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今回のタイトルは「病者アナータピンディカ」とどちらにしようか迷いましたが、日本人にはお馴染みの漢訳名である給孤独長者にしておきました。

パーリ原語のアナータピンディカとは「身寄りのない困窮者を憐れんで食事を給する」という意味で、そこから漢訳の「給孤独」が来ています。

この長者、つまり資産家の本名はスダッタといい、ブッダに帰依して祇園精舎を寄進したエピソードはつとに有名ですが、晩年に重い病にかかり、重体となり苦しみ悩みます。

そこで彼は、祇園精舎に滞在するブッダ達一行に使者を送り、サーリプッタ尊者に「自宅に来ていただければ幸いです」と懇請します。

サーリプッタは彼の窮状を察して、見舞いに訪れるのですが、そこにおける両者の対話が、前回最後に紹介した『教給孤独経(Anathapindikovada Sutta)』の主題になっています。

まずは実際に読んでいただくのが一番なので、サーリプッタの見舞いの言葉から始まる両者の対話を、繰り返し部分などを一部省略しながら全文引用したいと思います。

〈サーリプッタの見舞い〉

サーリプッタ尊者はアーナンダ尊者を伴いアナータピンディカの家に行き、用意された座に坐ってアナータピンディカに言った。

「資産家よ、大丈夫ですか。耐えられますか。苦しい感じが、ひどくならず、引いてきましたか。苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか」

「いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります。

サーリプッタ様、
ちょうど、力持ちの男が鋭利な刃物によって、人の頭を切り裂くように、尊者サーリプッタ様、きわめて激しい風がわたしの頭を引き裂きます。

ちょうど、力持ちの男が丈夫な革紐をターバンの様に頭にきつく巻きつけているように、わたしにひどい頭痛があります。

ちょうど、熟練した屠牛者あるいは屠牛者の弟子が、鋭利な牛刀で、腹を切り開くように、きわめて激しい風が、わたしの腹を切り開きます。

ちょうど二人の力持ちの男が、一人の弱い男の腕を片方ずつつかんで、炭火の坑の上であぶり、よく焼くように、私の身体にはきわめて酷い熱があります。

サーリプッタ様、
わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります。」

〈無執着の教え〉

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは眼に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには眼をよりどころとする認識もなくなるであろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは耳、鼻、舌、身体、意に、執着しないでおこう。そうすれば、わたしには耳、鼻、舌、身体、意をよりどころとする認識もなくなるであろう』と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは色かたち(色)に執着しないでおこう。そうすればわたしには色かたちをよりどころとする認識がなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは音声(声)に、匂い(香)に、味(味)に、触れられるもの(触)に、思考されるもの(法)に、執着しないでおこう。そうすればわたしには声、香、味、触、法、をよりどころとする認識もなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは視覚的認識(眼識)に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼識をよりどころとする認識がなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは聴覚的認識(耳識)、嗅覚的認識(鼻識)、味覚的認識(舌識)、触覚的認識(身識)、思考的認識(意識)、に執着しないでおこう。そうすればわたしには耳識、鼻識、舌識、身識、意識、をよりどころとする認識がなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは眼における接触(眼触)に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼触をよりどころとする認識がなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは耳における接触(耳触)、鼻における接触(鼻触)、舌における接触(舌触)、身体における接触(身触)、意における接触、に執着しないでおこう。そうすればわたしには耳触、鼻触、舌触、身触、意触、をよりどころとする認識がなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは眼における接触から生じる感受に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼における接触から生じる感受をよりどころとする認識がなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは耳における接触から生じる感受、鼻における接触から生じる感受、舌における接触から生じる感受、身体における接触から生じる感受、意における接触から生じる感受、に執着しないでおこう。そうすればわたしにはそれらの接触から生じる感受をよりどころとする認識がなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは、地の元素、水の元素、火の元素、風の元素、虚空の元素、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれらの元素をよりどころとする認識もなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは、物質(色)、感受(受)、表象(想)、意思(行)、意識(識)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれら色・受・想・行・識、をよりどころとする認識もなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。
『わたしは、虚空の無限性を観ずる境地(空無辺処)、心作用の無限性を観ずる境地(識無辺処)、一切のものがないと観ずる境地(無所有処)、想が有るのでも想がないのでもない境地(非想非非想処)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれらの境地をよりどころとする認識もなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきである。
『わたしは、この世とあの世、共に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには、この世とあの世、をよりどころとする認識もなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきである。
『わたしは、わたしが見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、それらにも執着しないでおこう。そうすれば、わたしには、それらをよりどころとする認識もなくなるだろう』
と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

〈在家者への法話の懇請〉

そのように言われた時に、資産家のアナータピンディカは、泣きだし、涙を流した。そこで、アーナンダ尊者は、資産家アナータピンディカに話しかけた。

「資産家よ、あなたは、何かに執着しているのですか。それとも、落胆してしまったのですか」

「アーナンダ様、わたしは、執着しているのでも、落胆しているのでもありません。わたしは、長い期間に何度も、師(ブッダ)やまだ意を修習中の修行僧たちを訪問しましたが、わたしは、いまだかつてこのような法話を聞いた事がありません」

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」

「それならば、サーリプッタ様、白い衣を着る在家者たちにも、このような法話を説き明かして下さい。と申しますのは、サーリプッタ様、在家者にも煩悩の汚れが少ない類の立派な人たちがいるからです。彼らは、教えを聞いていないので衰退していますが、聞けば教えをよく理解する者となるでしょう」

こうして、サーリプッタ尊者とアーナンダ尊者は、この教えによって資産家のアナータピンディカを教戒したあと、座から立ちあがって去った。

(この後、ほどなくしてアナータピンディカは亡くなり、そして天界のトゥシタ天に再生し、天子として祇園精舎を再訪し、ブッダに詩をもって語りかけます)

