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漱石、進行中!

漱石全集第二巻。「坊っちゃん」、「草枕」にこの明治38年前後、「猫」と併行して書かれた短編数編を納める・「坊っちゃん」は、中学時代の愛読書で、何回となく読み返した。身近な中学生活がテーマだし、ストリーは抜群に面白い。トントンと語り込んでいく話法は、恐らく、彼が愛した落語家を模したものだろ。すっかり嵌ってしまって、学校の作文ではその文体を模した。クラス担当で国語教師だった大場辰雄先生は、毎回それを優秀作として教室の壁に張る一方、私のことを「漱石坊っちゃん」と呼んだから、これが私の綽名ともなり、私は頗る愉快だった。これが当時新しい文学界を切り開いた歴史的意味は今も残るが、今の小説としてはそう優れたものではない、と言うべきだろう。
「草枕」も繰り返し読んだもので、開巻冒頭の数行や、茶店に入る時の、「おい、と声をけたが返事がない」に始まる数行はハッキリ覚えていた。だが、本書は、著者が、私には馴染みの深い熊本の山路を辿りながら、「非人情」と称する彼の哲学に思いを馳せる哲学書と申すべきで、中学坊主の私が、それをどれだけ理解出来たか疑問で、現に、前出の文章以外に記憶している箇所もなかった。
それにしても、何回か述べた通り、タバコを吸ったり、酒を飲んだり、ケチな不良少年を演じたり、成績不良、緒イタズラのため、しょっちゅう父に殴られたりしながら、手動蓄音機を鳴らしては指揮者の真似をやったり、初恋らしきものに胸を躍らせたり、私の中学時代は実に多忙だった。
今週、併せて、大川周明著「日本二千六百年史」を読んだ。小学5年生の時見た映画ニュースで、
「東京軍事裁判」を見た。一人の男が、ツカツカと歩いて東条英機に近づき、その頭を数回殴って、MPに連れ出された。殴った男が大川で、彼はただ一人民間右翼の巨魁として、東条達と同じA級戦犯として裁きを受けていたのだが、この挙動によって免訴となり、絞首刑を免れている。日本人にA級戦犯を軽蔑させたい米軍は、大喜びでこの場面をニュースに入れたのだろう。そんな事もあって、私は彼に興味を持っていたのだが、今回、昭和14年、大東亜戦争勃発の2年前に発刊されて大ベストセラーとり、戦意高揚に大きく貢献した、とされ、反面、右翼思想家の大立て者の著作でありながら、政府検閲の下、多くの伏せ字を持つともされ、政府がどんな点を問題視したのか、にも興味あったのである。
通読してみると、これは素直に日本史の事実を詳しく述べており、若干の修正と追加を加えれば、そのまま高校の「日本史」」教科書として通用する、と信ずる。ただ一つ賛同出来かねるのは、豊臣秀吉朝鮮征伐を、彼の老衰仁起因する暴挙、とする現在の通説ではなく、シナ、インドまで征服し、更に拡大するとした、大盛挙が彼の死によって挫折した、としている点で、これは、後の大東亜共栄圏構想の先駆者ともしたかったのだろう。これ以外は、聖徳太子を高く評価する、源頼朝を、判官贔屓に組することなく、腐れ切った平安京と絶縁して、武家権600年の道を開いた英雄とし、織田信長を革命児、それに続く秀吉、家康
をも評価、注目すべきは、キリシタン伝道を詳細に辿り、三代将軍家光が、それを厳禁し、鎖国令を徹底したのを、日本の進歩を遅らせた、と正しく見ている点である。貨幣経済の伸張に伴い、武士の力は落ち、明治維新は当然の帰結、とする。黒船も、ペリー以前に、ロシア、スペイン、フランス、イギリス等唐のアプローチがあったから、アメリカに名をなさしめたのだ、とする。版籍奉還、廃藩置県は、西郷隆盛の力による、とするが一般的だが、彼は、これらとの関連では西郷の名も出していない。
伏せ字とされているのは、全て、天皇、皇室に不利な諸点で、これもむしろ、彼の歴史家としての公正さを示す、とすべきであろう。東京裁判史観のみで育った世代には、特に一読を勧めたい。」

