瞑想実践の科学

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ブッダの瞑想法、その科学的作用機序について、パーリ経典やインド思想書を読み込むことによって探求していきます。
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ジャイナ教の開祖マハヴィーラなどに代表されるサマナ修道者が好んで行った苦行や、ブッダの瞑想行法が、バラモン教的な『祭祀』の代替となる『内部化された祭祀』だった、と前回までに書きました。

この点に関して、まずは典拠を示して、祭祀の内部化というものが、具体的にどのような言葉で語られているのか、見てみたいと思います。

最初の参考文献は、『沙門ブッダの成立』山崎守一著 大蔵出版、です。この本はブッダが出家し修行した当時の北インドの宗教事情をよく捉えているもので、中でもジャイナ教の古文献を仏典と並行して引用し、その細部を際立たせています。

この本を入口に、様々なパーリ経典からの引用も絡めて、この『内部化された祭祀』という心象に迫っていきましょう。

〜以下、『沙門ブッダの成立』P86より引用〜

再び、『ウッタラッジャーヤー〔ジャイナ教最古層の聖典〕』の第12章に戻ろう。第38詩節から章末の第47詩節までは、正しい祭祀とはどのようなものであるかを説いている。ここでは第44詩節までを取り上げる。

38.〔比丘は言った〕「バラモンたちよ、なぜ〔聖)火の世話をし、水によって外見の清浄を求めるのか。賢人たちは言う。『あなた方が求める外見の清浄は正しい祭祀ではない』と。
39.朝夕にクシャ草、犠牲獣を繋ぐ柱、草、木、火、水に触れながら、生き物たちを傷つけつつ、愚かなあなた方は、再び罪を犯す」と。

祭祀を行うには聖火を灯し、水で周りのものを清めるのであるが、これは正しい祭祀とは認められないし、犠牲獣を捧げる行為は罪であって祭祀とは言えない、と断罪しているのである。

40.〔バラモンたちは言った〕「比丘よ、われわれはどのように祭るべきか。どのように悪業を追い払うべきか。夜叉によって供養された修行者よ、われわれに話してください。賢人は何を正しい祭祀と言うのか」と。
41.〔比丘は言った〕「六種の生類を傷つけないで、嘘をついたり、与えられないものをとったりしないで、財産、婦人たち、自負心、欺きを捨てて、人々は自制を実践すべきである。
42.五つの制御によって善く守られ、この世における生命を望まず、身体を捨てて、清らかで捨身の人たちは、偉大な勝利、最上の施物を得る」と。

六種の生類とは地身、水身、火身、風身、樹身、動身のことであるが、いわばすべての生き物を意味している。これら六生類を傷つけることを止め、自制に努め、勝者(修行の完成者)になることが、最上の施物を得ることになると説く。
さらに、この物語は真実の祭祀についての話に及んでいく。

43.〔バラモンたちは言った〕「あなたの〔聖〕火、火炉、柄杓、鞴(ふいご)は何ですか。比丘よ、あなたの燃料は何ですか。どのような献供をあなたは〔聖〕火に与えますか」と。
44.〔比丘は言った〕「苦行は〔聖〕火であり、生命は火炉である。精進は柄杓であり、身体は鞴(ふいご)である。業は燃料である。精進、寂静を聖仙によって称賛された献供として私は与える」と。

苦行を聖火生命を火炉、精進を柄杓、身体を鞴、業を燃料といった具合に、バラモンの祭式に使用する用具を沙門の用語に個別に対比させ、献供は自制、精進、寂静に相当すると述べる。このように、バラモンに対抗して彼らの祭祀を認めず、自制者として最高の勝者の境地を目指す修行者たち、すなわち沙門が存在していた事は事実である。

〜以上、引用終わり〜

この『沙門ブッダの成立』という書物全体が、非常に良質の論考になっていて、2500年前のブッダの時代前後の宗教的心象世界を活写しているのですが、ここではジャイナ教から見た沙門の生きざま、その修行実践を、バラモン祭官によって執り行われる従前の供儀祭に対比した上で、より勝れた真の聖なる祭祀実践として称揚している事実が浮き彫りになります。

(ただ著者の中では、『祭祀の内部化』という視点は顕在化はしていないようです)

そこでは、修道における自制と精進、及びその結果として得られる寂静の境地を、“献供”として(神々に)捧げる、という心象が明示されています。

実はこの段落の直前には、仏教側の文献証言としてサンユッタ・ニカーヤからの抜粋が引用されているのですが、次にそれを、原典から直接引用してみます。

〜以下、『神々との対話〜サンユッタ・ニカーヤ1』中村元訳 岩波文庫P172より引用。(コーサラ国王パセナーディによって、大規模で多くの動物を供儀とする祭祀が準備されており、使用人・労働者が自らも暴力的な罰を受ける事を恐れている光景を前振りに)

6.そこで尊師は、このことを知って、そのとき次の詩を唱えた。――
「馬の祀り、人の祀り、棒を投げる祀り、精力を飲む祀り、閂を取り去る祀り、―― これらの祀りは労すること多くして、大なる果報をもたらさない。山羊と羊と牛とが種々に殺されるが、正しい道を行く大仙人たちは、その大規模な生け贄の場所におもむかない。
しかるに、労することなくして、常に順調に行われ、山羊や羊や牛が種々に殺されることのない祭祀 ――
正しい道を行く大仙人たちは、その祭祀におもむく。
聡明な人は、この祭祀を行え。この祭祀は大なる果報をもたらす。実にこの祭祀を行うならば、その人には善い事があり、悪い事は起こらない。その祭祀は広大なものとなる。そうして神々もそれを喜ぶ。」

〜以上、引用終わり〜

ここでは多くの動物犠牲をともなうバラモン教の供儀祭祀を明確に否定した上で、より善い大なる果報をもたらす代替の(内なる)祭祀として、比丘サマナの、つまりはブッダの修行道を称揚・勧奨しています。

仏道修行と言う全く装いを新たにした『祭祀』こそが、神々を真に喜ばせるものであり、だからこそ、そのような祭祀に在家者は供養すべきであると。

つまり、彼らジャイナ教や仏教の出家サマナが行っている修行道、これはもちろん、その中心に苦行や瞑想行を据えているのですが、これを(あるいはその結果として得られる“境地”を)神々に対する献供とし、それを受けた神々もまた、バラモン祭祀を受けた時と同じように、というか彼らサマナの文脈ではそれ以上に、大いに喜んで、人間界に祝福の恩寵をたまわるのだ、という思想です。

このような、いわば『ニューウエーブ祭官(内なる)』としてのサマナの位置づけがあったからこそ、在家の人々は彼らに供養し、アショカ王の時代には沙門・バラモンと総称されるような社会的地位を築き得たのでしょう。

次に、仏道修行を内なる火の祭祀、と捉える表現を、『サンユッタ・ニカーヤⅡ 悪魔との対話』中村元訳 岩波文庫P147 〜見て行きます。

〜以下、第Ⅶ篇 第一章 第九節スンダリカ より引用〜

9.〔尊師いわく〕
「生まれを尋ねるな。行いを尋ねよ。
火は実に微細な木材からも生じる。
たとい賤しい家からの出身であろうとも、
毅然として、慙愧の念で身を防いでいる
聖者は高貴の人となる。
真実によって制御され、〔諸感官の〕制御を身に具え、
智慧の奥義に達し、清浄行を実践した人、
祭儀を準備した人は、彼にこそ呼びかけよ。
供養され敬わるべき人は、適当な時に供物を〔火の中に〕捧げる。

17.傍らに立っていたスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンに向かって、尊師は詩を以って呼びかけた。
「バラモンよ、木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
それは単に外側に関する事であるからである。
外的な事によって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得る事が出来ない。
と真理に熟達した人々は語る。
バラモンよ、わたしは〔外的に〕木片を焼くことを止めて、
内面的にのみ光輝を燃焼させる。
永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、
敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。
バラモンよ、そなたの慢心は重荷である。
怒りは煙であり、虚言は灰である。
舌は木杓であり、心臓は〔供養のための〕光炎の場所である。
よく自己をととのえた人たちが人間の光輝である。
バラモンよ。戒めに安住している人は法の湖である。
濁りなく、常に立派な人々から立派な人々に向かって称賛されている。
そこで沐浴した、知識に精通している人々。
肢体がまつわられることのない人々は、彼岸に渡る。
真実と法と自制と清浄行
これは中〔道〕によるものであり、ブラフマンを体得することである。バラモンよ。

〜以上、引用終わり〜

こうやって見ると、通底するある価値観、の様なものが把握されます。それは清浄、とか清らか(浄らか)とか言われている概念です。

ここで彼らの求めている価値観が、これまでの世俗的・物質的、あるいは来生的な『利益』から、清浄というある種抽象的な概念と結びついており、これまでの文脈を見ると、対置される『悪業』とセットになっていると考えられます。

おそらくこれは輪廻転生思想の成熟と共に、その原動力ともなる業の思想が顕在化し、人々の心に多大なるプレッシャーを与え始め、その悪業が振り落とされた(無力化された)状態を『清浄』の名のもとに希求したのでしょう。

前半の第9節を通読すると、たとえ賤しい生まれの人であっても慙愧の念をもって身口意を防護している修行者は、あたかも実に微細な木材からも火は生じる』様に、という形でその修行が木片から生じる火に重ねられ、つまりはその慙愧の念と言う内なる制戒が、清浄行として内なる『火の祭祀』に重ねられている。

