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中々更新ができませんでした。
 
実は少し前から、パーリ仏典を読みつくそうと発心して、春秋社版の原始仏典シリーズを読み進めていました。
 
何故かⅡの方から入ってしまい、全6巻を読破。そして今ようやく、原始仏典(Ⅰ)の全7巻を読み終わったところです。
 
いや〜、さすがに疲れました。中村元選集の場合、その内容に対する興味・関心・感動が途切れる事がなく、どんなに大部の書であっても、読む事に疲れる、という事は余りなかったのですが、このパーリ経典は想像以上にタフでした。
 
いちばんの原因は繰り返しが多い事でしょう。とにかく、これでもかこれでもかと同じ文章を、章題さえも同じ文章を、その一部を変えた文章を、延々と繰り返し続ける。
 
一体これら大量の重複文章を、経典として侵すべからざる聖典として保持してきた人々は、どのような精神構造の持ち主であったのか、そう感じずにはいられないほど、その文章構造は私にとって、(あるいはおそらくほとんどの現代日本人にとって)、とてもくどくどしく、読むのが苦痛になる様な代物でした。
 
以前ネットで瞥見したレビューに、パーリ経典とは本来詠唱つまりチャンティングする事に意味があるのであって、普通の書物のように読書する対象ではないのだ、という感想があったのを覚えていますが、正にそんな感じです。
 
しかし、南方上座部の諸国では、大がかりな仏教大学の中でこれらの経典が隅々まで読まれ、記憶され、その意味が解析され、理解され、その事をもって学僧としてのステータスを得ていた訳で、考えただけで、気が遠くなるような世界です。
 
彼らは一体、その「学問」によって、何処までブッダの「境地」に近づく事ができたのでしょうか?
 
出家の学僧と同じ事は、私には到底できませんが、私には私のやり方があります。ぼやき節全開ですが、個人的には、なかなかに興味深い内容でした。
 
通読した印象ですが、第一に、これらの経典群は、ブッダの教えとして、何よりも五官・六官の防護、という事に重点を置いていたのだな、と言う事が分かりました。
 
日本の修験道でも「六根清浄」と掛け声をかけながら山を駆けたりしますが、あれですね。しかし日本大乗仏教全体を俯瞰すると、このパーリ経典におけるほどには、六官の防護、という点を重視していないのではないか、と感じます。
 
それは何故か、と言えば、日本大乗仏教の中で、瞑想実践の具体的な方法論、というものが、すでに日本に仏教として到来した時点で失伝してしまっていたからだ、と個人的には思います。
 
五官・六官の防護、こそが、ブッダの瞑想法の、その悟りの作用機序の文字通り根幹に位置している。だからこそ、常に瞑想実践と共にあり続けた南方上座部では、その根幹がないがしろにされる事がなかった、という事なのでしょう。
 
常に瞑想実践と共にあり続けた、と言っても、実態はその言葉通りではなかったかも知れません。
 
おそらく、比丘サンガというものが苦悩を治療する病院から、経典を学び記憶する学校に変容していく過程で、真摯な瞑想実践の担い手は確実にマイノリティへと追いやられていっただろうからです。
 
瞑想実践における治療具としてのサティ(気づき)が、学僧エリートにおけるサティ(記憶)に置き換わってしまった。
 
それが、テーラワーダ仏教の偽らざる歴史だったのかも知れません。
 
しかし、ブッダの教えの根幹は、正にサティ(気づき)に基づいた瞑想実践とそこから生まれた智慧にこそある、と正知した人々は、いつの時代にも存在し続けた。
 
そうして優れた学僧がその記憶の力によって、文言の解釈の力によって、サンガの中でエリート化し支配階層になっていくのを横目に、彼ら真摯な瞑想修行者は、マイノリティへと追いやられつつ、その実践の伝統を絶やす事は決してなかった。
 
もちろん、2500年という長い時の流れの中で、ある時は完全に実践の継承が断絶したかもしれない。けれど、その空白期間のギャップを埋めるかの様に、いつも誰かしらが、瞑想実践に立ち戻り、その要諦をパーリ経典の中に探し求め、発見し、その実践の作用機序を再興して行った。
 
本当に頭の下がる思いです。
 
ただ、私の感触なのですが、現代に流布しているヴィパッサナー瞑想のメソッドには、何かしらの欠落がある。ひとたび失伝したものが、完全には再構築され切っていない。
 
それは以下の言葉を読むと良く分かります。
 
ブッダの言葉 : 中村元訳・岩波文庫より引用
彼岸に至る道の章(パーラーヤナ)
 
1053: 師が答えた、「メッタグーよ。伝承によるのではないこの理法を、私は汝にいま目の当りに説き明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執着をのり超えよ。」
1054: 「偉大な仙人よ、わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り超えるでしょう。
1066: 師は言った、「ドータカよ。現世に於いて伝承によるのではない目の当りに体得されるこの安らぎを、汝に説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世間の執着を乗り超えよ。」
1137: 即時に効果の見られる、時を要しない法、すなわち煩悩なき愛執の消滅、をわたしに説示されました。
 
