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エドワード・ホッパー ロルフ・ギュンター・レンナー タッシェン
現代文明は光を遍在させた。
白色灯とそれに続く蛍光灯の普及は都市の隅々まで光で照らし出し、
原野にも光の導線を出現させる事になった。
こうして、明かりはそこに人の居る証では無くなった。
ホッパーがなぜ自分に取って気になる存在であるのか?
漂白されたような光に照らされた壁や道、まるで書き割りのような建物や風景、
目を殆ど合わせないマネキンのような人物達(と言っても殆ど一人かあるいは居ないのだが)、
それは決して表現力溢れる絵では無い。
題材も都市やガソリンスタンドや別荘、深夜のレストランであり
神秘的なものや偉大なものは何も無い。
言葉を連ねればそれを聞いて彼の絵を見たくなるとはとても思えないだろう。
では、彼の絵がなぜ人々の興味を引き付けるのだろう?
自分はそれを”孤独”だと受け取った。
かっこよく言わなくても深夜のファミリーレストランで
一人物思いに沈む時に感じる何かと言えば良いのか?
あるいは、一人で部屋に帰って明かりを付けた時に見える部屋の光景。
そして、自分の中の空虚さを見詰める事の不安。
彼はそれを遍在する光によって表現している。
電灯以前の光はそこに人や何かが居る事の証だった。
光は貴重であり、それが燈されるからには何か大切な理由があったのだ。
レンブラントの光の周りには兵士や学生たちが集っていた。
エル・グレコにとっての光は神がそこに居る事を示す導き手だった。
それはカラバッジオにとっても同じであった。
だが、ホッパーの光には何も無いように思える。
そして彼の不思議は彼が描きたい物がそれだったと言う事だ。
「私の関心は家の壁に当たる陽光をえがくことにあるのである」と彼は語ったと言う。
彼の絵では電灯の明かりも陽光もまるで同じもののように見える。
陰影を許さないどこか無機質な光。
陽光そのものの喜びを描いた印象派の細やかな陰影も含んだ光の舞踏とは
異質な現代の光に対する感覚がそこにあると思う。
それが描きたい事の全てだという精神は
その絵の題材から連想される凡庸さからは程遠い筈だ。
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ホッパーの描く光はとても乾いていて「しん」とした感じや空虚さが実に20世紀のアメリカ的。↑の「気になる存在」っていうのがすべてを言い当てている感じがします。私にとっても好きな画家というより「気になる画家」です。
2005/6/22(水) 午後 9:31
アメリカの20世紀半ばの現代美術って、ポロックみたいに原理主義的にまっすぐ突き進む奴とか、ウォーホールみたいに商業主義に走る(ふりをした?)奴とか、この人みたいに普通さの中に何かを求める人とか居てアメリカ人のある種の探求のパターンが見えて面白いっす。
2005/6/23(木) 午前 7:21 [ saltydog ]