その上で、何らかの幸福や神の祝福を求めて祭儀を準備をしているものは、既存のバラモン祭官がとりなす祭祀などではなく、このような生まれは低かろうが気高い内的祭祀(清浄行)を実践する比丘サマナに供養しなさい、と勧奨しています。

後半の第17節では、バラモン祭官たちが行う火の祭祀は、単なる外形的な空疎なものに過ぎず、真の清浄には至らないと説き、そのような外的な火ではなく、私(ブッダ)は内なる光輝の燃焼(火の祭祀)を(清浄行=瞑想実践として)行う、と高らかに宣言します。

ここでブッダは、珍しい事に、その内なる祭祀(清浄行)であるところの燃焼を『永遠の火』と表現し、その火の説明として、常に心を静かに統一していて』と、それがつまり瞑想行である事を明示しています。

そして内なる燃焼(という瞑想行)を行ずる者は、それ自体人間の光輝であるとして、内なる燃焼のその光が、あたかも外側にまであふれ出て、彼自体ひとつの光輝体になるかのようなイメージが見出せます。

これはランプの灯が燃焼するのはランプの内部ですが、その光は外部世界を大いに照らし出すように、この内なる火の祭祀としての燃焼(瞑想行)をする者のその光は、世界を照らし出す光輝としてあふれだす、という心象なのでしょう。

これは仏典によくみられる「目の見える者に灯火をかざして見せる様に」という表現と深く結び付いていると考えられます。

(これは正確には、「『眼ある人々は色や形を見るであろう』と言って、暗闇の中で灯火をかかげるように」という定型文です)

ブッダは世界の闇を照らす灯火であり太陽であり、それは内なる火の祭祀としての『燃焼(瞑想行)』の光輝が、外界にまであふれ出て、世を広く照らす、と言う流れでしょう。

その光輝とはもちろん瞑想行によって得られる悟りの智慧の光に他ならない、と同時に、その瞑想プロセスで主観的に体験される『内なる光の洪水』を示唆しているのかも知れません

瞑想行の深みにおいて体験される主観的な『光輝』は、清涼なる白い光、という様な表現で、仏典の随所に言及されています。

最後に、このような修行者は法の湖であり、その内なる湖での沐浴による浄化、というイメージも登場します。

その内なる沐浴によって得られる知識の精通。この『知識』とは文脈上明らかに原意は『ヴェーダ』であると推測する事ができます。

そうして最後に、このような内なる火の祭祀である燃焼(瞑想行)によって五蘊としての身体から解放された聖者は、彼岸に渡る。それこそが、ブラフマンを体得することなのだ、と断言されます。

仏道修行によってブラフマンに到達できるからこそ、その修行の完成者であるブッダは、『真のバラモン(ブラフマナ)』と呼ばれ得る訳ですね。

このように見てくると、ブッダの修行道とは、徹頭徹尾、バラモン祭官による火の供儀祭、それによって神を喜ばせ、来世に向けて善業を積み、最終的には解脱さえ可能たらしめると自画自賛されていた外的なバラモン祭祀に対する、完全なる代替法として提示された『内的祭祀としての清浄行』である事が、よく理解できると思います。

上記文脈でちらっと出た『内なる沐浴』という概念。これもパーリ経典の随所に登場するもので、当時バラモン教を中心に広く実践されていた河や池での沐浴、つまり外的な沐浴に対する内的な沐浴、という代替構造に根差しています。

以下にこの内外の沐浴についても引用参照してみましょう。

〜以下、同『悪魔との対話』P178、第Ⅶ篇第二章 第11節サンガーラヴァより引用〜

11.「ゴータマさま。ここに、わたしは昼間につくった悪業を夕に沐浴して洗い落とし、夜につくった悪業を朝早くに沐浴して洗い落とすのです。
この利益を見るが故に、わたしは、水によって身を清める行者となり、水によって清浄を達成しようとして、朝夕に水中に下りて水に浴することを実行しているのです」

12.「バラモンよ。戒めを渡し場としている道理なる湖は、濁りなく澄み
諸々の善人が善人の為に讃めたたえるものである。
そこでは神の知識を得た聖者たちが沐浴し、五体を清めて彼岸に渡る」

〜以上、引用終わり〜

ここでも明らかに、バラモンを中心とした当時の『外的な水の沐浴による悪業の浄化』という実践法に対する、完全な代替(オルタナティブ)として、内なる沐浴、これはしばしば水を用いない沐浴とも称される仏道修行、を対置しています。

ここでは明記していませんが、その内なる沐浴の核心とは、もちろん『瞑想修行』だったのは疑い得ません。

『神の知識を得た聖者』の「神の知識」とはもちろん『ヴェーダ』でしょう。だからこその『ヴェーダの達人』なのです。

以上のように、苦行や瞑想行と言った比丘サマナ的な修道実践が、「バラモン祭官の外なる祭祀」に対比される「比丘サマナの内なる祭祀=清浄行」、という文脈で語られていた事は、ほぼ間違いないでしょう。

では、これまで私が強調してやまなかった、(ヴィーナの喩えと関連する)賛歌の詠唱とブッダの瞑想行、特にアナパナサティとの関わりと言うのは、文献的に典拠を見出せるのでしょうか。

これは私自身、このような発想を得たのが比較的最近の事なので、これまで読んできた膨大な文献を改めて渉猟し直してみない事には、なんとも言えません。

ですが、私の記憶に鮮明ないくつかのデータを併置的に深読みする事によって、自ずから明らかになって来る事もある、という感触を私は持っています。

最後に、今回もうひとつ気になった事を、『祭祀の内部化』仮説に対するさらなる補強材料として記しておきます。それは地水火風といういわゆる『四大(四界)』と内外の祭祀、との関わりです。

最初に気になったのは、ウッタラッジャヤーにおける六種の生命存在についての解説で、地身・水身・火身・風身、という表現があった事です。

これは詳細がつまびらかではないのですが、おそらくは地(中)に住む生類、水(中)に住む生類、身体に熱(火)を持つ生類(恒温動物)、風(空中)に住む生類、といった意味だと想像しました。

これはそれ以上に考察が進行した訳でもなく、ただ、生命存在が四大(四界)という概念と重ね合わせて称されていたのだな、という単純な理解です。

次にこれに触発される様にして考えたのが、祭祀と四大(四界)との関わりです。

バラモンの祭祀は火の祭である、と言う事は、これまでさんざん繰り返してきました。これがまずは四界の内の『火の要素』です。

そして、今回、火と共に浄化の道具として水、と言うものが登場しました。これはいわゆる沐浴だけではなく火の祭祀の祭場を清める水、でもある訳で、これが四界の内の『水の要素』です。

この水の要素、バラモン・ヴェーダの火の祭祀において主要な役割を果たしていた『ソーマ酒』の搾汁とその供儀という点からも注目されます。

次にこれら祭祀が行われるのは、一般にブッダの時代には後世の様な伽藍・寺院は登場しておらず、もっぱら、大地の上に一時的な祭壇が築かれて執り行われていた、という事実です。

そう、前出の祭場を水で清める、という営為は、第一にはその祭壇を築く大地、つまり地面を清める、と言う事で、これが四界の内の『地の要素』です。

(この水による大地の清めは、現代インドでも、例えば一般家庭の玄関先の地面を、牛糞をうすくといた液水を塗って清める、と言う形で継承されています)

最後に、これは若干苦しいかも知れませんが、祭祀の主役である『火』、これを盛大に燃やすために必須なのが風(空気)、であるという事実です。

この火と空気の相関は、上述引用のバラモン祭具の中に『鞴(ふいご)』というものが登場する事からも、彼らによってよく知られていた事実が明らかです。

また祭火が燃え盛る時には風を巻いて轟々と言う音が激しく鳴った事でしょう。この風あるいは空気の存在こそが、四界の内の『風の要素』です。

(神々に人の願いを届ける為の煙もまた、空中を風の流れ(上昇気流)に乗って登っていきます)

この風の要素、これ以外にも、祭祀の必須要素である賛歌における発声の基盤となる呼吸、としても、彼らによって十二分に認識されていただろうことは、ウパニシャッドなど様々な文献資料から分かります。

このように見ると、四界における地水火風という諸要素は、そのまま、外なるバラモン祭祀において、極めて重要な意味を持っていた事が明らかです。

このような四界の諸要素の性質を知悉し、適切に管理し運用することこそが、祭祀成功のための必須要件であったと考えられます。

では、この外なる祭祀と四大要素(四界=地水火風)との関係性を、そのまま内なる祭祀としての瞑想実践にも当てはめられないだろうか、と言うのが、今回の発想です。

この時私の脳裏に浮かんでいたのは以前に取り上げた、現行のパオ・メソッドの中に見出す事が出来る『四界分別観』でした。

先ほど私は外なるバラモン祭祀において、地水火風という四大要素の性質を知悉し管理運用する、と書きましたが、そのような営為において第一に求められるのは、例えば典型的には『火』の場合、それは集中した観察による状況判断、に他ありません。

刻々と変わりゆく火、その炎や煙の、あるいは燃料である薪木のありようを、逐一観察して、適切にコントロールする。それができなければ火の祭祀など到底かないません(これは「かまど」や薪ストーブなどのいわゆる『裸火』を、親しく取り扱った事のある方ならよく分かるでしょう)。

バラモン祭官、特に火壇を支配する祭官には、何よりもこのような火の生態に関する観察と運用の智、が求められたでしょう。

火壇が設置される大地の整備についても、それらを浄化する水の運用についても、火と共にある風の管理についても、そして賛歌の基盤となる呼吸のコントロールについても、様々な儀軌と共にこのような『観察と運用の智』というものは共通していたはずです。

ヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者!)

