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最近ずーっと、オウム真理教事件について、考えている。
 
そのせいで、『脳と心とブッダの覚り』本文がなかなか書けない状態で申し訳ないのだが、しかし、ブッダの覚りについて科学的に検証するためには、どうしてもオウムという現象を避けて通る訳にはいかない。
 
別の言い方をすれば、松本智津夫とシッダールタの瞑想体験がどのように違っていたかを論理的に追及することが、ひいてはブッダの覚りというものを理解するための近道ともなるだろうからだ。
 
今私がイメージしているのは、オウム真理教=アバター帝国仮説だ。
 
映画アバターは、そのヴィジュアル的な美しさ、そこで展開される世界観の壮大さだけではなく、様々な意味で人間の『心』のあり方を描いた快作だったと私は思う。
 
主人公ジェイク・サリーは、急死した双子の兄トミーの代役として急遽惑星パンドラに派遣され、アバターの操縦者を務めることになった。元海兵隊員の彼は地球での戦闘で下半身不随になっており、パンドラでの任務の報酬で足の治療を受けるつもりだった。しかしパンドラでは、アバターのボディを借りている間だけ、再び歩ける体を取り戻す事に気づく。
 
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松本智津夫と麻原彰晃の関係性を理解するためには、映画アバターが参考になる
 
私はブルーレイを買って何回も見たので、それぞれのシーンをありありと思いだすことができるのだが、この現実において歩けない障碍者であるジェイクの境遇は、そのまま視覚障碍者として生きねばならなかった松本智津夫の境遇ではなかっただろうか。
 
彼にとって瞑想とは、歩けないジェイクがナヴィ族の身体に転送される事によって日常では考えられない全能性を味わえたのと同じような意味で、不自由な日常を超えた全能性へのワープを意味していたのではないだろうか。
 
瞑想というヴァーチャルなアバター世界の中では、彼は目の見えない障碍者ではない。超能力を獲得し、自由自在に空を飛び、恋をし(あるいはハーレムを持ち)、神と出会い、宇宙の究極の真理と融合する事さえ可能だった。
 
そこで高みを飛翔する彼にとって、彼を今まで見下してきた世間(健常者)というものは、はるかな下界を飛ぶこともできずに這い回る、下等動物に過ぎなかっただろう。
 
ジェイクが転送装置から目覚めた瞬間、萎えた足を持つ障碍者である自分に直面し、ある種絶望的な表情を浮かべるシーンを、私はリアルに覚えている。アバター世界での日常が深まっていけばいくほど、彼は目覚めた時に現前する現実世界を嫌悪するようにすら、なっていった。
 
松本智津夫の場合、このプロセスは最初から一気に起きた。彼はまさにその“盲目性”によって、瞑想から覚めても、自覚的に醒めて現実を直視することができなかった。瞑想中に経験されるヴァーチャルなアバター世界は、彼の意識の連続性の中では、常にリアルであり続けた。もちろんその背後には、現実逃避する自己欺瞞が潜在している。
 
彼は瞑想(迷想)し続ける限りにおいて、決して障碍者松本智津夫という現実に立ち返ることなく、尊師麻原彰晃であり続ける事ができたのだ。
 
そして、彼は救世主トゥルーク・マクトに“なった”。
 
そして、彼のアイデンティティのよりどころとなる、彼にとって全世界である“惑星パンドラ”すなわちオウム帝国を守るために、族長として戦いを開始したのだ。
 
では、シッダールタの場合はどうだったのだろう。
彼は松本智津夫と同じような文脈で、『私はブッダになった』と自覚したのだろうか。
彼も松本智津夫と同じ様に、アバターの夢を見ていたのだろうか。
 
それは違う。そう私は断言できる。
 
何故なら、ヴァーチャルなアバター世界が展開するのは、常に辺縁系の支配下にある大脳世界だからだ。松本智津夫はどこまで行っても“サンカーラの牢獄”の中で踊っているにすぎなかった。
 
しかし、ブッダの瞑想法は、明確に原理的なファンクションとして、そのような大脳世界、すなわちサンカーラの牢獄からの離脱を志向するものなのだ。
 
ここで今度は、映画アバターと、映画マトリックスを重ねてみよう。ジェイクにとってアバター世界は“もう一つの現実”だったが、ネオにとってのマトリックスは、完全なフィクションだった。
 
