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一般に、十二縁起の核心とは無明と渇愛であるが、無明や渇愛などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、“なんとかして”破壊する事など、想像すらできない。

しかし、渇愛に先行する所の六処、この六処の内の五処(五官)つまり、眼耳鼻舌身という身体器官は、何よりも眼に見える具体的なものとして私たちの“目の前に”存在している、という圧倒的な事実がある。

この六処(五処)はしばしば六入(五入)とも表現され、その機能とは、感官の対象である色声香味触(法)の六境が、流入する門戸である。

六境の感覚刺激が流入して接触する事によって、感受が生まれ、渇愛が生まれ、執着が生まれるのだとしたら、この感官の門戸において、流入を“防護”あるいは“妨害”あるいは“堰き止め”する事ができたならば、それ以降の全ての“反応・形成作用(サンカーラ)”は消滅する。

以上が、前回までの大まかなあらすじでした。

この文脈の流れの中では、便宜上、無明と渇愛とは何処にどうやって有るのかも分からない、と表現しましたが、敢えて、現代科学的な認識も伴って解釈した時、この無明と渇愛という存在の拠点とは何処になるでしょうか?

ブッダは、五蘊、そして六根と六境と六識(合わせて十八界)をもって“すべて”あるいは“一切”と断言しています。

つまり、この『一切』の中にこそ、無明と渇愛は存在している。

以前にも言った通り、この十八界とは五蘊をある視点から分析的に細分化したものですから、実質、この十八界こそが、これだけで“一切”という事になります。

ここで、しばしば誤解されやすい点を指摘しておきたいと思います。

仏教的な文脈で言うところの“一切”とは、仏道修行において、つまり存在の“苦”という呪縛からの解放の道において、必要にして十分な事柄・要素という視点から見た“一切”であり“全て”である、という事です。

そこでは、仏道修行に関係のない事柄、例えば人間が死んだらどうなるかとか、世界は永遠かどうかとか、世界の成り立ちは天動説か地動説かとか、親の形質が子供に伝わるのは遺伝子DNAの情報に依っており、その遺伝子DNAとは二重らせん構造をしているとか、そのような事柄はこの“一切”には含まれないのです。

(この事実を際立たせるためにこそ、ブッダは修道に無関係な事柄に対しては『無記』を貫いた)

この点を見誤って、一切とはこの世の森羅万象“すべて”であって、ブッダとは森羅万象ことごとく、つまり宇宙の始原から人間の身体の科学的成り立ちから何から、神の様に“一切・全て”を知り尽くした全知全能者である、などと勘違いしている人々が多々見受けられますが、これは明確に誤りと言わなければなりません。

この様な誤解・曲解・拡大解釈は、ブッダの死後、彼を神格化・超人化していくプロセスと深く関わっており、それがそのまま後の大乗化へとも接続するのですが、ブッダ自身の“名誉”の為にも、私はここで釘を刺しておきます。

これは少し考えてみれば誰にでも理解可能な事です。

例えばブッダの時代は須弥山を世界の中心とし、その周りを月日が巡っている“天動説”が信じられていたので、当然ブッダ自身もそれに対して深い疑いを持ってはいなかったでしょう。

現代科学によってこの様な天動説は完全に否定されており、本ブログの読者の方も(多分)この世界の中心に須弥山など存在しないし、太陽や月がその山頂付近を巡っているなど迷信に過ぎないと“知っている”はずです。

また、人の胎発生にしても、当時は精子という種が母胎という畑に播種され(卵子という概念はない)、それが芽生えて胎児になると考えられていたので、当然ながら、ブッダ自身も同じような認識だったでしょう。

(仮に卵子と精子の受精という認識があったとしても、それが二重らせんの遺伝子DNAの融合であるなど、正にお釈迦様でも気がつくめぇ、です)

喩えブッダと言えども、時代と文化の産物であり、神の様な完全な全知全能者ではあり得ないのです(ここで神と言うのは喩えであって、神がいるかいないかについての言及ではもちろんない)。

では、ブッダが言う“全て”とは具体的に何を意味するのか。ブッダ自身が自称する“全知者”というタイトルの真意とは何か。

それこそが、仏道修行において、苦としての生存・存在形態のありようと、そこから抜け出すための道、その道の作用機序を理解し、その作用機序を瞑想修行によって起動・発動させる、そのようなプロセスにおいて知るべき事、必要にして充分な要素を一切と言い、そのような要素とメカニズムについての知識・理解・洞察を、すなわち“一切智”と言うのです。