そして、そのような性質をもつ祭祀と言うものが、ひとたび内部化されて瞑想者の身体の中で実践される様になった時に、外的祭祀において行われていた四大要素の観察と運用が、そのまま身体の中の営為として内部化されていったのではないか、という視点です。

何故なら、我々の身体と言うものは、その個体要素は地であり、液体要素は水であり、呼吸が風であり、それらによって燃え盛る体熱が火に他ならないからです。

それらを観察・運用しないで、どのように内的祭祀が可能でしょうか?

実は私がインドでヨーガを学び始めていた頃、最初にこんな説明を受けた記憶があります(これは文献的にはハタヨガ・プラディピカーに由来するようですが、少しでもインド土着的な文脈の中でヨーガを学んだ人なら、多分同じような内容を聞かされているはずです)。

「私たちの身体とは神々を招来するための『寺院』に他ありません。寺院においてバラモン祭官がそうするように、神々が降臨し住まうにふさわしい寺院として身体を浄化し荘厳し聖化する、そのプロセスこそがハタ・ヨーガなのです。」

このヒンドゥ的な心象は、これまでの私の論考と非常に近接しています。寺院と言う外部存在を内部化し“我が身体とする”。これこそがハタ・ヨーガの奥義・真義なのでしょう。

そして忘れてはならない事。それは前述したように、レンガや石を建材とした堂塔伽藍としての寺院が発達するのは、早くともアショカ王時代頃以降のことであり、それまで(ブッダの時代)は固定した建造物ではなく、火の祭壇を中心とした大地の祭場こそが、その時々の『寺院』であった、という史実です。

上のヨーガの真義、その「寺院」を「祭場」に置きかえて若干アレンジすると以下のようになります(ヒンドゥ・ヨーガの場合はもちろん伽藍としての外的寺院を否定しませんが〔内心、下位に見くだしているかも〕、比丘サマナはバラモンの外的祭祀を否定した上に取って代わろうとした、という違いは注記すべきですが)。

「私たちの身体とは神々を招来するための『祭場』に他ありません。祭場においてバラモン祭官がそうするように、神々が降臨する(神々に供養する)にふさわしい祭場として、身体を浄化し荘厳し聖化する、そのプロセスこそが比丘サマナの行法なのです。」

これは、悟りを開いた後のブッダがどう考えていたか、という点は取りあえず置いておいて、今回引用した文献や私のこれまでの考察を前提にすると、当時の汎インド教的文脈からは至極真っ当な文意だと考えられます。

私はまったくもって違和感を感じないのですが、皆さんはいかがでしょうか。

(そう言えばパーリ経典では、ブッダや比丘が瞑想していると、しばしば梵天や帝釈天が降臨してきます。あれは修行する比丘サマナの身体が『内部化された祭場』という“依り代”だからだと考えると、腑に落ちます)

整理すると、比丘サマナの『身体』とは『内部化された祭場』であり、その祭場である身体において行われる『内部化された祭祀』こそが、比丘サマナの『行法』である、という事になります。

この視点は、いずれもう少し掘り下げてみましょう。

〜次回に続く。


本ブログの記事は、連載シリーズになっています。
単独の記事を読んだだけでは何一つ理解できないので、
シリーズの第一回から遡って読む事をお勧めします。

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賛歌と言うバラモン教的な『瞑想実践』に対するオルタナティブとして提示されたのが『ブッダの瞑想法』であり賛歌のデバイスである(ヴィーナとしての)ウドガートリ祭官の身体』『瞑想のデバイスである(ヴィーナとしての)比丘サマナの身体』と、完全に対置されていた

バラモン教的な祭祀と、ブッダの瞑想行法が、具体的かつ実践的に『接続』しており、そのキーワードは『祭祀の内部化』である。

そのように前回、52 「賛歌」のオルタナティブとしての『ブッダの瞑想行法』 の最後に書きました。

この『祭祀の内部化』とは一体何を意味するのか。この事はゴータマ・ブッダが当時の求道者たち、あるいはバラモンたちから、しばしば“ヴェーダの達人”、あるいは“真のバラモン”と称賛されていた事実と深く関わっています。

実は、51 ウドガートリ祭官の「瞑想」と“発声器官”で“Dhyāna”について書くにあたって、困った時のWiki頼み、と言う事で英語版Wikipediaで色々と調べてみました(日本語版に比べて情報量が違います)。

そこには、Dhyāna in BuddhismDhyāna in Hinduism の二つのページが存在し、主にヒンドゥ教の文脈の中に、現在の私の思考プロセスに非常にマッチする内容が記述されていました。

以前にもこの“Dhyāna”、Wikiで調べた記憶があるのですが、知らない間にかなり内容に変化、あるいは進化が見られます。

以下に、Dhyāna の語義から始まって『祭祀の内部化』に至る文脈まで、当該個所をWikiからかいつまんで引用してみましょう。

Dhyana (Sanskrit: ध्यान, Pali: झान) means "contemplation, reflection" and "profound, abstract meditation".[11]
The root of the word is Dhi, which in the earliest layer of text of the Vedas refers to "imaginative vision" and associated with goddess Saraswati with powers of knowledge, wisdom and poetic eloquence.[3][12] This term developed into the variant dhya- and dhyana, or "meditation".[3]

意訳:ディヤーナとは、熟考、省察、そして深遠で抽象的な概念についての瞑想を意味する。
語根はDhi で、これは初期ヴェーダの文脈では「想起(想像)されたヴィジョン」を意味し、サラスワティ女神の知識の力、智慧と詩的な能弁とに関連付けられている。
このタームはやがて瞑想を意味するディヤーナへと変化していく。

Dhyana, states Thomas Berry, is "sustained attention" and the "application of mind to the chosen point of concentration".[13] Dhyana is contemplating, reflecting on whatever Dharana has focused on.[

ディヤーナとは、「持続された注意」であり、選択された対象に向けられる集中した心の運用である、とトーマス・ベリーは言う。
ディヤーナとはそれが何であれ一点集中された心によって、熟考(心の眼で熟視する事)、あるいは専念する(心が特定の概念に投射され続ける)ことである。

Dhyana is contemplating that concept/idea in all its aspects, forms and consequences. Dhyana is uninterrupted train of thought, current of cognition, flow of awareness.

ディヤーナとは特定の概念やイデアにおけるあらゆる側面に対する熟考(心の眼で熟視する事)である。ディヤーナとは乱されない思念の連なりであり、認知あるいは「気づき」の絶えざる流れである。

The term dhyanam appears in Vedic literature, such as hymn 4.36.2 of the Rigveda and verse 10.11.1 of the Taittiriya Aranyaka.[32][33] The term, in the sense of meditation, appears in the Upanishads.[34][33][35] The Kaushitaki Upanishad uses it in the context of mind and meditation in verses 3.2 to 3.6, for example as follows:[36]
मनसा ध्यानमित्येकभूयं वै प्राणाः
With mind, meditate on me as being prana
— Kaushitaki Upanishad, 3.2[36][37]
The term appears in the context of "contemplate, reflect, meditate" in verses of chapters 1.3, 2.22, 5.1, 7.6, 7.7 and 7.26 of the Chandogya Upanishad, chapters 3.5, 4.5 and 4.6 of the Brihadaranyaka Upanishad and verses 6.9 to 6.24 of the Maitri Upanishad.[35][38] The word Dhyana refers to meditation in Chandogya Upanishad, while the Prashna Upanishad asserts that the meditation on AUM () leads to the world of Brahman (Ultimate Reality).[

抄訳:ディヤーナという単語はリグ・ヴェーダ、タイッティーリヤ・アーラニヤカ、などの古層の文献にすでにみられる。
カウシータキ・ウパニシャッドには、「心をもって、私はプラーナである、と念想しなさい」という言葉がある。
その他、熟考、念想、冥想と言う文脈でチャーンドーギャ、ブリハドアーラニヤカ、マイトリ、各ウパニシャッドにも言及されている。
プラシュナ・ウパニシャッドには、聖音オームに瞑想する事によって、ブラフマン(究極の真実)に到達できる、という記述がある。

The development of meditation in the Vedic era paralleled the ideas of "interiorization", where social, external yajna fire rituals (Agnihotra) were replaced with meditative, internalized rituals (Prana-agnihotra).[

ヴェーダの時代における瞑想実践の発展は「内面化(内部化=自らの内部に取り込む事)」というイデアと並行して行われた。
そこでは、社会的、外部的なヤジュナ、つまり火を用いた犠牲祭(アグニホートラ)が瞑想という形で(その瞑想者の)内部(内面)における儀式(プラーナ・アグニホートラ)へと置きかえられた。

This interiorization of Vedic fire-ritual into yogic meditation ideas from Hinduism, that are mentioned in the Samhita and Aranyaka layers of the Vedas and more clearly in chapter 5 of the Chandogya Upanishad (~800 to 600 BCE),[

