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「聖なる人」フランシスコ・ザビエル2


先にこちらを読んで下さい↓
★ザビエルのいたゴア1

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マラッカという町はザビエルにとって決して忘れることの出来ない町であったに違いない。

ザビエルはこの町で、彼の人生を方向付ける運命的な出会いをすることとなるのだ。


彼が出会った運命の人、それはヤジロウという日本人であった。

ヤジロウは鹿児島出身の唐物問屋だった。
かつては武士の一人として馬に乗り刀を差していたらしいが、自らの領主が滅ぼされた後は、商人として生計を立てていたらしい。

だがある時、彼は殺人を犯してしまった。
逃げ場のなくなった彼は、貿易船に乗り込み南方へと逃れたのである。


マラッカに身を潜めたヤジロウであるが、彼の頭には常に人を殺めてしまったという悔恨の念があった。
そんなある日、彼はこの地にインドのゴアから「聖なる人」と呼ばれる偉い宣教師がやってくるという噂を耳にする。

彼はその宣教師、フランシスコ・ザビエルと出会い、自分の罪を告白したいと考えるようになった。

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1547年12月7日、ヤジロウはザビエルと出会った。
ヤジロウと出会い、彼の話を聞き、日本という国を知った時のザビエルの驚きと喜び、それは如何ほどのものであっただろうか。

ザビエルは、それまでもインドやマラッカ、モルッカ諸島などで布教の成果をあげてはいたが、さらに有望な新天地が見つかった、そう思ったに違いない。

というのも、ヤジロウはとても聡明な男だったからである。
一説によるとヤジロウは好奇心旺盛で向学心が強く、仏教の経典や中国の古典の知識もあるほどの学の持ち主であったらしい。

そんな知識欲のある人間が多くいる国であるならば、布教はこれまでにない成果を収めるであろう。
ザビエルはそんなことを考えた筈である。



ザビエルはさっそくヤジロウをゴアへと送り、聖パウロ学院で神学を学ばせた。

そして、1548年5月20日、ヤジロウは2人の日本人の仲間と共に洗礼を受けることとなる。
洗礼名は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」だった。


機は熟した。1549年4月19日、ザビエルは洗礼を終えたヤジロウたちを従え、ついに日本へと旅立ったのである。

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夕方、私は丘の上で、西の彼方に茫洋と広がっている海を見ていた。
海の上には、巨大な夕陽がぽっかりと浮かんでいる。夕陽は眼下に建ち並んでいる白い家々を真っ赤に染め上げ、生い茂っている椰子の木々の下に真っ黒な長い影を形作っている。

私はセント・ポール教会の崩れかけたレンガの石垣に腰掛け、そんな光景を眺め続けていた。

橙から朱、朱から紅、紅から紫へと刻々と変わりゆく空と海の色彩を見続けていると、いつしか私の思いは遠く16世紀へと飛び立ってゆく。



フランシスコ・ザビエルという人物は、キリスト教の歴史上に於いても稀有な人物だったのだろう。
そんな人物が、中南米やアフリカではなくこの東洋に派遣されたというのも何かの運命なのかもしれない。


そして、ヤジロウである。

彼が日本で殺人を犯さなかったら、そして、処罰を恐れこのマラッカへ逃亡しなかったらザビエルとの出会いはなかった。ザビエルと日本との出会いもなかったのかもしれない。

強い布教の意思を持った「聖なる人」ザビエルが仮に日本を訪れていなかったとしたら、日本の歴史は大きく変わっていたであろうことは想像に難くない。


日本にキリスト教が伝わるのは歴史の必然であったのだとは思う。
しかし、ザビエルがヤジロウを通して日本という国に関心を持たなかったら、日本のキリスト教伝来は数百年遅れていたのかもしれない。