一切を知るブッダとは、想像上の“神”のような全知全能者ではありません。だからこそ、私たち普通の人間がブッダの言葉を学び、彼と同じように“すべて”を知る事ができるように、努力・精進する意味があるのです。

そしてこの場合、“知る”と言うことの真意は、正に瞑想実践の深みにおいて、自ら観じ、見て、体験的に理解する(得悟する)ことを意味します。

決して経典の文字の並びを読み込んで、暗記して、暗誦して、ブッダはこの様に言っている、という理屈を知的に理解する事ではありません。

と言う事は、かなり厳しい事を言いますが、パーリ三蔵をすべて修め、仏教に関するあらゆる疑問・質問に対して打てば響くように答えられる大ベテランの長老比丘であったとしても、自ら瞑想実践の中で体験的にその“一切”を観じ洞察した事のない人は、一切智者とは呼べない事になります。

これも話は単純明快な事です。修行者シッダールタは、文字通り身ひとつで菩提樹下に結跏趺坐した。その前段階にパーリ三蔵の学習や知的理解などというプロセスは一切なかった。当たり前の話です。

彼の“一切智”とは、正にその身ひとつの菩提樹下の結跏禅定の最中における『観』によって立ち現れ・獲得されたものなのですから。

私たちは、経典の文言的な理解と、瞑想行における“体験の智慧”=パンニャ、を明晰かつ峻厳に弁別しなければなりません。

もちろん私自身も本ブログ上で個人的な探求のプロセスをこの様にシェアしてはいますが、一切智者などとは程遠い、単なる知的探求者の段階にあります。

実は私は、現在ある“事情”を抱えており『世俗を離れた瞑想実践修行』に専念できる境遇にはないのですが、いずれ身体が自由になれば日本を離れ、タイかミャンマーで一定期間瞑想修行に専念したいと希望しています。

その、来たるべき瞑想修行者としてのピリオドの為に、外堀を埋める作業=準備段階として、この知的探求を位置付けています。

その外堀も“正しく”埋めなければ、本丸へと渡ってそれを攻略する事は決して出来ない、という事を、私は十二分に理解しているつもりです。

ヘタな埋め方をすれば、渡ろうとした外堀が実は底なしの泥沼に変じて、修行者を捕まえて溺れさせてしまうと言う冷徹な事実は、オウムの実例によっていまや私たちにとっては自明の理なのですから。

ブッダの説いたダンマ〈理法〉を、まずは正しく知的に理解し、その上で正しい行道を実践する。八正道とはつまる所そういう意味なのではないでしょうか。

前置きが長くなりました。話の焦点は、正にその“一切”についてです。

十二縁起の中の核心部分とは、その最初におかれた無明と八番目におかれた渇愛である、と言うのは皆さんご存じの通りです。

無明によって行が生じ、行によって識が生じ、識によって名色が生じ、名色によって六処(六入)が生じ、六処によって(接)触が生じ、触によって(感)受が生じ、受によって愛(渇愛)が生じ、愛によって取(執着)が生じ、取によって有が生じ、有によって生が生じ、生によって、老、病、死、苦、悲嘆、憂い、苦悩が生じる。

ですが、この無明と渇愛、どこにどうやって存在して、どのように“何とかして”破壊する事ができるのか、という難問です。

しかし一方でブッダは、『一切』、という事を語っている。仏道修行において知るべき、必要にして充分な全ての要素はこの“一切”の中に含まれていなければならない。

つまり、仏道修行において焦点となる無明と渇愛も、この“一切”の中に含まれている、と論理的に詰める事ができます。

一切とは、五蘊と十二処・十八界でした。五蘊の細分化が十二処・十八界だとすれば、この十八界の中に無明と渇愛も含まれていなければおかしい。

この五蘊・十二処・十八界についてはWikiさんが簡にして明なので、下に引用します。

五蘊(ごうん) - 五陰(ごおん、旧訳)とも。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。 

六根(ろっこん) - 人間の持つ六つの器官。六内入処(ろくないにゅうしょ)とも。
六境(ろっきょう) - 六根の対象。六外入処(ろくがいにゅうしょ)とも。 
六識(ろくしき) - 六根と六境が接触する所に生まれる識