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今年の読書計画

階下の寝室に、夏目漱石、森鴎外、永井荷風 の3全集と、司馬遼太郎の諸作が置いてある。司馬は、単行本が出る度にバラ買いした。3全集は、神田古本屋街で求めたものである。司馬は昨年。再読了した。3全集中、漱石、鴎外には異論あるまいが、荷風を彼等と同列に置くことには疑問あるかも知れない。だが、私としては、漱石は中・高校時代の愛読書、鴎外は大学時代、遼太郎はサラリーマン時代、そして荷風は退職後に愛したもの、私は彼の反骨と耽美主義が大好きで、晩年の彼が毎日昼食を摂った食堂{大黒屋}を、京成電鉄八幡駅近くに訪ねたこともある。遼太郎は昨年読みあげた。現役を去って20年近く、もう趣味だけに生きていい身、今年は3全集を通読し、合間に米・英のエンターテインメント物を挟むことにしよう。
事始めに、漱石の「吾輩は猫である」を週間足らずで片付けた。これは彼の小説第一号。英国留学から帰り、俳句、雑文などでお茶を濁していた彼が、亡き親友、正岡子規の衣鉢を継いで、雑誌「ホトトギス」を主催していた高浜虚子に頼まれ、書き下ろし短編のつもりで、「吾輩は猫である。名前はまだない」と始めたところ、予想外の好評に、次々に書き足して、あの長編になったものである。主人公の「猫」は、生まれ落ちた場所から這い出して、中学の英語教師の家に拾われ、飲み残しのビールに手を出して酔っ払い、樽の中に落ち込んで溺死するまでの一代記である。飼い主の高校か大学時代の友人の中年男や、教え子と覚しき若者達が次々に登場し、合間に主人の妻や子供達、それに近所の住人等も現れるのを猫の目で観察するだけの話だが、明治38年当時、小説も文語文が主体だった時代に、猫が語るままの口語体だし、随所に著者に、和漢・欧の豊富な知識が散りばめられているのも魅力である。日露戦争も終わりに近く、日本社会が最も緊張した時期なのに、彼等の会話は、浮世離れしたのどかさで、こんな事も当時の人心にアピールしたのかも知れない。我が家にも一匹猫がいる。我が家の猫としては三代目、家族で募金して金を出して買ったのは初めてである。尤もらしい血統書が付いており、売買時の約束で、一切戸外には出さず、食物は決まったキャット・フードに限られる。ま、言うなれば箱入り娘である。犬と違って、人言う事なんぞ気にもせず、自分がやりたいようにしか行動しない。こんな勝手さも、諸々の決まりに従わざるを得ない人間には魅力なのだろう。
テレビなどでもしょっちゅう取り上げられているようである。猫好きは昔からいた。「昭和の名人」と謳われた落語家の古今亭志ん生も大変な猫好きで、「猫の災難」という古典落語を、彼だけは「犬の災難」と置き換えている。ある職人、朝湯から帰って、一杯飲みたくて堪らないのだが、一文無し。そこへ鳥屋が、すぐ食えるように料理した鳥を持って来る。隣の奧さんが、朝湯前に注文、自分は不在だから、隣家に預かって貰え、というのであ。「これで一杯やれたら」と眺めるうち、友人が来て、「こんなサカナがあるなら俺が酒を」と買いに出る。そこへ隣の奧さん、預かって貰った礼を述べて、鳥を持ち去る。友人への言い訳に窮して、彼は、「隣の猫に取られた」と言う。友人は、文句を言いつつ、買ってきた酒を置いて、なにか代わりのサカナを買いに出る。彼は、元々飲みたかったところだから、少しだけ、のつもりで始め、結局一升全部飲んで終う。また言い訳に窮して、「隣の猫が暴れ回ってビンを蹴飛ばし、一升全部こぼしちゃった」と言い、友人が「とんでも無い猫だ」と怒るのを聞きつけて、隣の奧さんに文句を言われてお終いである。志ん生としては、愛する猫をそんな悪者にするに忍びなかったのだろう、彼だけ、犬に置き換えて演じている。
漱石は落語も好きだったから、この噺もどこかの寄席で聞いたかも知れない。
この小説、文体でも内容でも日本文学史上画期的名作であることは間違いない。面白く読めるのも事実だ。
だが、今の人々に感銘を与えるかは疑問だ。若い人々は、彼学識を理解出来ないのでは?そんな彼が、徐々に漱石になって行くのを、今年は辛抱強く追跡して行きたいものである。