お隣の朝鮮へのキリスト教伝来は1784年。
それを考えると極東の島国である日本への伝来はさらに遅れたことは間違いないであろう。



徳川幕府の鎖国政策はキリスト教に対する怖れがその理由の一つにある。
ザビエルがいなかったら鎖国はなかった。もしくは遅れた筈だ。

歴史とはつくづく不思議なもの。
ほんの小さな偶然が積み重なり、大きな歴史の必然を作り出してしまう……。



西の彼方の茫洋たる海を眺めると、今まさに真っ赤な超新星のような太陽が沈まんとするところであった。

私は目を細めてその光景を見つめながら、遥か昔、ここで同じように夕陽を眺めたであろうザビエルとヤジロウのことを思っていた。

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1549年8月15日、ザビエルとヤジロウは念願の日本に到着した。 そこは鹿児島、島津貴久の治める薩摩の地であった。 初めて見る日本の地、ザビエルの心は高鳴ったことであろう。 そして、ヤジロウは約2年ぶりに見るふるさとの風景に目頭を熱くしたに違いない。 島津から布教の許可を得たザビエルはそこで精力的に活動を行った。約1年の滞在期間中、百人が洗礼を受けることになったのだという。 領主島津も受洗した百人のうちの一人だった。 翌年、ザビエルは平戸へと向かう。 ちょうどその頃、ポルトガル船が平戸に来航しているということを聞いたのだ。 平戸に着くと、ザビエルはすぐさま領主、松平隆信から布教の許可を得る。 そして、たった2ヶ月の間に百人を受洗させた。 毎日のように増えてゆく信者の数……。 しかし、順調だったのはここまでだった。 彼はその後、山口と堺を経由し京都へ向かう。天皇や将軍と出会い、日本国中への布教の許可を得ようと考えたのだ。 ところが、京は、外国に慣れ貿易の旨みをよく知っていた鹿児島や平戸とは全く違っていた。ザビエルは京都の御所で門前払いを受けてしまうのである。 当時の京は応仁の乱の戦乱によって荒れ果て、焼け野原に近い状態だった。 黒澤明の映画『羅生門』に出てくるようなあんな殺伐とした風景がそこには広がっていたのである。 御所の主人にとって、ザビエルなどという異国の訪問者の相手をする、そんな余裕はなかったのかもしれない。それに当時の天皇は全く権力を持ってはいなかった。 結局、天皇だけでなく近江にいる将軍義輝と会うことも叶わなかったザビエルは、失意の下、京から下っていった。 天皇さえキリスト教に改宗させられれば日本をキリスト教国にすることができる、ザビエルはそう考えていたらしい。 しかし、そんなに簡単にいくわけがない。日本にだって一千年にも及ぶ信仰の歴史がその時既にあったのである。 だが、ザビエルは布教を止めることはなかった。 その後、山口、豊後に於いて彼はさらに多くの信者を獲得し、この日本の地にキリスト教の種を撒き続けることとなる。 そして、その種は次第に成長し、いつしか日本の為政者にとって無視できない存在となってゆくのである。 一説によると、最盛期である1605年頃のキリシタン人口は四十万を数えたのだという。 当時の日本の人口が1200〜1500万人であったことを考えると驚くべき数である。 ザビエルの撒いた種は大きな幹へと成長していったのだといえる。 しかし、そんな幹もたった五十年で切り落とされてしまう。 1613年(慶長18年)、徳川幕府は禁教令を発布した。キリシタンの弾圧である。 キリシタンは踏絵をさせられ、改宗を迫られた。檀家制度の下、人々は必ずどこかの寺に所属し戸籍を登録することが義務付けられ、葬儀の際は必ず所属する寺の僧を呼ばなければならなくなった。 それをしなければキリシタンの疑いをかけられ処罰されることとなったのである。 信仰を捨てきれないキリシタン大名や幾多の一般信者たちはマニラやマカオへと逃れた。そして、ある者は日本に踏み止まり、殉教していった。 以後、日本に於けるキリスト教は衰退の一途を辿ることとなる。ザビエルの幹は徳川幕府という斧によって切り落とされてしまった。ザビエルの野望は完全に潰えたのだ。 しかし、考えてもみて欲しい。 ザビエルの来航、そして、彼によるキリスト教の布教はこの国に大きな衝撃を与えた。恐らくそれは、日本の歴史が始まって以来のディープ・インパクトであったに違いない。 先にも述べたが、それが日本の鎖国への引き金となり、アジアの他のどの国とも違う独特の文化を形成する礎ともなったのである。 そして、日本はある意味、鎖国により西洋列強の植民地になるという難を逃れた。ザビエルの布教は、その遠因であるといっても差し支えが無いであろう。
イメージ 5