十二処または十二入 - 六根と六境をあわせたもの。 
十八界(じゅうはちかい) - 十二処に六識を加えたもの。

摩訶般若波羅蜜経では、陰界入(五陰、十八界、十二入)と略している。

それぞれの詳細については下記のとおり。

十八界
十二処
 
六根
六境
六識
眼(げん)
色(しき)
眼識(げんしき)
耳(に)
声(しょう)
耳識(にしき)
鼻(び)
香(こう)
鼻識(びしき)
舌(ぜつ)
味(み)
舌識(ぜっしき)
身(しん)
触(そく)
身識(しんしき)
意(い)
法(ほう)
意識(いしき)

このうち、眼・耳・鼻・舌・身を五根といい、人間が外からの影響を受ける身体の器官すなわち五感であり、意はそれによって生じる心の働きのことである。

また、五根に対応する境の部分(色・声・香・味・触)を五境、そこに生じる欲を五欲(五塵)と表現したりもする。

〜以上Wikipedia三科より引用。

前回指摘した通り、(意官と法の位置付けは微妙ですが)五根と五境は五蘊の色に含まれると考えていいでしょう(とりあえず残りの受想行識が意官と法)。

言葉と言うものの限界をわきまえた上で、まずは無明について考えると、それは前回書いたとおり、五蘊としての人間存在の根底に通底する基本特性である、というのは間違いないと思います。

ですが、それでは焦点がいまいちピンボケしている。もっと具体的に焦点を絞らなければならない。

上記十八界の中でまずは十二処に絞って、眼耳鼻舌身という五官があり、そこに入る情報である色声香味触という五境がある。

そこでそれぞれに接触が起こり感受が生じ、その接触と感受の内容が法(諸事象)として意官に伝達・感受される。つまり十二処の“統覚”は意官と法である、というのは、現代人にとっては分かりやすいと思います。

更に加えて十八界の範疇にある六識もまた、上記の流れを踏襲すれば、その核心となる統覚は第六の“意識”になる。

意識とは、意(官)の識(mano viññāṇa)ですから、この『意識』こそが、すべての問題の焦点になる。

つまり、全てであるところの五蘊・十八界において、中核的に全てを統括するIndriya(能力・機能)は六識の最後の『意の識』になる。

無明について考えた場合、私は最前に五蘊としての人間存在の基本特性と言いましたが、より焦点を絞れば、それは身体と言うよりもむしろ心の特性である。

この心と言った場合は、私たちの顕在意識だけではなく、むしろ無意識のレベルであり、しかし無意識であろうとそれは肉体的特性ではなく精神的つまり『こころ=意識』における特性である。

(科学的に言うとこの無明の根拠は大脳辺縁系と言う『情動性の中枢』に根差していると思われるので、現実的には肉体的(脳)である、と言う見方もできますが、ここでは仏教的記述に従います)

意官とそこに法(事象)が接触して生まれる“意の識”=“こころ”、その根底にこそ“無明”は横たわっている。

上の一覧表における最下段の『意官と法と意識』。これが無明について考える場合の焦点であり、同じ事は、渇愛についても言える事でしょう。

渇愛とは六入から情報入力があり、接触があり、感受があり、その結果として生まれ執着を作る、“こころ(意)のはたらき”だからです。

何やら書いている本人も頭が混乱しそうな論述ですが、では、上記表の最下段にある『意官−法−意識』という流れにおいて、直截的に無明とか渇愛とかを“何とかする”事ができるか、と言う命題に戻ります。

私たち現代人は、この『意官−法−意識』という連動ファンクションが脳神経システムという肉体的な基盤に依って働いている、と言う事を明確に知っているので、それに対して直接的に効く薬を投与したり手術をしたりする事が、ある程度は可能ではあります。

けれど古代インド人にとっては、他の五官とちがって、この意官の肉体的・物質的な基盤と言うものは明確に把握されてはいなかった。

ひとくちに心と言いますが、それは身体全体に分散しているのか、あるいは心臓に宿っているのか、はたまた脳髄との相関が視野に入っていたのか。

たとえある程度、意識と脳髄との相関が認識されていたとしても、それに直截的に働きかける事はできない。何故なら、意官には明確に断定できる確かな機能上の『入り口・門戸』というものが見いだせないからです。

(ひょっとすると口(Mouth)あるいは頭頂部(ブラフマ・ランドラ/ドワーラ)がそうだと考えられていたかも知れませんが、とりあえずここではスルーします)

逆に明確な物質的・肉体的な機能上の入り口としての『門戸』を持っている、目の当りにそれを見る事ができ、ハンドリングする事ができ、具体的に何とかする事ができるのが、五官、つまり眼耳鼻舌身という情報入力の門戸、であった事になります。