このヴェーダの火の祭式をヨーガの瞑想へと『内面化』するというイデアは、ヒンドゥ教のサンヒターやアーラニヤカなど古層のヴェーダ、なかんずくチャーンドーギャ・ウパニシャッドの第5章などに鮮明に見られるが、

are also found in later Buddhist texts and esoteric variations such as the Dighanikaya, Mahavairocana-sutra and the Jyotirmnjari, wherein the Buddhist texts describe meditation as "inner forms of fire oblation/sacrifice".[42][43]

後の仏教文献であるディーガ・ニカーヤ、マハ・ヴァイローチャナ・スッタ、Jyotirmnjariなどの中でも、瞑想行を“内なる様式としての火の献納・供儀”とする表現がみられる。

〜以上、 Dhyāna in Hinduism より引用・拙い抄訳ご勘弁を。

このWikipediaのディヤーナに関する英語のページは、全体としても非常に面白いので、興味のある方は是非、全文を読みとおして見てください。

取りあえず現在進行形で本ブログの文脈上もっとも重要なのが、上記引用の後半に出てきた、“ヴェーダにおける火の犠牲祭を瞑想行として内部化する”という部分です。

これこそが、前回触れた、
バラモン教的な祭祀と、ブッダの瞑想行法が、具体的かつ実践的に『接続』しており、そのキーワードは『祭祀の内部化』である。
という言葉の、真意なのです。

これを説明するには、そもそものヴェーダの祭式の意味と様式に関してから紐解かなければなりません。私はいわゆる専門家ではないので大変大雑把ではありますが、以下に説明してみます。

ヴェーダの宗教とは祭式の宗教であり、火の祭壇を作り、そこにおいて屠殺した犠牲獣を調理(焼身)して、ウドガートリ祭官が詠う賛歌と共に神々に供養(献納)する、という儀式をメイン・イベントとしたものでした。

大きな祭式儀礼には資金を提供する祭主(パトロン)がおり、その祭主の願いをかなえる為に神々に祈り、その神威を奮ってもらうためにこの供儀(献納)が行われました。

しかし、そのような祭式がバラモン絶対教へと変質する過程で、定型化し肥大化し形骸化していく姿をまざまざと見続けた心ある(バラモン自身をも含む)人々の中から、ある『反省』が芽生え始めます。

ひとつには、それは動物の犠牲(生け贄)に関してです。分かりやすく言えば、
「自分の、ある意味“利己的な願い”を叶える為に、赤の他人である動物に苦痛を強いるのはいかがなものか。」
「自分の願いを叶えたいのなら、神に対して自らの赤誠を示すために、自分自身の身体において苦痛を背負いその身を捧げるべきではないのか。」
と言う事です。

実はこのような反省こそが、古代インド的な『苦行』のひとつの重要な起源になったと考えられます。

(この、犠牲獣に対する反省はブッダやマハヴィーラの登場後に、アヒンサー(不殺生)として急速にインド世界に広まり、やがてヒンドゥ教の成立と共にその主要なイデアになり、現代に至るバラモン階級を中心としたヒンドゥの菜食主義やガンディーの非暴力運動などにつながるのですから、インド教と言うものは奥が深いです。
動物を殺しまくる犠牲祭「ヤジュナ」のバラモン教文化、その真っただ中から厳格な不殺生のアヒンサー思想が生まれた。これは捕鯨大国として野生のクジラを殺しまくり、その便宜を図る為に江戸幕府に開国を迫ったアメリカという国があり、しかしそのアメリカ自身の中から、そのような殺戮に対する深い反省が生まれ、後に他の諸国(日本など)を上回る規模で反捕鯨のムーブメントが沸き起こったのと同じような原理かも知れません。その過程でどちらも先住民からのアンチテーゼが深く作用したような気が)

苦行の原語はタパスと言います。これはよく知られたように「火の熱力」あるいはその「燃焼」を意味します。つまり自らの身体を苦しめてその苦痛の業火に焼かれる、そのような内なる火壇によって自らを燃やし、もって神々への供儀として自らを捧げる。その様なプロセスこそが、古代インド的な苦行の真義と言ってもいいでしょう。

ある時期から、自分とは全く関わりない外部世界において動物を殺し、焼き(調理し)神々に捧げる(実際には参会者がそれを食らう!)、などという外面的な行為には、首肯できない満足できない人々(求道者)が現れた、と言う事です。

そのような人々によって、祭式儀礼に対するオルタナティブとして、タパスという内的苦行が『神へとつながるのもうひとつの道』として自然発生的に行われるようになったのでしょう。その発想の過程で、インド亜大陸先住民のプリミティブな伝統文化に触発された可能性は十分に考えられます。

「自分にとって最も可愛い大切な自分自身の身体さえも、犠牲に供して神々に捧げたならば、それが最も気高く効力のある(内なる)祭式になる。」という考えです。

その最たるものは、神々に捧げる為に自らの死を持ってするものであり、これはオリッサ州プーリーのジャガンナート寺院の祭礼である「ラタ・ヤットラ」において、その祭りの山車の車輪の下に我とわが身を投げ出して自死する、という伝統の中にも表れています。

そうすることによって、篤信者たちは神々に言祝がれて天界への再生が約束される、あるいは輪廻からの解脱さえ実現される、と考えたのでしょう。

このような自死を頂点とする内的苦行の伝統は大変古い時代に遡る事が可能で、マハバーラタなどの叙事詩から様々なプラーナ神話に至るまで、その登場人物(神々を含む)が誓願を叶える為に苦行に励む、というシーンが至る所で物語られています。

(ジャイナ教のマハヴィーラによる絶対苦行主義もこの流れを汲むのでしょう)

何かの誓願を成就するために、神々に向かって我とわが身を苦痛の焔で燃やし、供儀として捧げる。これが、外部的に行われるバラモン・ヴェーダの火の供儀祭に対する、内部化された(自己)犠牲祭に他ありません。

当然、悟りを開く前の沙門ゴータマ・シッダールタが苦行に勤しんだのも、この『内なる犠牲祭』として何らかの誓願(苦悩に満ちた輪廻からの解脱?)を果たさんがために行ったと理解すべきでしょう。

このヴェーダ的な外なる祭祀を内部化する、と言う流れは、もうひとつ特筆すべき方向に分化して、やがてそれは“聖音オームの念唱”へと結晶化していきます

これもおそらくは肥大化し煩瑣の極みに向かいつつあったバラモン絶対教に対するアンチテーゼとして生まれたものでしょう。

莫大な資金をバラモン祭官に貢いで、盛大な祭りを多大なる犠牲獣の死と共に執り行う。その過程で歌われる賛歌は、神々のパンテオンと呼ばれるごとく無数の神々に対してそれぞれの内容が当てられ膨大な数にのぼる。

その神学的な解釈と儀軌の規定は煩瑣を究め、このようなどこまでも表面的な外面的な部分だけを飾り立てても、結局その誓願者の“心”と言うものが真摯に神々の前にひれ伏し、専心していなければ、その願いは神々に届く事などないのではないか、という反省です。

そう、外部的な煩瑣で形式的なあり方よりも、むしろあらゆる虚飾を剥ぎとった内面的な心のありようが問題にされたのです。

このような反省は、多神教的な世界観から唯一至上の絶対者ブラフマンが結晶化する過程の中で、何よりもまずバラモン自身の中から生まれたのかもしれません。

ヴェーダの祭式には大きく二つの側面がありました。ひとつは犠牲獣を殺しホーマの火で焼いて神々に捧げる、という供儀祭。これが内面化されたものが身体苦行である『タパス』でした。

そしてもうひとつの側面が、これまで「ヴィーナの喩え」で取り上げてきた賛歌の詠唱奉納です。これはおそらくは犠牲獣を殺し火にくべる、その儀軌プロセスの効果音楽(BGM)として場を盛り上げたのでしょうが、何よりも賛歌の言葉が持つ呪力(ブラフマンの原義)が神々をして動かしめる、という理念がベースになっています。

(餌を与えて徹底的に褒め倒す。それで願いを叶えてくれるのですから、ある意味バラモン教の神々とは、極めて単細胞な存在です(笑)

このような賛歌の詠唱に専心する事それ自体が、前回までに説明したようにひとつの『瞑想実践』の起源となったのですが、その背後には、賛歌の詠唱と言う行為とその経験の中に、外形的な祭祀からの“遊離”と“内的な沈潜”をもたらすような何か(おそらくプラーナヤーマ的なトランス)があったからだと思われます。

そうして、この賛歌という瞑想をそのバブリーで煩瑣な祭式から少しずつ切り離して純化し、あたかもワインを蒸留してブランデーを作るかのようにその賛歌のエッセンスを抽出した、それが聖音オームであり、その念唱であったと考えられます。

(このプロセスもおそらく、多神教のカオス的豊穣世界観が絶対者ブラフマンを掲げた唯一神(Eka)世界観へと収斂していく過程とパラレルに起こったのでしょう)

しかし、ただワインを蒸留しただけでは馥郁たるブランデーにはなりません。その蒸留したエッセンスを樽に留置し熟成しなければ銘酒はできないのです。

インド教の伝統の場合、この樽の中にエッセンスを留置し熟成させるプロセスに該当するものこそが、坐の瞑想法であったと考えられます。

もちろんこれは、以前に紹介したインド先住民に伝わる、インダス文明にまで遡る事が可能な『坐法』に起源すると考えるのが自然でしょう。

聖音オームがひとたびあまたある賛歌の中から分離・抽出されて結晶化すると、それは徐々に外的な祭祀とは切り離されて“内部化“されていった。その内部化の過程でその理想的な樽(容器)となったものこそが、坐法(アーサナ)の形に坐った身体、だったのです。

