なのだと新発見をしたのである。
時には無理をしてでも外に出ると、新発見と言うものがあると思わされた花見
であった。また、相棒がこんなことに感激するのかという発見もありんかなか
の時間であった。明日には新元号が発表されるということであるが、どんな
元号になるのであろうか、平成の時にはなるほどというものがあった。

「なんとなく」

「命に逆らう」
 この頃どうも「命に逆らう」と言う言葉を口にするというか、自分に言い聞かせている自分がある。私が生きられているのは、自分に課せているものがあるということであろう。その自分に課せているものとは虚構の世界のことで、その虚構に私はのめり込んでいるということであろうか。私の作品を作文と言う人がいるであろうが、私自身は小説であると思って書き続けている。それ故に、私は命に逆らって虚構の世界に浸かりながら生き延びているということになる。
 命に逆らうということは、次々に自分に課せるものが必要となり、起承転結の起をついついしてしまうことになり、その結果書きかけのものが生まれてくることになる。現在書きかけのものが五作品あり、現在完全に止まってしまっているものもある。現在進行中のものはペン書きの「触れたるや」があり、原稿用紙二百枚少々進んでいる。この他にPCで書いているものに「愛のこぼれ」「迷想」「しげ蔵さんのプラトニック」「戯書処」等があるが、勿
論時間を置きながら書いているものもある。また、長年何としてでも書きたいと思ってものに「老ウエーターの贖罪」と言うのがあり、資料作りに頑張っているものもある。
 こうして考えてみると、なんとも欲張りと言うか、不見識と言うか、放言と言うか、言葉がないほどのあり様となっている。でもこれが「命に逆らう」という私の生き方となって、私の毎日を作り、その結果毎日を不満足のままに終わらせているというのが本当のところである。
 私の楽しみは「ネタ掘り」で、これは私の造語でビリビリとくるものを常に探しているというか、好奇心丸出しのネタ掘りで、第三者的な観察と、一言でも声を掛けられたらどんどんネタ掘りをするという厄介者でもある私である。このネタ掘りも一つ一つの物語として時には短編として生まれてゆく。ともあれ、余りにも思い付きのようなタイトルで書き始めていることに反省の必要性があることは間違いない。焦りを持つ私は、命と虚構ということを意識的に問題として取り上げて自分で納得しようとしているのである。それ故、ここから生まれるものには反省が多く、日記には繰り言が沢山書かれるという結果になってしまっている。私にとって、虚構は無限であるが命には限りがあること故に、当然の如く焦りが生じて反省と焦りが交互に入り交じって呻吟するという結果になっている。
 これから死に向かってスピードを上げて行くことであろうが、何とか道草をして命の時間を延ばしたいものである。
                              おわり
 
 

「なんとなく」

    「どう生きる」
 
 誰にでもあることであろうが、負のスパイルに落ち込んでしまった時、そこに存在するものは「どう生きるか」という難問に直面するということであろう。一旦生きることの腰を折られてしまうと立ち直りが難しくなり、悶々とした日々が積み重ねられて苦悶の中で生きることになる。もうこうなると、人間として本当に重症になり、精神状態に変化を兆すことになって苦しむのである。このような精神状態からいかに抜け出すか、抜け出せるかは本人の気持ち次第であろうが、誰かの力を必要とすることもある。負のスパイルという問題を自分の中に抱え込んだ時、精神状態は思考範囲を狭くし、往々にして判断力を狂わしてしまいがちになり、ことによっては取り返せないほどの深みにはまり、ただ命を繋いでいるということになり、生きるということよりも生かされているということになり、希望を自ら持てない生き物となってしまう気がする。
 生きるということは「どう生きるか」になり、希望が持てるという前提があっ
て始めて「どう生きるか」も考えられることになるであろう。ただ単に生きるということと「どう生きるか」と言うことはその意味合いは違って来る。それでもどう生きるかという問題に行き着いた時、既に精神的には立ち直り始めているということになるが油断は出来ない。そう簡単に負のスパイルから抜け出せるとは思えないし、負のスパイルを繰り返さないとも限らない。人間が人間として成長し続けるということは、ある意味では負のスパイルを乗り越えて初めて出来ると考えられるとしたら、案外に自己に立ち向かうことが早めに出来るかもしれない。いずれにしても「どう生きるか」という問題は極めて困難なものであり人それぞれに違ってくるだろうし、一概に決めつけることは出来ないと思われる故に困難さが増してくる。
                         おわり

