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『一切』という概念について、色々と考えてきました。

この一切の原語は、パーリ語ではsabbeもしくはsabbaであり、サンスクリットではsarvaになります。英語で言うとAll、あるいはEverythingさらにWholeという意味もあるようです。


私はインド放浪の過程でヒンディ語をある程度かじったのですが、ヒンディでもSab(सबサブ)という単語があり、やはりEverythingを意味します。北インドの諸言語というのは、基本的に近しい兄弟言語なので、意外な所で役に立ったりして面白いものです。

このsabbeであるところの『一切』ですが、実は私は全く知らなかったのですが、仏教の教理において、極めて重要な概念である事が分かって来ました。

ぶっちゃけ、今私が理解しつつある事柄というものは、テーラワーダ仏教においてはある意味常識的な事で、長老先生方はもちろん、普通に学んだ在家の人々にとっても、当たり前な「何を今更」感の強い事なのかもしれませんが、ここはあくまでも私個人の探求と発見と理解のプロセス、という事で、書き連ねていきます。

この「三科」的な「一切」という概念は、Wikipedia三科さんに書いてある通り、部派仏教における重要なキーワードで、もちろんテーラワーダにおいてもその重要性は共有されています。

特にサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)においては、その内容の8割以上はこの三科、つまり眼耳鼻舌身意の六根とその対象である色声香味触法の六境、それらが接触する所に生まれる六識、という十八界と、そこから派生する心理的な諸事象について語られていて、(特に第4集については、そのものずばり「六処についての集成」となっています)まさにこの十八界こそが仏教的世界観の文字通り「すべて」であるのだなぁ、と実感できます。

ただし、この「一切」として切り取られた世界とは、もちろん厭離すべきものであって、いわゆる「永遠の真実在」とか言うものからは対極にあります。

しかし、話はそれだけでは済みません。これも最近私は気づいたのですが、このSabbeという原語から訳された「一切」、実は仏教の教理において、最も重要な諸法無(非)我、諸行無常、一切皆苦、という三相(四法印の内の三っつ)においても、主要テーマになっていたのです。

私たちは漢訳というフィルターを常にかけられた上で仏教用語というものと向き合ってきたので分かりにくいのですが、諸法とはパーリ語でSabbe dhammaであり、諸行とはsabbe saṅkhāra であり、皆苦であるところの一切もまた、sabbe saṅkhāra に他ありません。


1.sabbe saṅkhāra aniccā — "all saṅkhāras (conditioned things) are impermanent"(一切行無常)


2.sabbe saṅkhāra dukkhā — "all saṅkhāras are unsatisfactory"(一切行苦)

3.sabbe dhammā anattā — "all dhammas (conditioned or unconditioned things) are not self"(一切法非我)

つまり、仏教においてその中核に位置づけられる世界観、あるいは叡智である三相の、メインテーマはこの「一切」であるところのSabbeであるとも考えられるのです。

(同じsabbeをなぜ漢訳者は「一切」と「諸」に訳し分けたのか謎ですが)

そしてここで問題になるのが、上の三相においてメイン・テーマともなっているSabbe(一切)と、三科・十八界が一切法と呼ばれた時のその「一切」との関係性です。

両者における一切が、共に同義としての同一のSabbeであるとしたら、この三相は、以下のように読みとる事ができます。

一切である十八界(眼耳鼻舌身意の六根とその対象である色声香味触法の六境、それらが接触する所に生まれる六識)において形成されるもの(サンカーラ=行)は、一切がっさい無常である。

一切である十八界()において形成されるもの(サンカーラ=行)は、一切がっさい苦である。

一切である十八界()において生起し認識される現象(法)は、一切がっさい非我である。

何ともくどい文章ですが、論理的に考えると以上のように成らざるを得ません。

〈一切〉
十八界
十二処
 
六根
六境
六識
眼(げん)
色(しき)
眼識(げんしき)
耳(に)
声(しょう)
耳識(にしき)
鼻(び)
香(こう)
鼻識(びしき)
舌(ぜつ)
味(み)
舌識(ぜっしき)
身(しん)
触(そく)
身識(しんしき)
意(い)
法(ほう)
意識(いしき)
形成され認識される一切の現象
無常・苦・無我


何しろブッダは、我々が経験可能な全ての事柄としての「一切」を、六根・六境・六識の十八界だとしてそれ以外の事には関心を持たず、論ずる事も無かった訳ですから、そのようなブッダが三相において一切(Sabbe)という時にも、その一切とはこの十八界だと考えなければ筋が通らないのです。