これは大変アバウトですが、おそらくはブッダの時代の直前ごろには、この外的な祭祀から切り離されて純化され『内面化』された、坐の瞑想としてのオームの念唱、という行法が、かなりの程度確立していたと考えられます。

その流れと軌を同じくして、坐法をとりながら同置や念想を行う瞑想も様々に発展していったと考えられます(ウパース〔念想・同置〕する坐法、これがウパ・ニシャッドの本来の意味か)。

そして実はこのような、
外的な祭祀の賛歌→内部化された瞑想としてのオームの念唱
という流れの次に来るのが、
内部化されたオームの念唱→内的祭祀としてのブッダの瞑想法(アナパナサティ)
という流れだったと考えられるのです。

まず外的な犠牲獣の殺りくなど極めて粗野な要素を多分に持つ祭祀とそこにおける賛歌の詠唱から、純化し蒸留されたエッセンスとして聖音オームが取り出された。

そして聖音オームの念唱が外部的な祭祀と徐々に切り離されつつ、坐の瞑想と結びつき、その中で経験され直感された『境地』が“絶対者ブラフマン”として言語化された。

更にその聖音オームを念唱する坐の瞑想を極限まで純化したもの、それこそがブッダのアナパナサティであった、と言う流れです。

何故なら、賛歌にしろ聖音オームにしろ、その『音声』が生まれいずる源は『呼吸』だからです。聖音オームを含む全ての粗大な音声を捨てて、そのエッセンスである微細な『純粋呼吸』の上に瞑想する。これがブッダの瞑想法=アナパナサティが見出された根拠、だと考えられます。

(その“発見”に至る過程で、沙門シッダールタが経験した『止息の苦行』などが重要な意味を持っていた)

その背後には当然のことながら、ブラフマンとアートマンの同一視や、それらをプラーナあるいは呼吸と重ね合わせる心象が存在していました(アートマンの原義は呼吸)。

ブラフマンとアートマンを同一視するという事は、それ自体、文字通り“ブラフマンの内部化”に他ありません。

外的には聴くことさえできないかすかで微細な呼吸の響きを、身体の芯奥内部で念想(サティ)する事によって、内部化された祭祀のエッセンス、その最奥義(=ブラフマンと言ってもいい)を極める。

ワインの喩えに戻れば、

祭祀における動物供儀を伴った賛歌=不純物だらけの不味いワイン
そのエッセンスである聖音オーム=蒸留ワイン
オームの念唱と共にある坐の瞑想=熟成ブランデー
外側に現れるすべての粗雑な『音声』を捨てたアナパナサティ=精製アルコール

という図式でしょうか。

あるいは、いま巷で流行りの言葉を使えば、ヴェーダの賛歌と言う『瞑想1.0』をオームの念唱へとアップデートし(瞑想2.0)、さらにアップデートした最終形態が、ブッダの瞑想法=アナパナサティ(瞑想3.0)であった、と言う事でしょうか。

もちろん、これら全てにおいて行者(瞑想者)の身体はある種のデバイスとして「神々によって造られた聖なるヴィーナ」の延長線上に“重ね合わされた”。

(その様に考えてはじめて、ヴィーナの喩えの『真義』が理解できる)

だからこそ、彼は「ヴェーダの達人」と呼ばれた。「真のバラモン」と自他ともに称揚された。多くの求道的、革新的バラモン階級たちが、彼ら自身の正統な文脈の中で、ブッダを『真の聖者』と認めたからです。

(ただしこれは、当時の汎インド教的な流れの中に位置づけた場合、の事であり、ブッダ自身が“解脱後に”どう考えていたか、とイコールである保証はない)

何故彼らはそう認めざるを得なかったのか。それは『内部化した祭祀』としての「苦行」と「オームの念唱坐法」という当時の二大潮流を、二つながらに究めて統合し昇華した、更なるアップデート・バージョンこそがブッダの瞑想法だったからです。

坐禅瞑想という『内的祭祀』の精華を実践しブラフマンに至った真のバラモン聖者。これがブッダに対する当時の宗教社会一般の“評価”だったのです。

(ブッダやそのサンガに供養する事は『内的な祭祀』に供養する事を意味するので、それによって在家信者は来世への願いを成就する事が出来る)

ブッダの行法とその境地、そこから生まれるダルマの教えは、ワインの喩えで言えば、酒の中の酒精(スピリット)、アルコールの極み、と言うところでしょうか。

ただ惜しむらくは余りにも純度が高過ぎて、いわゆる『雑味的な旨味』に欠けたのでしょう。ブッダの死後その実践的な『真義(サッダルマ)』は急速に見失われていき、どうでも良いような後付けの煩瑣な“論学”ばかりが肥大化していきます。

これはある意味、仏教サンガの比丘たちが、煩瑣な論学(神学)を独占的に弄ぶ『バラモン祭官(官僚)化』していく、先祖がえりとも言えるでしょう。

一方で、やがてブッダの瞑想実践の主要部分が少なからず簒奪されて、ヒンドゥ教主流派の自家薬籠中のものとなっていき、その果てにサーンキャ・ヨーガ的な瞑想行法が確立しました(この部分はいずれ詳述します)。

その様に見て行くと、パーリ・テーラワーダの瞑想実践と、ヒンドゥ・サーンキャ・ヨーガの瞑想実践は、ヴェーダの達人であり真のバラモンであり真の聖者であるゴータマ・ブッダの流れを直接パラレルに引き継いだ、非常に近しい兄弟だとも言えるでしょう。

(しかし両者の間にはどこまでも深く渡り難い溝が存在していた。とても根深いある種の近親憎悪でしょう。それこそがいわゆる『アートマン論争』であり、世俗的にはカースト制に対する是非でした)

そして、パーリ・テーラワーダの実践行法とサーンキャ・ヨーガの実践行法から、後世の付加部分や余計な雑音を捨象(フィルタリング)して統合すると、限りなくブッダ・オリジナルの瞑想行法に近いものが復元できる、と私は考えています。

余りにも様々な要素が輻輳しているため雑駁な内容になってしまいましたが、以上が概略、私が現在までに到達した大局的かつ実践的な仏教理解のベースとなる“古代インドの瞑想史観”の流れです。

もちろんこのような観点に到達した背後には、膨大な質量のデータと相応の経験、さらにそれらをひっくるめた考察があるのですが、その全てを今回一度の投稿で詳述する事は到底不可能です。

ここから先、おそらくは瞑想実践についての具体的な記述に際して、このような瞑想史観的視点にしばしば言及し、その際に個別の考察・論述がなされるはずです。

〜次回に続く。



本ブログの記事は、連載シリーズになっています。
単独の記事を読んだだけでは何一つ理解できないので、
シリーズの第一回から遡って読む事をお勧めします。

この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
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書かなければならない事があまりにも複雑多岐にわたり、かつ輻輳しているので(それゆえにタイトルの付け方が悩ましい)中々簡潔にまとめられないのですが、取りあえずキリのいい所から、いままでの流れをまとめてみます。

まず最初に私は、瞑想実践の科学 40 mukhaの周りにsati の投稿で、パーリ経典における数少ない実践的な瞑想ガイダンスの中で、最も重要なフレーズとして、

parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvāMaha Satipatthana Sutta
顔の周りに思念をとどめて(春秋社:原始仏典Ⅱ)
fixes his awareness in the area around the mouth(ゴエンカジー)

に注目し、その最重要ワードとしてParimukham(顔、口の周りに)を取り出し、様々な考察を試みました。

次に、瞑想実践の科学 41 “mukha”の心象風景と「牛の中で、そのParimukhamのコアとなるMukhaというパーリ単語について、その意味を紐とき、さらにその語源にまで遡って考察しました。

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Mukha (nt.) [Vedic mukha, fr. Idg. *mu, onomat., cp. Lat. mu facere, Gr. muka /omai , Mhg. mūgen, Lat. mūgio to moo (of cows), to make the sound "moo";

これを私のできる範囲でたいへん大雑把に意訳すると、
『ヴェーダのmukhaと同義。mu(ムー)というonomat(擬声語)に由来。
ラテン語やギリシャ語などにもこのmuを有する同義語がある。
その語源は牛がモーと啼く、その音声に由来する。』
となります。
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Mukhaという単語のMuの原像とは牛が「モ〜」となくその擬声語であり、Khaとは空処・空間を意味する。その二つを合わせた「牛がモーと啼く、その音声が発せられる空処」がMukhaという単語のそもそもの原像でした。

そう、ブッダの瞑想法において、特にアナパナサティにおいて、その呼吸に対する気づきのポイントとして唯一明示されている“Mukhaの周り”、というそのMukhaとは、そのそもそもの語源・語義において、牛がモーと鳴く、つまり“発声する器官”であった訳です。

これは現代人である私たちにもある種自明の真実です。口(及び補助的に鼻)というものは、「目は口ほどにものを言う」という諺にあるように、モノ申す、つまり発声し発話する、話したり歌ったりする器官なのです。