トーマス・アンダーソンは、大手ソフトウェア会社のメタ・コーテックスに勤めるプログラマである。しかし、トーマスにはあらゆるコンピュータ犯罪を起こす天才クラッカー、ネオという、もう1つの顔があった。
ある夜、とある人物(モーフィアス)を探していたネオの所へ、その人物から「白ウサギに付いて行け」とのメッセージが届く。やがて、今まで現実と思っていた世界が、コンピュータの反乱によって作られた「仮想現実」であることを知らされたネオは、人類が養殖されている現実世界で、人工知能との戦いに巻き込まれていく。
 
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シッダールタの解脱をイメージするためには、映画マトリックスが参考になる
 
マトリックスの主人公トーマス(ネオ)は、ごく普通の日常を送っていたつもりが、ある日突然、それがマトリックスという『夢』に過ぎなかった事を知らされる。完全に目覚めた彼にとって、マトリックス世界とはモニター上に流れていく文字コードの羅列に過ぎない。
 
おそらくシッダールタは、その人生の初期に“モーフィアス”と出会ってしまった。誰もが何の疑問もなく適応してしまうこの“現実”に疑問を抱いてしまった。
 
そして紆余曲折を経てブッダガヤの菩提樹下に禅定した彼は、ついに、“現実”世界から“UNPLUGGED(アンプラグド)”し、それが単なるマトリックスの羅列に過ぎない事を、そのモニター上で“観照(ヴィパッサナー)”したのだ。
 
この文脈で見れば、オウムの聖戦を遂行した麻原彰晃は、まさしくマトリックス世界で超常能力を発揮して戦う救世主ネオに他ならない。ただ彼は、プラグドされている自分が、唯一リアルな自分だと錯誤したままだった。
 
私はシッダールタの覚醒について、そして松本智津夫の“聖戦”について、現時点では以上の様に考えている。もちろん、アバターとマトリックスは単なるたとえ話に過ぎない。
 
けれど、このたとえ話によって象徴される原理(ダルマ)さえわきまえていたら、21世紀の真摯な瞑想修行者が、麻原彰晃によって惑わされることは、もうないだろう。ただし、彼が進むべき道程は、とてつもなく険しい事が予想される。
 
全ての瞑想修行者は、常に“アバター”の誘惑にさらされている。あらゆるインストール型宗教は、ある意味全てアバター世界の虜囚であると言う事も出来る。本来アンインストール型の宗教であるはずのブッダの瞑想法が、インストール型に転じ、アバター世界の虜囚に堕する危険は常に背中合わせに存在している。
 
仏教が変質し続けたこの2000年の歴史とは、正にブッダの教えがヴァーチャルなアバター世界化するプロセスだったとみる事も出来るのだ。
 
映画マトリックスの中には、マトリックスをマトリックスと認識しながら、なおマトリックス世界において成功者としての生を送ることを選んだ、“裏切り者”すら登場した。
 
ブッダの道はとてつもなく厳しい。私は、ある種深い驚嘆と共に、そう思わずにはいられない、今日この頃なのだ。
 
松本智津夫は、今でもただひとり、アバター世界の夢に浸っている。彼は現実の牢獄の中で、ヴァーチャルなアバター世界の牢獄に住み続けている。彼が目覚める事は、おそらくもうないのだろう。
 
それを思うと、瞑想という営為が持つ恐ろしさというものを、私は自覚せずにはいられない。すでに目覚めたブッダの指導を得られないこの世界で、果たして正しいブッダの瞑想法が可能なのか?
 
私が初めてテーラワーダ仏教のヴィパッサナー・メディテーションを経験してから、すでに17年が経過した。その間、日本社会においてヴィパッサナー瞑想者は飛躍的にその数を増し、ブッダの瞑想法に関する情報はあふれている。
 
しかし、自戒も含めて、私たちが経験しているレベルは、果たしてオウムが経験していたレベルとどれだけ異なっているのだろうか。全ての瞑想指導者、そして実践者は、自らを深く顧みなければならないと、強く思う。
 
このブログに書かれたことを念頭に、機会があれば是非、アバターとマトリックスという映画をもう一度、見直してみて欲しい。 
 
 
 

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