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前回は、中部経典第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Sutta の中の、サーリプッタとアナータピンディカの対話部分を引用掲載し、その冒頭部分における両者の発言の“ニュアンス”の相違について、指摘しました。

今回は、その後の展開についてさらに突っ込んで考えていきます。

サーリプッタの見舞いの言葉に対して、アナータピンディカは、
「いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります
と悲痛なまでに嘆きます。

それに対して、サーリプッタは、ある意味冷淡とも思える以下のような説法を聞かせるのです。

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

眼、耳、鼻、舌、身体、意に、執着しないでおけば、わたしには眼、耳、鼻、舌、身体、意の六官(根・処)をよりどころとする認識もなくなるだろう。

色かたち(色)に、音声(声)に、匂い(香)に、味(味)に、触れられるもの(触)に、思考されるもの(法)に、執着しないでおけば、わたしには色、声、香、味、触、法の六境、をよりどころとする認識もなくなるだろう。

視覚的認識(眼識)、聴覚的認識(耳識)、嗅覚的認識(鼻識)、味覚的認識(舌識)、触覚的認識(身識)、思考的認識(意識)、に執着しないでおけば、わたしには眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識、をよりどころとする認識がなくなるだろう。

眼における接触(眼触)、耳における接触(耳触)、鼻における接触(鼻触)、舌における接触(舌触)、身体における接触(身触)、意における接触、に執着しないでおけば、わたしには眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触、をよりどころとする認識がなくなるだろう。

眼における接触から生じる感受、耳における接触から生じる感受、鼻における接触から生じる感受、舌における接触から生じる感受、身体における接触から生じる感受、意における接触から生じる感受、に執着しないでおけば、わたしにはそれらの接触から生じる感受をよりどころとする認識がなくなるだろう。

地の元素、水の元素、火の元素、風の元素、虚空の元素、に執着しないでおけば、わたしにはそれら四大元素をよりどころとする認識もなくなるだろう。

物質(色)、感受(受)、表象(想)、意思(行)、意識(識)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれら色・受・想・行・識の五蘊、をよりどころとする認識もなくなるだろう。

虚空の無限性を観ずる境地(空無辺処)、心作用の無限性を観ずる境地(識無辺処)、一切のものがないと観ずる境地(無所有処)、想が有るのでも想がないのでもない境地(非想非非想処)、に執着しないでおけば、わたしにはそれら無色界の四禅の境地をよりどころとする認識もなくなるだろう。

この世とあの世に、共に執着しないでおけば、わたしには、この世とあの世、をよりどころとする認識もなくなるだろう。

わたしが見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、それらにも執着しないでおけば、わたしには、それらをよりどころとする認識もなくなるだろう。

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです」


ここには、文字通り、ブッダの教えの神髄が順序立てて分かりやすく提示されています。とても重要な所なので、繰り返しを恐れずに以下にまとめましょう。

「眼耳鼻舌身意の六根、その対象である色声香味触法の六境、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識、これは前二つで十二処、三つ全てで十八界、に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

六根、六境、六識の働きに、それぞれの接触と感受というプロセスを加え、それらにも執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

地水火風という四大元素に執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

色・受・想・行・識の五蘊に執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

この世とあの世に、共に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

わたしが見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、それらにも執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる」

これらの言葉・概念の流れを、病苦に喘ぐアナータピンディカの身体と心の働きと重ね合わせた上で、深く読み解いてください。

その流れを一言で言い表わすのは難しいのですが、端的に言えば、これら赤字で表したところの六根・六境・六識に六触とそれらの感受、地水火風という四大元素、色・受・想・行・識の五蘊、に執着しない事、

さらに、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、この世とあの世、見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、に執着しない事によって、

わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる、つまり、完全な安らぎ、ニッバーナ、あるいは解脱が現成される。

五根、つまり私たちの身体における感覚器官とは、物質で構成された身体において外界に開かれた門戸であり、それ(身体における五官=五内処)はすなわち五蘊の最初の「色(物質)」にあたります。

五官(根)の対象となる五境も同様に、身体の外の環境世界における物質的存在(五外処)であり、つまり五蘊の最初の「色(物質)」にあたります。

これら五内処と五外処という対置された二つの色(物質)とは、地水火風という四大元素、の集成に過ぎません。

この二つが、つまり環境世界という色(物質)と身体という色(物質)が触れ合う事(触)によって、そこに感受、すなわち五蘊の二番目の「受」が生まれます。

受の結果として想が生起し、想の結果として行が生まれ、行の結果として識が生まれますが、これら五蘊の後半三つは、心の働きであり、第六の内処(意)であり、その意内処に触れて感受された法(外処)が、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、相当します。