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我が読書歴・帰らぬ夢

読書は子供の頃から好きだった。少年時代は全くの乱読。戦中・戦後の貧しい中、子供本なんぞロクに出版されなかったから、先ず父の蔵書の中から手当たり次第に引っ張り出し、次いで叔父達の蔵書を狙った。
教科書の予習・復習なんぞ全然やらず、だから父に、「馬鹿息子」と張り倒されること屡々だったのは何度も述べた通りである。その頃読んだ本で印象に残っているのは、パール・バックの「大地」、菊池某の「己が罪」等、凡そ子供には理解し難い代物ばかりだ。高校に進むと、折からの受験勉強熱に犯されて、それも、それまでの不勉強を取り返すには、他人と同じことをやっていては到底駄目だ、と、学校は出来るだけサボって、自宅、図書館などで、ひたすら独学に励んだ。
試験には合格したが、教師に就いて系統立って学んだ連中に比べれば、不自然ところが幾つかあり、再度述べている英語発音がムチャクチャなこと等、その適例とすべきだろう。大學には、日本有数の教授連もおられのだから、その下で、真面目に学ぶべきだったのに、この馬鹿息子は、ここでも、入学早々、経済学、日本史、世界史等、学ぶべき項目を先ず定め、誰にも相談せず、本屋を渡り歩いては、それらしい本を選んで持ち帰り、授業には殆ど出ず、下宿か図書館で読み耽っていた。司法試験に臨むにも、数多いその為の受験クラスなど無視して、見事に落第した。考えてみれば、こんな勝手な読書をやるのなら、何も苦労して受験勉強をしたり、まだ苦しかった両親から、莫大な学費を搾り取る必要もなかった訳で、熊本の山中で一人励んでいれば事足りたのである。
社会人になると、もう時間割も教授もないまま、一段と一人よがりの読書を続けた。比較的に系統立ったのは司馬遼太郎で、これはほぼ全作読み、その多くは今も保存している。また、アメリカを指向して以来、その歴史、経済、社会等に関する書物を英語で読み、また、英語の小説類を多読すべく心掛けた。私が、会話はムチャクチャなのに、その他英語の知識や語彙に驚かれたのは、こんな関係もあるのだろう。
昨年初頭、読書方針を定め、司馬の手持ち全作と、お気に入りの英語の小説全作を読み返すことにした。もう仕事もなく、誰に気兼ねの必要もないのだから、ここは好き勝手にやるか、という次第である。ここでは、司馬に関して雑感を述べてみたい。彼の主要作は、義経、信長、秀吉から龍馬、秋山兄弟等、日本史上周知の緒人物を取り上げている。彼等について、新聞記者上がりらしく、徹底的に取材して事実関係を固め、それに、司馬史観と称される味付けをして、仕上げている。だから、彼の作品は面白いだけでなく、明治維新、日露戦争等、戦後の日本人が忘れ去っていた日本史とその担い手群像を描いて、我々に「日本」を再認識させてくれた。私の場合、川重の中で、その本業とは異質のバイク事業をどう展開すべきか、悩んでいた時、龍馬が、幕藩体制から脱皮し、海援隊という独自路線を選んだことに学んで、「1.バイク専業の新会社を興す。
2.それはニューヨークを本社兼マーケティング本部、3.日本とアメリカに開発本部、4.日本とアメリカとブラジルに生産拠点を置く、5.ニューヨーク市場に上場して資金調達」なる壮大なプロジェクトを描いたのだが、龍馬の脱藩が幕藩体制否定であった如く、我々の夢は川重に対する反逆行為であり、我々には龍馬の力なく、我々に続く者もないまま、我々が川重を去る結果になって終った。
彼の愛読者の多くは、当時の、終身雇用、年功序列のしがらみの中にあった日本のサラリーマン諸君であり、彼に触発されて、新しい生き方を模索した方々も多かったろうし、それが彼の人気にも繋がったのだろう。
付言するけど、我々の夢は、十分に実現可能だったし、実現すれば、面白い国際企業になって、より多くの従業員、ディーラー、お客さん達を慶ばせる会社になっていたことだろう。私の龍馬の差を痛感すると同時に、帰らぬ夢を懐かしく偲ぶ次第である。

