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パーリ経典の「仏弟子の告白」には、動物の調御に関する多くの比喩表現が存在します。
 
一方で、修行僧の心得・覚悟として、六官の調御(制御・防護)、という文脈も多出します。
 
動物の調御と修行僧の心の調御には深い関わりがある。
 
という訳で、前回は象の調御に関して、いろいろな角度から考えてみました。
 
今回は、まず最初に、実際に現役のタイの象使いが、メス象の首に坐って、彼女を操縦する様子を見てみましょう。
 
 
象使いが象の首に坐って、どのように彼女を調御するのかが、リアルに観察できます。まさに百聞は一見にしかずですね。
 
イメージ 1
鉤棒を手にする象使い。
 
象使いは、現代のタイにおいても、しっかりと鉤棒を持っていました。
 
これは、ある意味驚くべき事実です。何故なら、象の調御に関しては、2500年前のインドの時代から、現代に至るまで、使っている道具(調御法)がほとんど変化していない事を意味するからです。
 
(象使いの技術はパーリ仏教と共にインドからスリランカを経由してタイに伝わった可能性があります。すでに象の調御法は、2500年前にほぼ完成の域に達していたのでしょう。)
 
まず立っている象の腰を手のひらでたたきながら、声かけで座らせた象使いは、彼女の首に跨ります。その際、膝を曲げて、膝頭を耳の上部後ろ、つまり後頭部の両側面に押しつけています。
 
これは、バイクに乗る人なら分かると思いますが、おそらくはニ―・グリップと同じ原理でしょう。
 
体験者の話を聞くと、象の乗り心地は決して良くはない。かなりの上下・左右動を伴います。その状況で、しっかりと膝で象の後頭部をグリップして、安定を保つ訳です。
 
そして、耳の背後に下げた足先を使って、具体的には象の耳たぶの裏をつま先で軽く蹴って、象に指示を出します。
 
イメージ 2
象の耳たぶの裏をつま先で軽く蹴って指示を出す
 
蹴る強さは、象の心理状態に対応して変わるのでしょう。従順で集中力の高い時には、ソフト・タッチでも機敏に反応して操縦できますし、反抗的な、集中力の低下している時には、荒々しく蹴って、言う事を聞かせる。
 
一連の象使いの動きを観察すると、膝からつま先までを適宜に象の耳周辺(後頭部)に接触させて、その触覚を通じて、自らの意思を象に伝えている事が分かります。
 
前回紹介した、鉤棒を象の眉間にあてがって調御する姿は、このビデオでは見られませんでした。
 
これは、おそらく、眉間の急所が、象の欲動を制御するブレーキに相当するからだと思われます。
 
映像に出てくるメス象は、とても穏やかで従順です。象使いとの友好的な信頼関係もすでに十分に確立しており、しかも象が恐怖を感じたり何らかの情動に駆られて暴走するような状況は見られない。
 
象も象使いも共にリラックスしているのが見て取れます。
 
一方で、前回紹介した王侯を乗せた象のパレードや戦場の最前線で戦象を調御する場合、王を乗せた象が万が一暴走したら、象使いの命は有りませんし、戦場の最前線という象にとって恐怖に満ちた環境下で象を意のままに操るのは、強度の支配力が求められるでしょう。
 
そのような状況下では、象を徹底的に完全にコントロールする為に、常にその急所である額の上に鉤棒をかざして、象にその脅威を意識させることによって、完璧な制御を期する訳です。
 
眉間の急所を万が一の緊急ブレーキ(欲動のキル・スイッチ)として、耳たぶの裏から後頭部にかけての触覚刺激をハンドルやアクセルとして、象使いは象たちを様々なシチュエーション下で見事に調御し、操縦するのです。
 
もちろん、これまでに紹介した象の調御法の詳細について、ブッダをはじめ、彼と同時代の聴衆たちは、一般常識として、おおよその事は知っていたはずです。
 
そこで前回最後に引用した「仏弟子の告白」に立ち返ってみましょう。
 
197: マンゴーの若芽(の色)に似た衣を肩にかけて、象の首に坐して、私は托鉢のために村に入った。
198: 高ぶっていた私が、その時静かになった。私はもろもろの汚れを消滅するに至ったのである。
ウサバ長老
 
前回指摘したように、原始仏教の生活習慣においては、出家の比丘が象の首に乗って托鉢のために村に入る、などという状況はあり得ない事です。
 
なのでもちろん、上記ウサバ長老の詩句は「譬え話」なのです。
 
では彼は、象の首に坐して、私は托鉢のために村に入った、という譬えによって、何を表したかったのか?
 