次に私は、瞑想実践の科学 42 mukha “kha”が意味するもの の中で、Mukhaの“Kha”が意味する所を語義に遡って考察しました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
“kha”の意味
a cavity,
1.空洞、うろ
2.[解剖学] 腔(こう)
mouth cavity で口腔を意味する。その他、鼻腔・耳腔・体腔など。
hollow,
1.うつろの、中空の
a hollow tube で中空のチューブを意味する。
cave, cavern,
1.洞穴(ほらあな)、洞窟。
aperture,
1.開き口、穴、隙間、窓
ラテン語で“an opening”(開口部)の意味。
aperture of the human body (of which there are nine, the mouth, the two ears, the two eyes, the two nostrils, and the organ of excretion and generation)
人間の身体に空いた穴、戸口、開口部。ヴェーダ・ウパニシャッド時代以来、伝統的に口腔、両耳腔、両眼窩、両鼻腔、排泄腔(肛門)、生殖腔(尿道・膣腔)の九つの穴をもって、nava dvara、つまり『身体の九つの門戸』と言い慣わしてきた。
hence an organ of sense
よって、そこより情報や物質が出入り(感受)する、感覚器官(の穴・開口部:戸口)を意味する。
in anatomy : glottis
解剖学では、声門(Glottis)を意味する。
glottisの原意はギリシャ語の舌。発声・発話に関わる器官
the hole made by an arrow, wound,
矢が刺さった穴、それによってできた傷口。
the hole in the nave of wheel through which the axis runs,
車輪のハブの中心に空いた軸穴。そこに車軸が貫入する事によって車輪の回転運動を支える穴(空処)。
empty space
何もない空間、空処、虚空。ヴェーダでいうアーカーシャ(Akasha)
air
空気、大気、風。
sky
空(そら)、天空。ヴェーダでいうアーカーシャ(Akasha)
heaven
天界。
Brahma(the Supreme spirit)
ブラフマン、超越者、真我(アートマン)と対応する大我、大宇宙の根本原理。
happiness (a meaning derived from su-kha and duh-kha)
幸福。スカやドゥッカに由来する意味。
a fountain, well,
噴水、井戸。大地より水の湧き出る穴。これは人体の各門戸が涙・鼻水・唾液・尿・精液などの水を排出する事にも重なる。

以上の意味・項目を、文字通り穴の空くほど(笑)見つめて、眼光紙背に徹するように熟読してみてください。

この“Kha”という言葉が、いかにインド学・仏教学の“核心”をついた言葉であるかを、まざまざと戦慄を禁じ得ないほどに、体感していただけたら、いいのですが。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今回改めて読んでみても、正にこのKhaという言葉の中に、あらゆるインド思想の核心が包含されている事実を前に、率直に私は戦慄を禁じ得ません。

次に私は、Mukha(口)を大きく開けて牛がモ〜と鳴いているリアルな姿をYoutubeに探し求め(瞑想実践の科学 44 “Mukha”という言葉の原像)、その“全身体性”とでもいうものに着目し、その身体を“一本の共鳴管”として把握しました。

そして同じように一本の共鳴管であるトランペットのような管楽器(チベットのラグドゥン)をイメージし、「では牛がモーと鳴く時のその“音源”はどこか?」という視点から“声門”の重要さに思いをはせました。


牛がその身体を一本の共鳴管の様にして啼く姿
その音源はもちろん“声帯(声門)”である

そして、声門を音源としその音声を共鳴させていく管楽器としての身体、と言う視点から、唐突に想起されたのが、有名な「箜篌の喩え」でした。

一般にこの箜篌、すなわち楽器ヴィーナの喩えは、その弦の張り具合について「きつ過ぎず緩み過ぎず、中ほどがよい」「仏道修行もそのように励み過ぎず怠け過ぎず中ほどがよい」などという様に理解されがちですが、私は『直感的に』これに対して異を唱えました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

通常、このヴィーナの喩えについて解説される時、“一般論として”、「修行というものは一生懸命テンぱってやりすぎても駄目だし、気が緩んで怠惰に堕ちてしまっても駄目で、ちょうどヴィーナの弦の様に適度な『張り』の中でバランスを保って進めなければいけないんだよ」という“中道”のお説教として、ある種の“人生訓話”の様に理解されるのが、謂わば常道になっています。

もちろん私も、その様な意味を全否定するのではないのですが、しかし、もしブッダがこの教えを説いた時にこの「修行」というものの核心として『瞑想行法』というものを念頭においていたならば、どうなるでしょう。

そして、その瞑想行法の実態としてアナパナ・サティを念頭に置き、さらにそのアナパナ・サティにおいて観ぜられる『身体』というものが、一本の“空処”すなわち“Kha”であり“胴”であり共鳴器である事実を念頭において、その上でこのヴィーナの喩えを語っていたとしたらどうなるでしょうか。

それは、単なる一般論としての「バランスのとれた中道としての修行生活」などではなく、『具体的な瞑想修行の要諦としてのガイダンス』ではなかったか、という可能性です。

〜〜〜〜中略〜〜〜〜

ヴィーナの喩えにおいて、具体的にはその弦の張りに焦点が当てられた。ブッダがもし仮にこのヴィーナという楽器が持つ共鳴器(胴)の空処性を身体における空処性と重ね合わせる心象を持っていたならば、前述したように、身体において『弦』に相当する音源部位・器官は、『声帯』以外にはありません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そう、この「箜篌の喩え」において、弦の張り具合についてブッダが喩え話を用いた、その真意の焦点は、ヴィーナにおける音源である弦と、同じ様に身体において音源となる声帯、この両者の重ね合わせにこそ意味があったのではないのか、という視点でした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
parimukhaṃ  satiṃ  upaṭṭhapetvā
“Mukha”の周りに、思念(サティ)を、とどめて
という文脈においてparimukhaṃと言う時、それは「牛がモ〜(Muu)と啼くその音源となるところのKha,すなわち“声門(声帯)”のまわりを意味し、その全文では、“声門(声帯)”のまわりに気づき(サティ)を留めて、と読む事も充分に可能である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この部分、現在の視点からはこう言いかえることもできるでしょう。

『声帯を起点とした“発声器官”としての“Mukha”に気付きをとどめて』と。

そして次に私は、瞑想実践の科学 47 箜篌の喩えと“チューニング において、ヴィーナにおける発声(発音)の“音源”である弦の、その“チューニング”という観点から論じました。

箜篌の喩えを通じてブッダが言いたかった事は、ヴィーナなどの楽器演奏において大前提であり生命線ともいえる“チューニング”の大切さについてであった。

そのヴィーナにおけるチューニング(調弦)の重要性とその要諦を、何よりもまず第一に“瞑想修行”における実践的な“勘どころ”として、喩え話に託して、ブッダはソーナ比丘に説いたのである、と。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
"What do you think about this, Sona ? When the strings of your lute were neither too taut nor too slack, but were keyed to an even pitch^,
was your lute at that time tuneful and fit for playing ?"
‘‘Taṃ kiṃ mannasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo neva accāyatā honti nātisithilā, same guṇe patiṭṭhitā,
api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti, kammannā vā’’ti?
「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、緩やかすぎてもいないで、
平等な(正しい)度合いを保っているならば、そのとき琴は音声にこころよく妙なるひびきを発するであろうか?」
"Even so, Sona, does too much output of energy conduce
to restlessness, [182] does too feeble energy conduce to slothfulness."
‘‘Evameva kho, soṇa, accāraddhavīriyaṃ uddhaccāya saṃvattati,
atilīnavīriyaṃ kosajjāya saṃvattati.
「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、こころが昂ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる。

Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties^ and reflect upon it."
Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti. 
「それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。
もろもろの器官平等なありさまに達せよ。」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ここで中村先生が「努力」と訳してしまっている vīriya が英語では端的に“Energy”になっている。この「努力」という訳こそが通俗的な一般論へと堕する道であり、英語の“エナジー”こそが、ブッダの真意を照射する鍵となるのです。

今見ても、上記引用した「箜篌の喩え」のパーリ原文には、これでもか、と言うほどにブッダの瞑想実践において重要な意味を持つキーワードがせめぎ合っています。

same guṇe saravatīkammannā 、vīriyaṃ 、indriyā 、samataṃ 、nimittaṃ 、などなど。これらの用語については、また次回以降に改めて考察する予定です。

取りあえず今回は、saravatī、という単語について、前回記事 51 ウドガートリ祭官の「瞑想」と“発声器官”  と今回をつなげるキーワードとして、考察を進めましょう。

このsaravatī という単語、中村先生は「音声にこころよく」と訳し、英訳は“Tuneful”となっていますが、その真意とは一体何だったでしょうか?
前回記事の最後に私は以下のように書いています。

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その(バラモン祭祀における賛歌と言う)『瞑想』の「核心」にあったのは、神々について一心に『想う』(それは歌詞の内容でもある)と同時に、意識と無意識の境界領域において自らの『発声器官』のコントロールに『専念』しつつ賛歌を歌いあげる、そんな心的状態だった。

そして、その『瞑想』という言葉の前段にある「ヴィーナである人の身体を知り、その上に」、という文脈は、直接的に、発声器官としての身体の仕組みを知悉し、それを緻密にコントロールする事を意味している。

(その「緻密なコントロール」こそが、正に「チューニング」に他ならない!)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「ヴィーナである人の身体を知り」、と言う事は発声器官である自分の身体の仕組みを知悉する事であり、「その上に瞑想する」ということは、その発声器官を緻密にコントロールし専念して賛歌を歌い上げる、事を意味する。