ここは、快適なるジェータ林。
聖者の集いが訪れて、
真理の王(ブッダ)も住みたまい、
わが心には喜びわき起こる。
行為と知識と理法と、戒めを守る最も優れた生活。
これらによって、人は清められる。
氏姓によるのでも、財産によるのでもなく。
それゆえ、賢明なるひとは、
真におのれのためになる事を見て、深く物事を考察せよ。
そうすれば、その間に、人は清められる。
サーリプッタこそ、智慧と、戒めと寂静とによって、
彼岸に渡った修行僧。
これほど勝れた者が、他にいようか。

ブッダは、その言葉を聞いて、これを是認された。
(以下略)

〜以上、春秋社刊 原始仏典第7巻 第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Sutta P516〜525(勝本華蓮訳)より要約引用。

さて、これで二人の対話の全貌が明らかになりましたが、如何だったでしょうか。

まず最初に指摘しておきたい事は、この経典上で明確にアーナンダの言葉として、

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」

と明言しているという事です。これは、在家信者向けの説法と、出家比丘向けの指導・法話とでは、明確に区別あるいは「差別」がブッダによって設定されていた事を意味します。

「ブッダ最後の旅:マハーパリニッバーナ・スッタ」などでブッダは、「私には握拳の秘密はない」として、すべての法(真理)を包み隠す事なく説いて聞かせたのだ、と断言していますが、それはあくまで、アーナンダをはじめとした出家の弟子たちに対してであって、在家の信者たちに対しては、多くの、おそらくは最も重要な教えの要諦を、決して説き聞かせる事はなかった、という事です。

そう、ここでサーリプッタによって病者アナータピンディカに初めて説き明かされた教えは、二人の対話を読みとれば明らかなように、通常では在家信者には決して明かされない、ブッダの法の“核心部分”である、という事が推察されるのです。

そして、この核心部分を初めて聞き知った、そして深く理解したアナータピンディカは、感涙にむせび泣き、おそらくはその病苦の煩いから解放されたのだ、と読みとる事ができるでしょう。

それではその“核心部分”とは一体何だったのか、最初の段落から順々に見ていきたいと思います。

「資産家よ、大丈夫ですか。耐えられますか。苦しい感じが、ひどくならず、引いてきましたか。苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか

「いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります

まずは、この冒頭の対話を、よく吟味してみましょう。サーリプッタが、
「苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」
と問いかけたのに対して、アナータピンディカは、
「激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」
と答えます。

その“激しい苦しみ”とはどのようなものだったか、と言えば、それはこれまでに紹介してきたとおり、以下の様な身体症状でした。

「ちょうど、力持ちの男が鋭利な刃物によって、人の頭を切り裂くように、尊者サーリプッタ様、きわめて激しい風がわたしの頭を引き裂きます。

ちょうど、力持ちの男が丈夫な革紐をターバンの様に頭にきつく巻きつけているように、わたしにひどい頭痛があります。

ちょうど、熟練した屠牛者あるいは屠牛者の弟子が、鋭利な牛刀で、腹を切り開くように、きわめて激しい風が、わたしの腹を切り開きます。

ちょうど二人の力持ちの男が、一人の弱い男の腕を片方ずつつかんで、炭火の坑の上であぶり、よく焼くように、私の身体にはきわめて酷い熱があります」

そして、これは前回指摘した通り、悟りを開く前のシッダールタが鼻と口と耳を完全に塞いだ止息の行の最中において経験した激しい苦の身体症状と、完全に同一のものでした。

では、正にその同じ身体症状に喘いでいたはずのシッダールタは、その時その状態をどのように表現していたでしょうか。

そこには、以下のような決まり文句が整然と繰り返し並べられています。

「しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかったのである。
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。(菩提王子経より)」

ここで整理すると、病者アナータピンディカは上記四つの身体症状に苦しんでいる様子を、その“様相”を、
「激しい苦しみの感じが減ることなく、すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

と表現し、その容体を訊ねたサーリプッタの“訊ね方”は、
「苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」
だった。

一方で、まったく同じ四つの身体症状に襲われていた沙門シッダールタは、その様相を、最終的には以下のように表現していた。
「わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった

この、赤字部分でハイライトした表現の異同が、その微妙なニュアンスの違いが、理解いただけるでしょうか。

そう、サーリプッタと沙門シッダールタは、同じ視点に立って身体状態というものを客観し、“手放して”いる。

サーリプッタの、「苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」という問いかけは、

「苦の感受はとどまる事なく、生じては滅していますか?」
「あなたは、手放せていますか?」

という問いであると読むべきなのです。

しかし、在家の病者アナータピンディカは、明確にその身体症状たる『苦の感受』に心を“占領”され耽溺し、それがあたかも“永遠にとどまり続ける”もの、であるかの如く錯覚し、執着し恐怖し動顛している。

何故なら彼は、在家の“習わし”として、病んで苦に喘ぐ“身体”というものが、その触と感受と識が、“自分”だと信じ切っているからです。

サーリプッタと沙門シッダールタは、明らかに“法(現象)の生滅”を観ている。しかし在家信者アナータピンディカは、苦受の行相(苦海)に溺れるのみで、その生じ滅する真理を観る事なく、身体的感受をギュッと “握りしめて(Grasp)” しまっている。

ここまでを明確に理解すると、その後に続くサーリプッタ尊者の、唐突とも思える説法の真意が、明確に理解できるようになります。

そしてその真意とは、在家信者には容易には説き明かされ得なかった、文字通り仏道修行の“核心部分”を指し示すものなのです。

長くなるので、次回に続けましょう。


〜 経典引用元の春秋社さんと訳者の方々に、謹んで感謝します 〜

この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
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