この文言を表面的に見ると、象という他者の首にウサバ長老が乗っている様に受け止められる。けれど実際には、この象は、ウサバ長老本人に他ならない。
 
ウサバ長老本人である象の首に、ウサバ長老本人である「私」が乗って、托鉢のために村に入った訳です。
 
その心は何か?
 
これは以前紹介した穀物を食い荒らす牛の譬えと同じです。
 
食欲に駆られて禁じられている畑に浸入し穀物を食い荒らしてしまう牛は、世間の欲望に扇情され誘惑され修行の道を精進の心を見失ってしまいがちな修行僧そのものの姿でした。
 
象も牛も自然状態では本能のままに生きているものです。決して人間の意のままには従わない。けれど適切な調御を施す事によって、彼らは野生の我がままな欲動を制して、人間の規律に従うようになります。
 
同じ事が仏道修行にも言えないでしょうか。
 
人間が世間で生きている限り、彼らは人間的な自然な欲動に従って生きています。ヒンドゥ・ダルマに典型的な、アルタ(実業の利益)やカーマ(家庭生活における愛欲)を満たす事を第一義に生きている訳です。
 
けれど出家の比丘とは、それら我執に基づいた欲の心をすべて捨象して、ただ一途に解脱を求めて精進する生きざまを貫きます。
 
しかし、悟りを開いたブッダならともかく、どんなに発心して出家したとしても、修行の途上にある彼らは、しばしば世間的な誘惑に惑乱し、動揺する。
 
その様な、自然状態の欲動の揺らぎを制御する姿が、同じように自然状態の欲動を制御される役畜達の姿に重ね合わされた。
 
比丘たちに、初めてその自己調御の方法を指導し得たのが、正にブッダその人でした。だからこそ、彼はプリサ・ダンマ・サーラティ(人間を調御する御者)と呼ばれたのです。
 
ここまでは、牛や象の話を単なる譬え話と捉えても、符合する流れです。けれども私は、ここでもう一歩踏み込んで考察します。
 
象の調御法の要諦として、私たちはすでに、眉間と耳の裏というポイントを知る事ができました。
 
これらのポイントに触覚刺激を与える事によって、逆に言うと象に、これらのポイントの触覚刺激に常に気付き続けさせる事によって、彼らの心を鎮め、従わせる事ができる。
 
常に欲動によって惑乱しがちな象や牛たちは、実は出家の比丘の未熟な心そのものでした。
 
ならば、ウサバ長老が象の首に坐って托鉢のために村に入った、という時、その象とは未熟な時代のウサバ長老本人以外にはあり得ないのです。
 
ならばウサバ長老本人である所の象の、その首に坐る「私」とは誰か?
 
それは、プリサ・ダンマ・サーラティであるブッダの指導によって出家し精進修行している、意志堅固な求道者としての自分、以外にはあり得ません。
 
自分で自分を調御する。
世間心を持った未熟な私、を求道者としての精進する私が調御する。
 
これこそが、仏道本来の姿と言えるでしょう。
 
そして、この自分で自分を調御する具体的な方法論、いわゆるメソッドもまた、象や牛を調御するその具体的なメソッドに重ね合わせて暗示されている。
 
象使いによって見事に調御されている象たちが、常にその額と耳周りの触覚刺激に意識を集中している様に、修行者もまた、額と耳の触覚に意識を集中して、自らの惑乱しがちな世間心を調御するのです。
 
そして、ある時、ある奇跡的な“瞬間”が訪れて、
高ぶっていた私が、その時静かになった。私はもろもろの汚れを消滅するに至った
のです。
 
もちろん、改めて指摘するまでもないのですが、今回新たに出てきた象の耳を刺激する、という調御法は、広長舌相においてブッダがセーラ・バラモンに舌を持って耳腔を舐め上げて見せた、という情景と対応しています。
 
そして、この耳は、これも以前指摘した通り、鼻咽喉に開いた耳管口によって、鼻とつながっています。
 
つまり、アナパナ・サティにおいて、鼻呼吸に気付く瞑想の中で、呼吸のたびに耳という器官全体がその生理的活性を変動させる、その感覚に気付く、という方法論が想定されるのです。
 