そしてそのように精密に調御(コントロール=チューニング)された歌声のあり様こそが、saravatī であり、「こころよい音声」であり、Tunefulという言葉が具体的に意味する事なのです。

この賛歌の詠唱における“Saravatī”に関するある種異常なまでのこだわりは、例えば古ウパニシャッドの中などにも明確に表れています(前回ざっと見て言及したものを改めて引用)。

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チャーンドーギャ・ウパニシャッド 第二章 第22節

1.「旋律を家畜の吼え声〔のように唱える事〕を私は選ぶ」とは、アグニ神のウドギータ〔の場合の事〕である。
プラジャー・パティの〔ウドギータの場合は〕音節の発音を不明瞭にし、ソーマの〔場合は〕明瞭に発音する。
ヴァーユ神のは柔らかく穏やかにし、インドラ神のは穏やかではあるが力強く〔唱える〕。
ブリハス・パティのは鴫の鳴き声に似せ、ヴァルナ神のは調子はずれな〔声で唱える〕。
これらすべての〔唱え方〕を練習せよ。

5.「インドラ神に力を贈ろう」と〔考えて〕、全ての母音は声帯を震わせて力強く発音されねばならぬ。
「プラジャー・パティに一身を委ねよう」と〔考えて〕、すべてのウーシュマン音は音を濁したり省略したりすることなく、明瞭に発音されなければならぬ。
「死の神を避けよう」と〔考えて〕、すべての閉塞音は〔空気を声帯に〕僅かに接触させて発音されねばならぬ。

〜以上、「原典訳ウパニシャッド」岩本裕訳、ちくま学芸文庫 P55~57より引用
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このチャーンドーギャ・ウパニシャッド、ブッダ以前の古ウパニシャッド文献としてブリハド・アーラニヤカと並んで有名であり、古代インド思想がいわゆる『哲学的思索』へと展開する、その最初期のありようを示しています。

しかし、私も今回再読してみて改めて驚いているのですが、その内容の半分以上が、いわゆるブラフマンをテーマとした哲学的思索ではなく、もっぱら祭祀のやり方やその祭祀におけるウドギータの『歌い方』にまつわる事柄について語っています。

その歌い方、とは、それぞれの言葉や音節が持つ神学的な意味付けに依って立つ、それら発声の仕方、発音の仕方であり、そこには、そのような諸要素を自然界の諸要素・諸現象と相互に重ね合わせるところの、いわゆる『念想(ウパース)』や『同置』という心象が横溢しています。

このような極めて特殊インド的な世界観。これはおそらく紀元前7〜800年ごろからブッダの時代前後にかけての(当時最先端の)バラモン教のひとつのありようを、リアルに反映しているものだと思われます。

ここで、まず上記引用で注目すべきは、赤字でハイライトしたように、明確に『声帯』という『器官』に言及している事です。これは英訳を見ると直接『声帯』という訳は見当たらず『発声器官』的な訳になったりするのですが、岩本裕氏が敢えて『声帯』という訳語を用いたのにはそれ相応の理由があったのでしょう。

(いろいろと探したのですが、サンスクリット原語は発見できませんでした)

私としても、この訳出には大いに賛成できます。これだけ賛歌の音や音節、単語の厳密な意味、そして様々な同置、それらを踏まえた発声法、と言うものに「神学的な」意義を見出していた古代インドのバラモンたちが、そのような『音声』の依って来る『音源』である『声帯』あるいは『声門』の存在について、全くあずかり知らぬ状態にあったとはとても思えないからです。

(ちなみに古代インドにおいて高度に発展した文法学的言語学、及びその基礎となった音韻論・音声学の起源とは、正にこの祭祀における賛歌という実践的な関心に根差すものであり、このような伝統が一方では、ヒンドゥ・ヨーガにおける『プラーナヤーマ』の起源ともなったのです。)

そしてこのような声帯を起点とした全発声器官(喉、口蓋、舌、歯、唇、それらにまつわる諸筋肉)の仕組みを熟知し、精密にコントロール(調節=チューニング)して、(神学的な意味づけを十分に踏まえた上で)理想的な音声を発し賛歌を歌い上げる事、それこそが、前述したアイタレーヤ・アーラニヤカの、

『神々によって造られたヴィーナである人の身体を知り、その上に瞑想する』

事であり、だからこそその後段の、

『(そのメロディである音声=賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。』

という言葉が、実践的な意味を持つ訳です。

そして、ゴータマブッダが『箜篌の喩え』において語った「音声にこころよい妙なる響き」であり、Tunefulであるところの、パーリ原語“Saravatī ”が意味するものこそが、そのような徹底的なこだわりの上に絶妙に制御された賛歌のメロディ(発声)であった、と考えるべきなのです。

言い方を変えれば、ブッダがソーナ比丘に対して「箜篌の喩え」を用いて修行の要諦を説き聞かせた時、彼らの念頭にあったのはこれらバラモン祭祀における『瞑想実践としての賛歌』のありようのディテールそのものである、と言う事です。

だからこそ、ソーナ比丘は、ブッダの教えに多大なる啓発を受けて、その後悟りを開く事が出来た、すなわち、瞑想実践においてニッバーナに到達する事が出来たのです。

何故なら、賛歌と言うバラモン教的な『瞑想実践』に対するオルタナティブとして提示されたのが『ブッダの瞑想法』であり賛歌のデバイスである(ヴィーナとしての)ウドガートリ祭官の身体』『瞑想のデバイスである(ヴィーナとしての)比丘サマナの身体』と、完全に対置されていたからです。

私たちはそのような『対置構造』を前提にして初めて、「箜篌の喩え」の真意をソーナ比丘と同じ地平で、理解することが出来るでしょう。

もちろんここで、「やっぱりヴィーナの喩えは単なる楽器の喩えであって、祭祀や賛歌の詠唱などとは全然関係ないんじゃないか」という疑問は当然考えられます。

そんなに理屈をこねくり回して事態をより複雑化して考えるのではなくて、ごく普通に当り前に素直に受け止めれば、これまで通りの「中ほどが丁度いい」という理解で問題ないじゃないか、という訳です。

古代インドにおける祭祀の重要性やそのディテールについて、私たち現代(日本)人はほとんど知りませんから、ある意味、一般論としてはその反論は正しいようにも見えます。

しかし、現代日本に生きる私たちと古代インド人とでは、その「普通」の次元がまったく違う。さらに加えて、出家のサマナという人々は度を超えて「普通」ではなかったのです。

私たちはまず第一に、彼らゴータマ・ブッダやその出家弟子たちと言う人々が何を考えていたか、その心象風景に心をはせ、彼らにとっての「普通」がどのようなものであったのか、と言う事に、想像力の限りを尽くして、肉薄しなければなりません。

そうすることによってはじめて、バラモン教的な祭祀と、ブッダの瞑想行法が、具体的かつ実践的に『接続』していた『事実』が、自ずから明らかになるでしょう。

キーワードは『祭祀の内部化』です。

〜次回に続く。


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<今回より、「瞑想実践の科学」という統一タイトルを省略し、ナンバーだけをタイトル冒頭にふります>

だいぶ寄り道をしてしまって、さてどこから書き始めればいいのか、一瞬途方に暮れてしまう状態ですが、取りあえず今回は最も根源的なテーマから考えてみたいと思います。

最も素朴な疑問、それは、そもそもインドにおいて『瞑想』という時、その名称と営為はどこに起源するのか、という問題です。

これはコメント欄でavaroさんとも少し話したのですが、インダス文明の遺跡で発見された印章の彫刻に、ヨーガ行者が坐って瞑想している様な姿があり、これこそがその起源ではないか、と言われています

イメージ 1
インダスの印章に見る瞑想するヨーギの坐相

そこに、確かな文献的データがある訳ではありません。インダス文明には一般に文字であろうと考えられるいくつもの図形の羅列が発見されていますが、その意味内容は未だ解読されてはいないのです。

ですから、上の絵柄を見た上での第一印象として、多くの学者が同意している仮説として、これは瞑想するヨーギの原初形態であろう、と言われているのです。

確かに、中央に坐っている人物はある種特殊な坐相をとっています。床に広げた敷物(台座?)の上に坐って、その両膝が大きく左右に開展し、両足先は中央部で特殊な重ね方で揃えてある。それら脚全体がピッタリと水平に床に着けられている。

これは単なる胡坐すわりなどではなく、現代ヨーガにおける様々な坐相(アーサナ)の理想形をよく表しています。その理想形の坐において両の腕を伸ばして両膝に置いている(掌は下向きでしょうか)。これもヨーガで見られるポーズに類似しています。

さらに注意していくと、股間には上を向いたペニスが描かれているようにも見えます。この事はシヴァ神を象徴するリンガ(男根)を想起させます。

全身には様々な装飾の模様が見られ、腕輪らしきものも確認できます。頭上には動物の角をあしらった兜のようなかぶり物があり、特筆すべきはやや非人間的な印象を与える顔面部が、見ようによっては正面と左右の合わせて三面像とも受け止められる造形をもっている事です。

さらに坐っている彼の周囲を取り巻くようにして、象、牛(水牛?)、サイ、トラ(ライオン?)などインド世界を象徴する様な動物が並べられ、この事から彼はパシュパティナート(獣類の王)であるシヴァ神の原初形態ではないか、と考えられています。