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父を語る その2

卒業に際して二揉めした。第一に、父は、折角帝大法学部を出るなら、国家公務員になって立身出世を期すべし、の考えだったが、私にその気なく、弁護士を目指して受けた司法試験に落ち、他方、今の妻と結婚の約束あるため、川崎航空機工業に入って食い扶持を稼ぎながら勉強を続ける気だったが、父にしてみれば、そんな無理は実らず、結局、三井でも三菱でもない二流会社で果てることを惜しんだのである。第二に、その妻が気に入らなかった。帝大卒の息子には、然るべき嫁を持たせるべきなのに、自分で勝手に、あんな田舎娘を選ぶとは、というのである。私は、その年の7月、二度目の司法試験に挑戦して破れ、他方、会社の仕事が予想外に面白くて、23年間勤めてBMWに転じ、その間、3人の子に恵まれた。長女の美樹が生まれたら、父は熊本から明石まで飛んで来て、美樹を不格好に抱いて破顔一笑、これで第二の問題も片付いたである。私のことは殴ってばかりだったのに、その子、即ち孫達にはとスッカリ優しく、私が渡米後一年半、妻子を妻の実家に預けたのだが、孫達が遊びに来るのを待ちかねていた由である。
アメリカの家に電話、母が癌で、一年保つまい、とのこと。慌てて、滞米中一度だけの帰国をした。母は素人目にも絶望的と思われたが、更に意外だったのは、あの強い父の落ち込みようだった。見かねて、「母さんは助からんばい。お父さんも、若い嫁さんでも貰い治して、アメリカに遊びに来なっせ」と勧めた。ところが、母は、それから二年後に帰国しても、寝たきりではあるがすこぶる元気、「ああたは、パパに、若い嫁さん連れて遊びにおいで、て勧めたげなな」と噛みつかれた。女性の悋気は、幾つになっても治らんのか、と我が母について学んだものである。父はスポーツならなんでも好んだが、とりわけ相撲が好きで、DVDもテレビもない戦中・戦後、母は料理をしながらラジオを聞いて、一々勝った方に丸を付け、父は夕食を摂りながらそれを眺めて一喜一憂していたものだ。鹿児島で育ったせいもあってか、父は家事には一切手を出さず、年に何回か、隣組の大掃除の時には、母に金を渡して人を雇わせ、自分はどこぞで遊んで、大掃除が済んだ頃、涼しい顔で帰宅したものだった。私が家事手伝いなんぞ、絶えてやったことないのは、そんな父を見習ってのことだろう。父の15万円でスタートした会社は、自動車、バイク、自転車のナンバープレート交付に手を付けたのが、これらの増加に伴って結構な商売になり、晩年の父は、麻雀専用のテーブルと椅子を作らせて、悪友連と楽しみ、熊本では最初にテレビを買って、緒スポーツ観戦を楽しんでいた。父は、アメリカ等外国のスポーツにも詳しかったから、現在のように、衛星テレビでメジャーリーグで日本人選手が活躍しているのを見たら、どんなに慶んだことか、といつも思う。父は、母の、藤崎八幡宮の能舞台で、面まで付けてのフル装束で、能「富士太鼓」」を納める、という少女以来の夢を叶わせてもいる。
元気な父だったが、ある日の午後、会社で倒れてそのまま急死した。航空便は少なく、新幹線はまだ走ってない頃、私は神戸に住む弟と二人、特急列車を乗り着いで何とか翌日の朝着いたのだが、もう完全な死者だった。69歳。こんなことになろうとは露知らず、金庫の中なんぞ覗いた事もない。父のナンバープレート交付の会社は、他県ではすべて運輸省に乗っ取られ、官僚天下りの受け皿になっており、熊本だけ、父の頑張りで個人資本のままだったのだが、父亡き後、いずれは官僚共に乗っ取られる事だろう。私が継いでも、長い事はあるまい。寝たきりの母、その面倒を見る妹と子供二人、彼等まで川重の給料で賄うのは不可能だ。私は、休日毎に帰省して金庫の中を調べ、他方、ホンダの熊本工場に移って所帯を一つにすることも考えていた。だが、ホンダ案は、内部の知人に図ると、「ホンダは慶んで受け入れるが、君のこと、数ヶ月後には米国か欧州に飛ばされるよ」とのご託宣だった。幸い、金庫の中には相当額の郵便貯金証書があり、これで母と妹達はなんとか凌ぐことが出来、私もBMWへ移ったり、好き勝手な生き様が出来たのだった。

