全体表示

[ リスト ]

ブッダによって説かれた法の神髄とは、病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉の中に全て端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道の神髄とは“五官六官の防護” である。

そして、“五官六官の防護” こそがブッダの瞑想実践そのものである、と言い切っていい。

以上が、前回までの大ざっぱなあらすじでした。

を読みながら色々と考えてきましたが、私がこの病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉を読んで、最初に思い出したのが、今回タイトルにもなっている、般若心経でした。

偶然なのかどうか、登場人物が同じ舍利子(サーリプッタ)であることも勿論ですが、それだけではなく、全体の文脈の流れが大いに重なり合っていると感じたのです。

もちろん、般若心経には大乗的な『空』という概念や、密教的な『呪』という要素も混入してはいますが、全体の流れはアナータピンディカへのサーリプッタの説教と有意に合致していると見る事ができるでしょう。

それは、言うまでもなく冒頭で掲げた、
「ブッダによって説かれた法の神髄とは、五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道の神髄とは“五官六官の防護” である」
という文脈における重なりです。

五蘊と六官、あるいは十二処・十八界、という文脈が意味するもの。

という事で、まずは私たち日本人にもなじみの深い般若心経を題材にして、この仏教の神髄について考えてみましょう。

以下、般若心経の原文と、戯れに作った私の超意訳です。

観自在菩薩、行深、般若波羅蜜多時、
ヴィパッサナ瞑想行において観を深めた私(沙門シッダールタ)がパンニャの智慧を得た時、

照見五蘊、度一切苦厄。
五蘊がことごとく無常であり非我である事を智慧の光によって照らし見て、一切の苦から解き放たれた。

舎利子不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。
舎利子よ、色は無常・非我・苦に異ならず、涅槃において全て滅尽する。受想行識もまたかくのごとし。

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
舎利子よ、その涅槃の深みにおいては、全ての現象は滅尽し、もはや生じる事もなく滅する事もなく、不浄でもなく浄でもなく、増えもせず減りもせず。

是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法
その涅槃の深みにおいては、色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、つまり五蘊・六処・六境は滅尽し。
 
眼界、乃至、無意識界
眼(耳鼻舌身)によって知られる界(眼識)もなく、意識によって知られる界も無く。

無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
無明から老死に至る十二縁起の因果の連鎖から完全に解脱し。

もはや四聖諦もその必要性を失い(筏は捨てられ)。

無智亦無得。以無所得故、
知らねばならない事も無く、得る必要のある事も無いが故に、

菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、
そうして菩薩(悟りに向かって精進するゴータマ)は、智慧の完成に住したが故に、

心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、
心に妨げがなく、それゆえに恐怖も無く、一切の思い込みと妄想を離れて、

究竟涅槃
涅槃に至ったのである。

〜以上、原文はWikipedia参照

大乗の空という概念をパーリ経典的に置き換えて意訳し、呪の部分は省略しましたがいかがでしょうか。

スマナサーラ長老などは、この般若心経をクソミソにこきおろしているようなので、この様な意訳を見たら顔をしかめるかも知れませんが。。

戯れに意訳したと書きましたが、ここで重要なのは、南伝・北伝、部派・大乗・密教を問わず、仏典というものには厳とした『ブッダ自身の教え』という根拠があり、後世どんなに思想的な粉飾・増広が加味されていたとしても、ブッダの教えから完全に逸脱する事はなく、それ(直説)によって一貫されている、という事実です。

分かりやすく喩えると、部派・大乗・密教という仏教団子・三兄弟が、それぞれ異なった色をしているように見えるけれど、ブッダの直説という一貫した“串”によって、その最も本質的な串(真理の法)によって、貫かれている、と言ったら良いでしょうか。

ここで、そのブッダの直説において、『最も本質的な串』、という点で問題になるのが、今回ブログ・タイトルにも掲げた、
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」
という一節が象徴する文脈です。

それは具体的には、般若心経本文の、
不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是」
〈意訳〉〜色は無常・非我・苦に異ならず、涅槃において全て滅尽する。受想行識もまたかくのごとし。

という五蘊に関する文脈であり、続く、
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法
〈意訳〉〜色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、つまり五蘊・六処・六境は滅尽し。

という、五蘊に六官・六境を連ねた文脈です。

経の巻頭に掲げられた「照見五蘊皆空、度一切苦厄」という一節は、ある意味始めに宣言されたキャッチコピー的な結論、と言えるでしょう。

この“照見五蘊皆空度一切苦厄”という結論的タイトルの内容を詳述するのが、その後に続く本文の意味なのです。

ブッダの悟りの神髄とは、この“照見五蘊皆空度一切苦厄”という一節の中に全て収まっている。

その焦点になるのが、五蘊です。

そしてその五蘊の内容として詳述されるのが、
という、眼耳鼻舌身意という六官(処)と、色声香味触法という六境、合わせて十二処、に他ありません。

続けて言及される、
眼界、乃至、無意識界
というのは、意訳した通り、おそらく、眼識から始まり意識で終わる、六識、を意味するとも考えられます。

だとすると、この六識と十二処を合わせた十八界こそが、五蘊の分析的な中身である、と理解できるでしょう。

ここで、前回の終わりに引用した三科という概念が意味を持ってきます。

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる『一切を分類した三範疇、五蘊・十二処・十八界をいう。また、六根・六境・六識の三範疇をいうこともある。

そして勿論、この三科に対する執着を捨てて、手放して、厭離(遠離)する事こそが、サーリプッタが病者アナータピンディカに向けて説いた法の中核部分でもあった訳です。

ここはとてつもなく重要な部分なので、繰り返しを恐れずにまとめます。

サーリプッタのアナータピンディカへの説法では、最初に
「眼耳鼻舌身意の六根、その対象である色声香味触法の六境、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識、これは前二つで十二処、三つ全てで十八界、に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる」
として、十二処・十八界に対する執着の手放しが説かれる。

次にそれら十二処それぞれにおけるに対する執着の手放しが説かれ、(物質)を構成する四大元素に対する執着の手放しが説かれる。

そして最後に、それらの総括として五蘊に対する執着の手放しが説かれる、という順序になっていました。

般若心経では最初に『五蘊皆空』が冒頭タイトルとして掲げられ、その後にその具体的内容として十二処の空が説かれた。

この両者、言っている順番は真逆ですが、言っている内容はひとつです。

それはすなわち、五蘊とその内実としての十二処・十八界を手放す事。それこそが仏道修行の核心・神髄である、という事です。

何故、五蘊を十二処・十八界という形に細分化し、分析する必要があったのでしょうか。

それはもちろん、十二処・十八界というものが、瞑想実践における、具体的なメソッドの中で、極めて重要な意味を持っていたからに他ありません。

その話に移る前に、この十二処・十八界というものが、仏教の教理においてどれほど重要な意味を持っているのかを、般若心経にもチラりと登場していた十二縁起とのからみから、観ていきたいと思います。

そこでは、五蘊とは十二縁起のメイン・フレームであり、同時に、六官・六境の十二処・十八界とは、十二縁起の核心部分である、という事実が明らかになるはずです。

次回に続く。


この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
また、チャクラの国のエクササイズにおける探求から接続しています。

このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください


 

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事