つまり、六根(六内処)+六境(六外処)+六識、という十二処・十八界+六触・六受+想行識=五蘊という認識(式)を表している。

次に、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、というのが出てきますが、これは無色界、つまり物質ではない世界=純粋な心だけの世界、ではありますが、それゆえに“心(意)のはたらき”の範疇にあるため、それはすなわち“五蘊の内”にあると見なされる。

〈非非非処とは、『想』についての言及であり、『識(意・心)』に対する言及ではない。つまり、『非識非非識処』と言っているのではない。そこには、想があるのでもなくないのでもないと知覚している『識(意)』が存在する=五蘊の内にある〉

そしてこれら全て、つまりこの世とあの世、の全て、に対する執着を“手放して(遠離・厭離)” しまえたら、それらに依存した認識が全てなくなる、つまり完全な安らぎ=ニッバーナ、あるいは解脱、が実現される。

在家のブッダ信仰とは、聞法や供養という善業を通じて来世に、つまりあの世において天界などのより善い再生を願う信仰体系ですから、それは五蘊の内にある。

だから通常はこの様な教えは、在家の者たちには決して明かされない。何故なら、この教えは畢竟、在家の信仰のあり方全てを、業障(解脱の障碍となる行=サンカーラの執着)”として退けるものだからです(この点は、もの凄く重要!)。

どうでしょうか、全体の流れが俯瞰的に把握できたでしょうか。

何しろ、上記の流れはブッダの法の神髄を現しているとは言え、後世の阿毘達磨的な分析的羅列的な “理屈” に徹した文言なので、それを解説するためにもまた理屈が必要になります。

この様に理屈の上に理屈を積み重ねて、経典の上に論を論を論をと際限なく積み重ねてきたのが、いわゆる“学”の歴史だったのでしょう。

しかし、それら煩雑な論の枝葉を全て捨象して仏教の神髄を抽出すれば、それは、“五蘊(への執着=五取蘊)からの遠離”、というただの一言に収まります。

五蘊への執着(五取蘊)を手放すことによって、完全な安らぎ=ニッバーナ・輪廻からの解脱、が成就される。

そしてこの“五蘊(五取蘊)からの遠離”、を体現するための実践行道を一言で表すならば、それは“五官六官の防護”になります。

ブッダによって説かれた法の神髄とは、全て上述のサーリプッタの言葉の中に端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道の神髄とは“五官六官の防護” である。

これが私の、これまで読みふけって来たパーリ教典やその解説書を俯瞰した上での、最終的な結論です。

ではブッダの修行道の中核に位置付けられているはずの瞑想行法と、この“五官六官の防護”の関係は一体どのようになっているのでしょうか。

学術論文などではなく、この様な個人のブログなので断言してしまいますが、“五官六官の防護” こそがブッダの瞑想実践そのものである、と言い切っていいかと私は考えています。

この場合、より精密に言うならば “五官の防護” はブッダの修行道とその瞑想実践の“入り口・導入部”であり基盤(文字度通りの根拠)であり、“第六の意官の防護” はその中・終盤(根に支えられた)であり、その先にゴールとしてのニッバーナ(開花した蓮華)がある、と言った方が、分かりやすいかも知れません。

未だ私の中で言語化が熟し切っておらず、さらに所詮言葉による説明などは、その言語的な制約・限界の中から逃れようもないのですが、次回以降その真意について、詳述していきたいと思います。

キーワードは『三科』です。

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる『一切を分類した三範疇、五蘊・十二処・十八界をいう。また、六根・六境・六識の三範疇をいうこともある。

世界(現象界)を在らしめる“すべて=一切法”からの遠離。その起始点になるのが、正に “五官の防護” に他ならないのです。

何故なら、正にその “現象世界” との “接点(とば口)” こそが、この五官に他ならないからです。

とば口として五官の防護が行ぜられ、その延長線上に第六の意官の防護が行ぜられ、最終的に六官全ての防護が完成した暁に、ニッバーナが体現される。

それこそがブッダの瞑想行道の全てである。そう私は理解しています。


〜 経典引用元の春秋社さんと訳者の方々に、謹んで感謝します 〜

この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
また、チャクラの国のエクササイズにおける探求から接続しています。

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