この十八界については、パーリ教典的に厳密に言うと、六根と六境と六識が合わさった所に生まれるのが「接触」であり、その接触によって感受が生じ、感受に依って渇愛が、渇愛から取が、取から有が、有から生が、生から老病死苦が生じる、という形で、十二縁起の後半部分の土台としても説明されています(サンユッタニカーヤ・ニダーナ:因縁の集など)

十八界を土台とした縁起の連鎖の結果として、苦が生じる。つまりここで、一切(十八界)皆苦、という文脈の中身が、詳述されている形になっている訳です。

そしてこれら十八界を土台とした生起と消滅の連鎖は、すべて依って生じると言う縁起の連鎖に他ならず、それ自体は無常であり非我である、という事で、ここに三相の内容が揃う事になります。

この十八界とは五蘊とイコールであると考えていい、と以前指摘していますから、五蘊無常であり、五蘊皆苦であり、五蘊非我、とも言いかえられるでしょう。

そしてもうひとつ、仏教における真理の、いわば旗印の様に掲げられている教えとして、四聖諦というものが存在します。

その最初に来る苦の認識こそが、「一切皆苦」であり、その一切とは十八界(五蘊)であった訳ですから、四聖諦もまた、この一切であるところの十八界についての真理、という事になります。

さらに現象世界の一切が苦であるという、その苦の内容を詳述したものに四苦八苦がありますが、それを羅列していくと、まずは生老病死苦の四苦であり、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦と続き、最終的に、「つまるところ五蘊の全ては盛苦である」とまとまられていきます。

このつまるところの、つまり結論としての五蘊とは、すなわち一切であるところの十八界と考えて差し支えないのですから、ここでもまた、十八界に全てが収斂して行きます。

四聖諦の最初の苦の認識とは、いわば『十八界という一切』は苦である、という認識に他ならない。

ならば続く苦集聖諦、つまり、苦には原因がある、という認識もまた、その原因は十八界の内部のダイナミズムに求められる事になります。

その原因とは、先ほど十八界を土台にした十二縁起の後半部分に生じる渇愛である、と一般には言われていますが、この縁起のプロセスこそが、そのダイナミズムに他ありません。

更に次の苦滅聖諦は苦は滅する、という事実の認識ですが、これもそもそもの苦とは一切であるところの十八界“そのもの”が苦なのですから、十八界の内部で小細工を弄するのではなく、これは十八界(五蘊)それ自体が滅する、という真理になります。

そして最後の苦滅道聖諦とは、苦であるところの一切=十八界(五蘊)を、まるっと丸ごと滅していく道(行道)である、と考える事ができます。

では、この十八界、その要素を再掲すると眼耳鼻舌身意の六根とその対象である色声香味触法の六境、それらが接触する所に生まれる六識、になりますが、この三つのまとまりの内のどれが、その行道において“焦点”となるのか。

六識というのは詳述すると眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、になりますから、眼耳鼻舌身意という六官に依って生じる識であるのは明らかです。

という事は、より根本的な「一切」は六根と六境の十二処に絞られます。

その証拠にサンユッタ・ニカーヤにはそのものズバリ「すべて(一切経=Sabbasuttaṃ)」というタイトルで以下の経が伝えられています。

「比丘たちよ、わたしは『すべて』について、あなたたちに説こう。それを聞きなさい。『すべてとは何であるか。
と色、と声、と香、と味、と触、と法、比丘たちよ、それを『すべて』と言うのである。」

〜春秋社刊 原始仏典Ⅱ 第4巻P32 サンユッタ・ニカーヤ 六処についての集 第1部第3章第1節「すべて」より引用

Sabbaṃ vo bhikkhave desissāmi taṃ suṇātha. Kiñca bhikkhave sabbaṃ: cakkhuñceva rūpā ca sotañca saddā ca ghānañca gandhā ca jivhā ca rasā ca kāyo ca phoṭṭhabbā ca mano ca dhammā ca idaṃ vuccati bhikkhave sabbaṃ. 

accesstoinsight.org より引用

では、この十二処の内の、六官と六境、一体どちらを、何とかして、ハンドリングして操作して、変える事ができるのか。

これまで何回かに分けて話して来ましたが、環境世界の物質的な六境(五境)というものは基本的に変える事は出来ない。例えば、北インドの夏に太陽がカンカン照りになればめちゃくちゃ暑い。