「なんとなく」

  「北風」
 今年の冬は案外に暖かいようであるが、僕には北風が思いっきり吹き付けてくる。昨日の北風も苦しみを齎したが、今日の北風は心を抉り取るようにあり苦しみを通り越して呆然と立ち尽くす以外にないようであった。
 僕が待っているのは南風で、この南風は僕に幸せを運んでくれた過去があり、僕の想いも運んでくれた過去がある。僕は決して甘えているのではない、僕なりに想いを馳せながら南風を待っているのである。
 「おい北風君、少しは風の力を弱めてくれないか、そこまでしなくとも」
 「いいんや、君は倫理に違反しているから風を強めなくてはならない」
 「僕は倫理に違反しているわけではない。人間の本質を求めているだけである
  と思っている」
 「そこが間違いであることに気付く必要がある。倫理や道徳を守れない人間は
  粛清されなければならない」
 「でも北風君、人間の本当の心はそう簡単に倫理や道徳だけで決めつけること
  は出来ないと思うよ。そう簡単に粛清で片付く問題ではないと思う。時代が
  どんなに進もうとも昔も今も人間の心にそんなに大きな変わりはないと思
  う。その証拠に「文豪の女遍歴」という本があるから読んでみたらいい」
 「それは特別な人たちに限ると思う。人間には人間社会と言うものがあり道徳
  や規範、そして倫理を守らなければ人間社会は成り立たないのだよ。それ故
  に私が存在して警告を発する必要がある。悪いことは言わない、今君の中で
  もう一人の君がもがき苦しんでいるのを払拭しなければならない。それは
  人間としての義務であるよ」
 「でも文豪は女遍歴によって作品を生み出していると言っても過言ではない
  程の作品を世に問うている。まるで文豪たる人の条件とでも言えそうであ
  るが、何も文豪に限らず普通の人間にも存在するものだと思う」
 「それでは人間社会が成り立たない。君が待っている南風は私が阻止する以外
  にないと思う」
 「この国には四季と言うものがあるから、北風君の思いのままに事が進めら
  れるとは思わない。愛してはいけない人を愛するということは苦しいこと
  であるが、きっと南風さんが愛を運んできてくれ、愛を運んでくれると思う
  から、僕は苦しみに耐えられると思う」
 「やっぱり台風並みの風を送る必要がある。人は災害と言うであろうが仕方が
 ないことである」
 「北風君、そこまでしなくても・・・・・北風君にも心はあるのだろう」
                           おわり

「なんとなく」

  「五十パーセントの脳で生きる」
 人間の脳と言うものについて考察してみると、自分の脳について意識しているのは何時頃までであろうかと思う。若いころにも自分の脳について疑問を持つことがあるが、それはまだ自分に余裕と希望があるから出来ることであろうが、歳と共に自分の脳について意識したくないというか、意識しなくなり、仮に意識した時には諦めの感情が既に優先してしまうことになるであろう。それでも自分の脳について意識出来る間はまだいいとして、完全に自分の脳について意識しなくなった時、仮に百あった脳が五十パーセントになっていたとしたらとんでもなく恐ろしいことになる。
 五十パーセントの脳で生きるということはその思考範囲を狭くして、物事を繰り返して言葉にするということになるであろうが、本人にはそのことが全く理解されてないというか、もはや理解出来なくなっている段階に来ているということになるであろう。それ故に何事にも一生懸命であり、笑顔と言うものを忘れて常に真剣な表情を見せる人になっている。五十パーセントの脳で生きるということは、ある意味人間の限界に来ているということになるかもしれないし、五十パーセントを切ることにでもなれば、一人では生きられないかもしれない状況に追い込まれているということになる。五十パーセントの脳が限界であるとするならば、現代医学で五十二パーセントの脳にすることは出来ないであろうかと期待をするが、どのような治療を行っても現代医学では決して期待出来るという保証はないのではなかろうか、そのことを考えると結局宿命論的な考えしか出来なくなってしまう恐ろしさがある。脳の衰えは自覚症状のある時はまだゆっくりと進んで半信半疑の状態が続くが、ある日突然五十パーセントを切る時が来るようで、本人はともかく家族や周りの人は一過性のものではないかと判断をしたくなるのである。
 脳の衰えを加速させるのは何かの拍子で頭を打ち、後に頭の手術をして回復した人が、何年か後に急速に記憶力の低下を来たし脳の衰えを数パーセントから数十パーセント進めてしまうようである。それでも人間として生きるための脳の限界は五十パーセントは絶対に必要のようで、五十パーセントあれば出来ることもあるようで習慣的なものは熟せるというか、一人では生きられないが助けがあれば生きられるという段階になるようである。
 年齢と共に脳の衰えは隠せないが、八十代で脳の衰えはマイナス二十パーセントと考えていいのではなかろうか、まあ人それぞれであるが八十パーセントの脳の人であっても、自覚は百パーセントの脳と思って生活しているのが実態と言うものであろう。
 それにしても五十パーセントの脳で生きている人の表情は、誠に真剣な表情をして一生懸命生きている。悲しいかな五十パーセントの脳の人には笑顔が見られない。

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