そしてこの五官の門こそが、最終的に第六の意官へとつながり流れ込む門戸そのものでもある。つまり色声香味触の五境は、すべて「法」として意官に流れ込む。

だからこそ、その五官の門において不善法の漏入(asava)を防ぐ事ができれば、その後の受・渇愛・執着の全ては消滅する。つまり出する煩悩(asava)を“堰き止める”事もできる

その事によって、『こころ』の根底にある『無明』もまた、立ち枯れになり、滅する(nirodha).。

分かりやすく喩えてみましょう。

まずここに、意(こころ)という湖がある。その湖底には無明と言う魔形の怪魚が棲みついている。この無明と言う怪魚には渇愛と言う恐ろしい口があって、それによって近在の多くの村人かみ殺され苦しめられている。

その湖には五つの濁った不浄な川が流れ込んでいる。その川とは眼川・耳川・鼻川・舌川・身川であり、それぞれ色(映像)・声(音声)・香(匂い)・味・触(接触)という栄養素(食=不善法)を意の湖に流し込んでいる。

(公害で富栄養化したドブ川をイメージして下さいwww)

そして、その不浄な栄養(不善法の溶けた水)を貪る事によって、無明魚は大きく育ち、その渇愛と言う貪婪な口はますます大きくなり、その歯並びは凶悪な牙へと育っていく。

ではこの無明と言う怪魚を、凶暴な渇愛というその口その牙を、一体どうしたら、退治し滅ぼす事ができるのか。

湖は深く人知を超えており、直接怪魚を何とかする事は人間にはできません。何しろ、この怪魚、存在するのは間違いないのですが、姿が見えなかったりもするのですから。

そこで智慧ある人はこう考えた。

渇愛と言う凶暴な口を持つ無明と言う怪魚を滅ぼすためには、彼の存在を“養っている食”であるところの、五つの(不善法という汚濁の)川を堰き止めてしまえばいい、と。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)に侵されるからである。」(調御地経

川の流れを堰き止める壁が、同時に怪魚が飛び出して岸辺の人を襲う事を防ぐ防壁にもなる。

(喩え話なので、堰きとめた川の水が何処に行ったのか、などと突っ込まないでね)

眼川から流入する色と言う食(不善の栄養)を、耳鼻舌身と言う川から流入する声香味触という食を、その流れと共に全て堰き止めて断ってしまえば、もはやいかな凶悪な怪魚と言えども、やがてはやせ衰えて、死滅するに違いない。

「あたかも、オイルが継ぎ足されない灯火が、やがて燃え尽きて静かに滅していくように。」(サンユッタニカーヤ:ニダーナ・因縁についての集)

そして実は、この心と言う湖には、眼に見えない地下水脈として清澄なるパンニャという伏流水も流れ込んでいる(普段は見えない)。

五つの濁った不善法の川を堰き止めてしまえれば、このパンニャの伏流水が湖に流れ込む唯一の水源となり、さらに不善の五河川が止まって抵抗水圧が低下したために、清浄なる水の流入量は増加し、湖は少しずつ、しかし確実に澄み渡っていく。

しかもこのパンニャと言う伏流水の成分は、実は怪魚を滅ぼす薬効(善法)すら持っている。

(五河川が流れ込んでいる内は、湖は不善法で満たされ、その汚濁の栄養力がパンニャの清浄な薬効を凌駕してしまう)

そして、この怪魚退治において肝となる五河川の“堰き止め”の作業こそが、ブッダの瞑想法の実践行そのものである、と言う事になります。

「感覚器官を守りなさい。感覚器官防ぎ止めなさい。」(調御地経)

無明と言う怪魚こそがマーラであり、眼耳鼻舌身意の六官・十二処・十八界こそがマーラの領域〈生息域〉である。と同時に、色声香味触法の五欲六欲こそがマーラの食になります。

悪魔(マーラ)は言った。
「修行者よ、眼・耳・鼻・舌・身・意は私のものです。色形・音声・香り・味・触れられる物・考えられる事は私のものです。眼耳鼻舌身意の識別領域は私のものです。
そなたは、どこへ行ったら、私からのがれる事ができるだろうか。」(サンユッタニカーヤ:悪魔との対話 中村元訳)

以上、あまり厳密ではない、ひとつの喩え話ですが、イメージできたでしょうか。

次回に続く。


本ブログの記事は、連載シリーズになっています。
単独の記事を読んだだけでは何一つ理解できないので、
シリーズの第一回から遡って読む事をお勧めします。

この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
また、チャクラの国のエクササイズにおける探求から接続しています。

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