熱い太陽光を何とかして変える事は出来ないけれど、暑さ、という主観的な経験は、何とかして変える事ができるし、ブッダの視点とは正にその経験主体としての現象的な「自分」という形成物(五蘊)にあった。

つまり、十二処の内の六根と六境では、六根こそが滅せられるべき、働きかけるべき「それ」である、という結論に成ります。

そしてもちろん、六官が滅すれば、六境もまた滅するのです。何故なら私たちは六官というデバイスを通して初めて、六境という対象を“識る”事ができるからです。

六官が滅すればそれは相即的に六境の滅をも意味し、それはすなわち十二処と十八界という“一切”の滅に他ならない。

ではこの六根、一体その何をどうやって滅するのでしょうか。六根そのものは物質的な身体として目の前に厳としてあるので、それ自体を手品のように消してしまう事はできません。

ここで重要になって来るのが、十二縁起と四聖諦で共有されている、苦の原因であるところの「渇愛」です。

12縁起においては、渇愛の前に感受があり、感受の前に接触があり、さらにその前に六処(六根)がある。そしてこの六処は、伝統的には六入とも記述される。

つまり、ここで苦を滅するための方法として、四つの可能性が考えられます。

まずは、苦の原因である渇愛を直截滅するか、渇愛の原因である感受を滅するか、さらにその原因である接触を滅するか、あるいは六処に何ものかが「入る」事を滅する(Nirodha)のか。

ブッダが一切という括りにおいて十八界を設定し、その根幹に位置するのが六根(六処)であるという事実を踏まえて、十二縁起において六処の前に位置する名色や識や行や無明はこのさい直截的に何とかして滅する対象としては除外します。

無明・行・識・名色・六処(入)・接触・感受・渇愛・取・有・生・老病死苦

焦点は六処(入)から渇愛までの四つ。しかし、渇愛はその原因となる感受があれば自動生起するので、感受を滅しなければ渇愛を滅する事は出来ず、感受は接触があれば自動生起するので接触を滅しなければ感受は滅しないはずです。

では接触を滅するために六処を滅しようとしても、それは物質的な身体として厳としてそこに存在するので、いかなブッダと言えどもその具体的な身体器官そのものを滅する事は死なない限り不可能です。

ここでカギとなるのが、六処(六根・六官)はしばしば六入と記述されると言う事実です。六処に入ると言う事はつまりは何かが外から入る。

具体的には、六境の情報刺激が入って触れる。例えば耳孔に空気の振動が入って鼓膜に触れて音が感受される。瞳孔に光が入って網膜に触れて映像が感受される。

漸く、焦点が絞られてきました。つまり、十二縁起の全ての始まりは無明とも言われあるいは渇愛とも言われるけれど、実際に、何とかしてこの十二の縁起の連鎖として存在している五蘊であるわたくしの苦を滅する方法があるとしたら、六処(根)において六境の情報刺激が入るのを防ぐ事こそが第一に考えられるのです。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)に侵されるからである。」
「感覚器官を守りなさい。感覚器官防ぎ止めなさい。」

しかし、入るのを防ぎ止める(堰き止める)といっても、一体どうしたらいいのか。

一方で、六官(根)の原語となるIndriya(器官)というのは、物質的な器官であると同時に、その『機能(能力)』をも意味します。なので、機能を停止(フリーズ)する事ができれば、たとえ情報刺激が入っても、渇愛へとつながる意味のある接触や感受は生起しないでしょう。

では、この場合、機能を停止(フリーズ)、もしくは阻害・妨害するにはどうしたらいいのか。

それら、六官において防ぎ堰き止め、妨害し阻害し機能停止(フリーズ)させる、という働きかけが、具体的な瞑想実践のメソッドとどのようにつながり、最終的に無常・苦・無我の『観察(Vipassana)』とどのように結びついて来るのか。

そこにこそ、ブッダの瞑想法の真骨頂がある。そう私は理解しています。

たいへん拙い説明で申し訳ないのですが、ここまで、十二縁起、五蘊、四聖諦、四苦八苦、三科・十八界、十二処、六根、など法数と呼ばれる数にちなんだ最重要の仏教用語を、「一切」という観点から網羅的に見てきました。

その核心的な真意こそが、何らかの方法に依る六官の防護であり、それこそが苦滅道聖諦であり八正道の中心にある瞑想実践そのものである、という所までは納得していただけたでしょうか。

次回に続く


本ブログの記事は、連載シリーズになっています。
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シリーズの第一回から遡って読む事をお勧めします。

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