再びゴアのボム・ジェズ教会。
金箔に埋め尽くされた祭壇の右手には小さな祭室がある。

人々の祈りの様子を眺めた後、私はその祭室へ向かって歩いていった。


ザビエルは日本を教化した後、次は中国に行くことを考えていたらしい。
しかし、その途上、中国南部の川上島で熱病により息を引き取ったのだといわれている。
1552年12月3日のことであった。

寂しい死だった。
彼の最後を看取ったのは、忠実な中国人信者アントニオただ一人だけだったのだという。


ザビエルの遺体はマラッカに移され、そこで9ヶ月間安置された後、ゴアへと運ばれた。
そして、現在、その遺体はこの赤茶けたラテライトの色をしたボム・ジェズ教会にある。

イメージ 6

祭室には巨大な棺がドデン!と置かれていた。それを黒山の人だかりが取り囲んでいる。
私は人ごみの間からその銀色の棺を覗き見た。人々の会話の端々に彼の名が混じる。


「――ザビエル――」


そう、この棺こそ彼、フランシスコ・ザビエルの遺体が安置された棺なのだ。

仰々しい銀色の大きな台座の上部には、小さなガラス窓の付いた棺がある。そこからは微かに人間の姿らしい物が見えた。どうやらあれがザビエルの遺体らしい。

このザビエルの遺体はミイラ化している。一説によると遺体は死後、埋葬されたのだそうだが決して腐ることはなかったのだという。


ヨーロッパの古い伝承はこう言っている。


――信仰の世界に身を捧げた聖人の遺体は腐ることはない……。


ザビエルはイエズス会の東方布教の尖兵だった。その志が真に神の教えを広めるという純粋な信仰にあったということは疑いがないが、当時、世界中を制覇せんとしていたポルトガルやその同胞スペインの野心も背景に横たわっていたことは間違いないことであろう。

しかし、彼が日本に残した遺産、日本の歴史に於ける貢献度は計り知れない。
やはり、彼は偉大な人物だったのだと私は思う。



私は微かに見えるザビエルの遺体を眺めながら、もの思いに耽っていた。

周りを取り巻いている褐色の肌をした人々のざわめきが聴こえてくる。
真夏の午後の気だるい空気の中、サリーを纏った女性が静かに十字を切っているのが見えた。

日本の歴史を変えた偉人フランシスコ・ザビエル。
私はその存在に対して自然と崇敬の念が沸き起こってくるのを感じた。

私は目を瞑り、日本式に両手を合わせると、静かに祈りを捧げた。


「・南インドとムンバイ」書庫の記事一覧

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    お久しぶりです。引っ越し終わったんですね〜。今回のこの記事、Bravo!!!です。歴史的背景と、さるみみさんがそこで実感したものと、写真がうまくマッチしてます!これだけ、すばらしいルポは、プロ並みです。ヤジロウの話が出てきたのは、個人的にかなり面白かったです。実は、ザビエルが種子島に来るちょっと前の出来事、鉄砲伝来については、いずれ自分も記事にするつもりで、今、構想を練ってるとこだったんですよ。いつになるか分かりませんが、近いうちに記事にするつもりでいます。

    [ くあ東 ]

    2006/7/29(土) 午後 4:02

  • ザビエルとヤジロウの話・・・そしてザビエルの最期・・・どれも初めて知ったことばかりで本当に面白かったです。キリシタン弾圧の激しさはキリスト教が日本にもたらした衝撃の大きさの表れですよね。九州に昔の教会が多いのはザビエルが京以南で布教をしたからなのですね☆

    [ mou*a*ue ]

    2006/7/29(土) 午後 5:31

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    くあ東さん、ありがとうございます。ほめていただいて嬉しいです。鉄砲伝来、興味深いですね〜。異文化同士の出会いというのはどれもロマンを掻き立てられます。記事、楽しみに待っていますのでよろしくお願いします。

    さるみみの見た世界

    2006/7/29(土) 午後 9:11

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    ピノコさん、ありがとうございます。ザビエルとヤジロウの出会い、日本史を形作る壮大な歴史絵巻ですよね。ザビエルが日本に来た時、当時の人々にとっては本当に衝撃的だったんだろうな〜。