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父を語る

種子島家は、同名の島を領土とし、薩摩藩の家老の一人だった。今も同島には、一家の城、墓地が残っている。祖父が幼少の時、明治維新が起こって、一士族になった。一挙に貧しくなり、長男だけは東京帝大まで進んだが、次男坊の祖父は中学止まり。郵便局に奉職して九州各地を転々、私が知る退職後は伊集院町特定郵便局長を務めていた。だから我が家の本籍地は鹿児島市永田町にあったが、父が熊本に居ついて同市に移し、現在に至っている。私は、仕事の関係で世界中を転々したが、種子島は訪問しないままである。
父は鹿児島で育ち、小学校時代は「神童」と言われる程の秀才で、同時に、徒歩競争等陸上競技の万能選手だった。中学は長崎中学で、やはり陸上競技で鳴らし、福岡高校の先輩に勧められて同高校に進むが、「その時ご馳走になったカレーライスの旨さに驚いた」とよく言って居た。祖母は若くして逝き、その後女中さんに家事を看て貰っていたから、旨い物に恵まれることもかったのだろう。福岡高校時代、中距離走では当時の高校記録を立てた由である。九州帝大に進み、ここでは陸上競技より麻雀等のバクチに精出した。
佐賀県唐津市は、バクチの盛んな事で知られたが、同市一の博徒の親分は、子分を昇格させるに際し、「九大の種子島と打って来い」と派遣した由だから、父の腕は、プロのバクチ打ちにも評価されていたのだろう。
その代わり、父は酒は飲まず、我が家に酒類を見た事はなかった。その点、私は酒は飲むけど、麻雀等のバクチに手を出す事は少なく、不肖の息子とすべきだろう。父が大學を出た1920年代後半は、アメリカ発世界不況の時期で、父は日産ダットサン販売会社に辛うじて就職したが、当時、自動車販売業に帝大卒が入るのは珍しかったそうである。父は、福岡、広島、別府等、西日本各地支店長を歴任しているから、その能力は一応評価されていたのだろう。日本語の読み書きも出来ない幼少の私が、自動車部品名を英語で覚えた話は一度語ったことがある。この間、熊本の商家の長女だった母と結婚、私以下5人の子供に恵まれるが、下の二人は戦争中に亡くした事も前記した。私と父の関係が悪化し、殴られる事が増えたのは、学校に進み、通信簿なる物が出現してからである。私は成績劣等という訳ではなかったが、「神童」として育った父にすれば、全く満足出来かねる代物だったのだろう、「馬鹿息子!」が私の代名詞になった。ある朝、朝食の席上で、「日本は主権在民になったと言うが、我が家はどうか」と問い、一同黙っていると、「我が家は主権在父で変わりなしじゃ」と宣い、母以下全員、押し黙ってそれを黙認したものである。父は、戦争中は、自動車会社を統合した自動車統制会に勤めていたが、敗戦間近い1945年春、先ず私達家族を熊本へ送り、次いで敗戦直前の夏、父も帰って来た。東京での生活がますます危険になったこともあるが、自動車統制会は、軍の管理下にある国策会社で、その官僚的体質には我慢出来ず、世の衰勢を見ながら、九州で自分の事業を興すつもりだったようだ。父の蔵書や古い手動式の蓄音機も送って来た。私は、「カルメン」などのレコードを掛けては指揮者のふりをして遊んだり、父の蔵書を手当たり次第に乱読したりすることがそれまでのイタズラに追加された。ある日、「明治大正文学全集」の「己が罪」という小説を読んでいたら、「小学生で読むには早すぎる」とて、殴られた。九学への進学は、私自身も父も教師達も「望み無し」としていたのだが、意外にも、県下の秀才を集めたとされる入学試験で、私は合格者150名中の5位、2組の副級長に就任。私は、「何かの間違いだ」と信じたし、父はもっとそうだったろう。中学生としての私は、不良化の一途を辿り、長距離走が速いで陸上競技部にスカウトされて、初めて父を慶ばせたが、それも長続きせず、高校へ進学して受験熱に襲われて猛勉強を始めたが、私の東大志望を父は真面目にとらず、その合格に目を丸くしていた。
曽本金15万円の熊本自動車商事(株)を設立して間もない苦境の中から、私の学資を捻出し続けたのには感謝だが、案外、その御苦労が、彼の父としての唯一喜びのだったのかも知れない。

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