鼻と耳が空気の流通によって繋がっている、という事実は、ブッダ自身も知っていたと考えるべき根拠があります。
 
それは、ブッダの苦行時代のエピソードとしてパーリ仏典の複数個所に記述されているのですが、彼が止息の苦行に挑んでいた時、その苦悶の極みにおいて、轟音を立てて耳から空気が漏れた、という表現が存在します。
 
イメージ 3
鼻腔という呼吸の通り道の内部で、耳や眉間(前頭洞)はつながっている
 
一方で、同じ止息の行のピーク時の表現の中に、強烈な頭痛によって苦しめられた、という文言も存在します。
 
この文言に関しては、詳細に説明すれば本ブログの記事2〜3本分以上にはなってしまうので、今回あまり深くは立ち入りませんが、この経験によって、シッダルターの額の“チャクラ”が活性化した可能性を指摘しておきます。
 
(私は“チャクラ”というネーミングを常用しますが、これは私がヒンドゥ・ヨーガの思想を丸ごと鵜呑みにして信奉する事を意味しません。単に人口に膾炙している最も分かりやすいラベルとして、チャクラ、という単語を借用しています。)
 
呼吸に関する気付きにおいて、牛の急所である鼻の穴のヘリで空気の流通する触覚に気付き、牛と象の急所である額の前頭洞に呼吸気が流通する感覚に気付き、同時に耳孔の周辺において、触覚が生理的に変動するプロセスに気付く。
 
あるいは、この三つの触覚的な気付きは、微妙な時間差において自覚され得るかも知れません。
 
例えば、最初は鼻腔のヘリ、次は額の前頭洞(アジナー・チャクラ)、最後に耳孔周辺の触覚変動、という様に。
 
その継続的な気付きの心こそが、象を調御する象使いであり、牛を調御する穀物畑の監視人に他ありません。
 
そのような継続的な気付きの最中にある比丘の心は、調御される牛や象の心と同じように、自ずからの“ダルマ”によって調御されていくのです。
 
そのように考えると、同じ仏弟子の告白にある以下の詩句の意味が、切実に理解できるでしょう。
 
194: 戦場において、もしも象の肩から落下したを象が踏みつけるのであるならば、わたしは、敗れて生きのびるよりは、死んだ方が良い。
ソーナ・ポーティリヤプッタ長老
 
これは、象であるところの世間心(マーラの支配下にある心)との戦いにおいて、象使いである気付きの心・精進の心が敗北して、欲動に屈服してしまう姿を象の肩から落下したを象が踏みつけるのであるならば”、と譬え、修行に挫折してマーラの意のままその支配下に生き続ける位なら、死んだ方がましだ、という“決死”の覚悟の表明に他ありません。
 
実は鼻先と眉間と耳というポイント以外にも、ウサバ長老が言う「象の首に坐って」という譬えの中には、さらなる暗喩が隠されている可能性があります。
 
その触覚刺激によって象使いの指令を受ける眉間や耳以外にも、象は様々な事を“感じて”います。
 
もちろん声による指令もそうなのですが、象使いが坐っている、その首自体においても、象使いがそこにいる事を触覚的に、感じ取っていないでしょうか。
 
くの字に曲げた象使いの足全体が後頭部の両サイドから耳の後ろで常に様々な触覚刺激をもたらします。
 
同時に、象使いが腰かけているその体重がかかっている首筋や肩周りにも、象は触覚(圧覚)を強く感じているはずです。
 
実はこれら、鼻先、額、耳、後頭部、首筋、肩周りの上部、には、ある共通項が存在します。
 
それは『三叉神経』と『副神経』です。これはブッダの瞑想法について関心を持っている全ての人が、覚えておくべき事柄です。
 
イメージ 4
動物の譬えによって示唆される気付きのポイントは
脳幹に起始する三叉神経や副神経と深く関連している
 
特に三叉神経の作用機序については、ゴエンカジー系の実践をしている方にとって、極めて重要な意味を持っています。
 
ただ、この点に関して記述する前に、順序としてもうひとつ重要な動物の譬えを採り上げなければなりません。
 
それは、馬の調御に関する譬え話です。
 
一体、調馬師(アッサ・ダンマ・サーラティ)は、どのようにして馬を調御するのでしょうか?
 
これは競馬や乗馬をする方にとっては、とても簡単な質問でしょう。一般の方でも、ちょっと話せば、「ああそうか!」と思い至るはずです。
 
次回に続く。
 
★パーリ経典文は、すべて中村元訳・岩波文庫からの引用。 謹んで感謝します。
 
 
この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください
 
 

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