    さるみみの見た世界

    2006/7/29(土) 午後 9:25

  • 教会、シンプルだけど荘厳さも感じられます。看取ったのが1人だけだったのは寂しいような、でも1人でも居たことが良かったような。ザビエルってすごいですね

    さとこ

    2006/7/30(日) 午前 7:50

  • 顔アイコン

    さとこさん、看取ったのがたった一人でも、その後何百年も崇拝されているのである意味幸せなのかもしれません。ザビエル、名前に負けず劣らずすごいです。

    さるみみの見た世界

    2006/7/30(日) 午後 8:35

  • ザビエルの名前は知っていましたが、背景までは知りませんでした。歴史は面白いですね。色々な事がつながっていくのですもんね。いつかザビエルのお墓を訪れてみたいです。

    [ - ]

    2006/8/3(木) 午前 1:13

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    たかさん、ザビエルの墓、インドに行ったらぜひ行ってください。この遺体は何十年かにいちど、公開されるそうですよ。

    さるみみの見た世界

    2006/8/4(金) 午後 10:00

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    ザビエルとヤジロウの運命の出会い。キリスト教と日本が出会い、鎖国を呼び、欧州からの植民地をふせぐことになる。それがこの2人の出会いから始まったんですね。不思議です。

    masao

    2006/10/7(土) 午前 4:28

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    まさおさん、たったひとつの偶然が歴史の必然を生み出す。ほんとに歴史って面白いです。

    さるみみの見た世界

    2006/10/7(土) 午前 7:18

  • 人の出会いが歴史を作っていくって、このお話を読むと良く分かります。しかし、、ザビエルと一緒に鹿児島入りしたヤジロウはもう、殺人の罪を問われることはなかったのですか?2年くらいしかたってないなら、時効もきてないと思うんですけどぉ^^;;;

    さくらこ。

    2007/5/7(月) 午後 7:57

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    桜子さん、当時は戦国時代でしたからねぇ。時効とかはなかったかもしれません。だけど、遺族たちの報復を怖れたかも。

    さるみみの見た世界

    2007/5/9(水) 午後 9:04

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    鹿児島市内にザビエル公園があります。(車で通り過ぎただけですが)公園がある訳が納得です。キリシタンがマニラ、マカオに逃避したんですか。逃避した人達は現地に同化していったのかな?

    [ mid**ino345 ]

    2008/4/9(水) 午後 0:48

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    みどりのさん、たぶん、同化していったんじゃないでしょうか。
    タイのアユタヤに住んだ日本人たちは地元のタイ人に同化していったようですよ。

    さるみみの見た世界

    2008/4/10(木) 午前 0:45

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    なんだか息苦しくなりますね、腐らない遺体となると。
    ザビエルは狩猟民族の血が流れているような。
    激しい人の印象ですね、
    しかし、日本人は明確な宗教を持たない民族なので、あっという間に洗礼を受けたのでしょうか。
    一神教が鮮烈だったのかもしれないですね。

    michi

    2009/1/9(金) 午後 11:06

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    みちこさん、私も詳しいことは全然わかりませんが、ザビエルも日本古来の氏神とかを完全に否定して布教することは難しかったような気がします。キリシタンたちも最初は数多くの神様のひとりとしてキリスト様も、というような感覚で、次第にキリストだけになっていったのかもしれません。

    さるみみの見た世界

    2009/1/10(土) 午後 11:29

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    キリスト教も日本民族にとっては一宗教に過ぎなかったのではないでしょうか。しかし40万の信者となると信仰というより西洋文明への憧れが多かったと推察されます。秀吉、家康はキリスト教は植民地主義のお先棒担ぎと断じたのでしょう。

    [ 周作 ]

    2012/6/24(日) 午後 4:37

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    周作さん、自分は西洋文明への憧れはあったとは思いませんが、秀吉、家康の支配にとってキリスト教は都合の悪いものだったのだろうと思います。

    さるみみの見た世界

    2012/11/12(月) 午後 10:03

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    ザビエルはキリスト教洗脳で日本を植民地化するためにきたのですよ。
    九州の各大名は火縄銃ほしさにその代金として自分の領地の子女を性奴隷として欧州に売っています。
    東方少年使節団として欧州に行った千々岩ミゲルはその旅先で全裸で鎖につながれた日本人女性を目にしています。
    彼はそれでキリスト教の手先になることをやめました。
    秀吉は、金塊ををやるから日本人を返せ!と白人たちと交渉しましたが決裂。
    それで鎖国のスタンスを取ったのです。
    なんで南蛮人といわれるのか、これで分かるでしょう。

    [ - ]

    2013/8/10(土) 午前 1:47

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