このパーラーヤナ篇は文字通りパーラーすなわち彼岸に至る道(理法)について、ブッダが熱心な学生たちに尋ねられ、答えるものです。
 
ここでブッダの答えを受けた学生たちは、みな一様に感動し、歓喜し、ブッダに帰依するのですが、日本語に訳された文章の表面だけを見ていたら、一体何がそれほどの感動であり歓喜をもたらしたのか、という事がよく分からないのです。
 
しかし、この学生たちとの対話が、単なる言葉のやり取りだけで終わらずに、実際にその理法としての瞑想実践のガイダンスも含まれていた、と考えると、見える景色が全く異なってくるでしょう。
 
つまり、ここに採録された言葉は、文字通り言葉だけであって、その言葉の背後には、ブッダの指導によって初歩的な瞑想メソッドを実践した学生たちの、鮮烈なまでの感動と歓喜が実在した訳です。
 
“その理法を知って、よく気をつけて行い”
 
というその“理法”とは、具体的な瞑想メソッドであり、それを伝授された学生たちは目の当りにそれを体験し、時を置かずにある種即効的にその効力、すなわち“安らぎ”を味わった。
 
ブッダの瞑想法とは、それほどに劇的に即効力を発揮する「薬」だったのです。
 
もちろん、ここで伝授された理法とは、ブッダの瞑想法の基本中の基本であり、ある意味導入部に過ぎないものだったかも知れません。
 
しかし、その入口に一歩入っただけで、学生たちはこれまでとは全く異なった「景色」を見た。あるいは感じ、観じた。それは大いなる驚きであり、鮮烈なる歓喜であった。
 
その理法(瞑想メソッド)の焦点が、五官・六官の防護にある、と私は観ます。
 
それは同じパーラーヤナの、上記引用に接続する以下の文脈に良く表れています。
 
同引用
 
1055: 師が答えた、「メッタグーよ、上と下と横と中央とにおいて汝が気付いてよく知っているものは何であろうと、それに対する喜びと執着と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
1085: 〜聖者よ、あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知ってよく気をつけて行い、世間の執着を乗り超えましょう。
1086: (ブッダが答えた)「ヘーマカよ、この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲や貪りを除き去る事が、不滅のニルヴァーナの境地である。
1087: この事をよく知って、よく気をつけて、現世において全く患いを離れた人々は、常に安らぎに帰している世間の執着を乗り超えているのである。
 
「上と下と横と中央とにおいて汝が気付いてよく知っているもの」とは何でしょうか?
 
この文章は、この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物」という文章に対応しています。
 
それはすなわち、
上とは両眼であり、下とは口(舌)であり、横とは両耳であり、真ん中とは鼻です。これら四官によって感受した外部情報快美な事物)を、意という官によって処理し識別し思考し反応した所に、執着が生まれる。
 
ここでは身と触が省かれていますが、その真意は六官の防護に他ありません(実際の瞑想メソッドにおいて身と触は深く関わってきます)。
 
具体的には、眼と舌と耳と鼻(上と下と横と中央)の4官に関連した「理法」としての瞑想メソッドを、気をつけて(サティを用いて)実践する事によって、時を置かず目の当りに、学生たちはその効力である“安らぎ”をまざまざと体感した。
 
その安らぎは、近未来における煩悩なき愛執の消滅、あるいは不滅のニルヴァーナの境地、をリアルに予感させるほどのものだった。
 
以前紹介した山下良道さんの話ですが、ミャンマーの本場パオ森林僧院で、多くの修行者がアナパナ・サティの入り口で呼吸に気付く事ができずに挫折している、という実態を聞き知って、わたしは大いに驚いた記憶があります。
 
ブッダの瞑想法が最初の入り口の段階でそれほどまでに困難であるなどという事があるだろうか、と。
 
このパーラーヤナ扁に記述された「理法」がもつ、目の当りに時をおかず効果が現れると言う性質と、余りにも乖離してはいないでしょうか。
 
ここにこそ、失伝され完全には再構築され得なかった、ブッダの瞑想法の核心部分が存在している。
 
現時点ではそのように、私は読み筋を立てています。
 
そこで焦点になるのが、以下の文章です。
 
「この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲や貪りを除き去る事が、不滅のニルヴァーナの境地である。」
 
一体、どのようなメソッドを使えば、それほどまでに即効的に完全に、欲や貪りを除き去る事が、可能なのでしょうか?
 
そこには、サティという“探り針”を使った、芸術的なまでの“オペレーション”があったはずなのです。
 
次回に続く。
 
★パーリ経典文は、すべて中村元訳・岩波文庫からの引用。 謹んで感謝します。
 
 
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