つまり、獣類の王でありリンガ(ペニス)の神であるシヴァ神の原像が、動物たちに囲まれておそらくは森で、坐の瞑想にいそしんでいるのではないか、というのがひとつの仮説なのです。

坐像の頭上には六つの文字が刻まれていますが、解読できないのでインダス人が何と呼んでいたのかは分かりません。そしてそれが本当に神像なのか、さらには彼が瞑想しているのか、などは全て想像の域を出てはいません。

しかし、この極めて印象的な古代インダス文明の坐像は、やはり第一感明らかに瞑想行者のイメージを喚起させる様な、ある種の“神気”を漂わせているという感触は、多くの方が同意していただけるのではないかと思います。

ここでひとつの仮説が立てられる訳です。インド人の瞑想実践の起源のひとつは、間違いなくインド・アーリア人が侵入する以前、先住のインダス文明の時代に遡り、その実践内容は定かではないけれど、それは明確に『坐の瞑想法』だった。

さらに想像力を逞しくすれば、この坐の瞑想法は、彼らの生活の中で、とても重要な意味を担っていた。

もともとシヴァ神の神名はアーリア・ヴェーダのルドラであったようです。このインドの神の名前の遷移やそのヴァリエーションについてはあまりにも煩雑すぎて本ブログでは取り扱いませんが、この坐の瞑想にふけるインダスの神、その原イメージとヴェーダのルドラ神のイメージが重なりあい、最終的に吉祥を意味する「シヴァ」に落ち着いたようです。

その根拠として、シヴァ神自身として常に寺院に祀られるリンガ信仰の起源が、インダス文明にまで遡れる事が指摘されています。

獣類に囲まれる坐像としての神と並行するリンガ信仰。これらインダス文明に起源する宗教的心象が、やがてアーリア・ヴェーダの文化によって様々な形で触発・脚色されて、シヴァと言う神格が誕生した、という流れです。

インドにおける瞑想実践の起源のひとつは、ほぼ間違いなく、このインダスの遺物に見られる「坐の瞑想」にあると考えていいかと私も思います(実際にはあまりにも証拠がなさすぎるので、想像の域をでない、と言われても反論は難しい)。

これを踏まえた上で、以下の考察に進みます。

先に私は、“ヴィーナである身体”、の上に瞑想する者はの中で、こう書きました。


宗教としてのバラモン教の本質は祭祀である。バラモン教を精査することにより、釈尊が出現した紀元前5,6世紀頃の古代インドの自由思想家たちの宗教、思想を浮き彫りにし、その変遷を知ることができる。
 インドにおける哲学的萌芽はインド最古の文献群であるヴェーダ(veda)によって認められる。ヴェーダは宗教的知識であり、転じてバラモン教の聖典の意味となった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

祭祀を本質とするヴェーダ・バラモン教と言うものがあり、その聖典のひとつ、アイタレーヤ・アーラニヤカに書かれたヴィーナと身体との重ね合わせに言及しました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

archive.orgさん:「The Upanishad by Müller, F. Max 1879」P263〜からの抜粋・引用

6. He who knows this lute made by the Devas(and meditates on it), is willingly listened to, his glory fills the earth, and wherever they speak Aryan languages, there they know him.

神々によって造られたヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者、そのメロディである音声(賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼自身を知るだろう。

〜〜以上、引用終わり。日本語は筆者の意訳〜〜

ここでは『ヴィーナとしての身体の上に瞑想する』という概念が明示されています。そこにおける『瞑想』とは、実践的には身体と言うヴィーナによって賛歌と言うメロディ(音楽)を奏でることだと考えられます。

それは続く、賛歌の精髄としての“聖音オーム”と瞑想実践の中で、上記アイタレーヤ・アーラニヤカについての解読と共に“急所の一手”と表現しておきました。

では、ここで言う『瞑想(Meditate)』とは、より具体的には何を意味していたのでしょうか。それはインダスの坐神がしていたであろう『瞑想』とどのような関係にあるのでしょう。さらにブッダ自身の瞑想法と、一体どのように“連接”しているのでしょうか。

最初に先ず、『瞑想』というインド語の原義について考えてみます。インド諸語には瞑想を意味する単語が結構たくさんある様なので、端的に私たちが仏教とかヨーガとかいう文脈においてもっとも親しんでいる“Dhyāna”という言葉を取り上げて考えてみましょう。

この“Dhyāna”、サンスクリット辞書で引くと以下のようになります。

ध्यान [ध्यै-भावे-ल्युट्] 1 Meditation, reflection, thought; contemplation; ज्ञानाद् ध्यानं विशिष्यते Bg.12.12; Ms.1.12; 6.72. -2 Especially, abstract contemplation, religious meditation; तदैव ध्यानादवगतो$स्मि Ś.7; ध्यानस्तिमितलोचनः R.1.73. -3 Divine intuition or discernment. -4 Mental representation of the personal attributes of a deity; इति ध्यानम्. -Comp. -गम्या a. attainable by meditation only; योगिभिर्ध्यानगम्यम् Viṣṇustotra. -तत्पर, -निष्ठ, -पर a. lost in thought, absorbed in meditation, contemplative. -धिष्ण्य a. suitable for ध्यान; रूपं चेदं पौरुषं ध्यानधिष्ण्यम् Bhāg.1.3.28. -मात्रम् mere thought or reflection. -मुद्रा a prescribed attitude in which to meditate on a deity. -योगः profound meditation. -स्थ a. absorbed in meditation; lost in thought.

まず最初に並べられた4つの英語をMeditationを最後にして、Google翻訳で人の心の働きの中から見ていきましょう。

Reflexion;
反省、自省、省察、思案、映像、回想、など。

Thought;
思想、考え、思考、思案、思惟、了見、思い、想い、意、念、想、など。

Contemplation
沈思、黙考、冥想、嘱望、反省、など。

Meditation
瞑想、思索、思案、冥想、反省、黙考、潜心、沈思、など。

このように見てくると、このDhyanaという単語の基本的な概念がおよそ分かってきます。それは考えたり、思案したり、反省したり、思ったり、想ったり、念じたり。

日本人が伝統的に尊んできた『無念無想』あるいは『無心の境地』というイメージからは、いささか、あるいは大いに隔たりがある、ことが知られます。

その他、色々な書物を見ても、このディヤーナというインド語のそもそもの原風景は『考える』こと、『想う』こと、であったのは間違いないようです。

これは『瞑想(Meditation)』を意味する他のインド語を見ても、その多くが、最も基本的な原像として『考える』こと、『想う』こと、『念ずる』こと、という意味を持っていることからも裏付けられます。(サンスクリット辞書:Meditate)

実際に英語版WikiでMeditationを見てみると、そもそもの英語のMeditationという言葉自体その原意は、

The English meditation is derived from the Latin meditatio, from a verb meditari, meaning "to think, contemplate, devise, ponder".

とある様に、どうやら瞑想の原語であるDhyanaは、無心の境地に遊ぶ、という様なものではなく、何かを徹底的に想い、思い、念じ、考える、と言う意味だった事が分かります。

もちろん、この言葉が宗教的な文脈で用いられる場合は、ごく日常的なもの思いや雑念妄想、というレベルでの想念や思考ではなく、ある対象に集中し一本化した、非日常的な『純化された思念』とも呼ぶべきものなのでしょう。

そしてこの原意としての瞑想こそが、上述のアーラニヤカ・アイタレーヤにおいて言及されていた、『ヴィーナとしての身体の上に瞑想する』、という時の実態ではなかったか、と考えられるのです。

このヴィーナとしての身体と言うのは、つまりヴェーダの聖句を歌い上げる、サーマンを詠唱するウドガートリ祭官の身体ですから、その身体において、何かを思い、念じ、ひたすらに考える。当然頭も身体の一部です(ヴィーナが頭をもつように)。

そしてこのヴェーダの詠唱とは、何よりもまず第一に、その聖なるヴェーダ詩節のテーマとなる神々に捧げられるのだから、当然ながら、その対象たる神々について、その性質や力や姿などを、ひたすらに『想い』、『思い』、『念じ』、イメージする、と言う事が考えられます。

これは心のスクリーンに様々な形で『神』というイメージ属性を、“コンテンツ”として保持(投影=リフレクト)し続ける、と言ってもいいでしょう。

第二には、ヴィーナとしての身体の上に、と言う但し書きがある以上、そのヴィーナである身体について、そのヴィーナの演奏について、ひたすらに思い、想い、念じ、考える、と言う事が想定できます。

ヴィーナについて、その演奏について考える。それはもちろん演奏しながら、つまり身体によってサーマン(賛歌)を歌いながら、その歌い、と言う行為のプロセスに関して、ひたすらに集中して考える、想う、念ずる、あるいは『専念する』と言う事になります。

楽器の演奏と言う行為において、例えば熟練のギタリストはもちろん演奏するという行為プロセスに集中して専念しています。五感六感の全てを研ぎ澄ませて、そのプロセスの全てを統御しつつ名演奏を完遂します。

けれどこのようないわゆる『達人・名人』的な技量・行為の最中においては、その演者は、全ての状況を意識の上で把握しつつも、その状況は常に瞬間瞬間にとてつもないスピードで転変しているが故に、決して一か所に留まる事のない流動性の中で、ある種の『無心』の状態になります。

これはベテランド・ライバーが車の運転をしている時の事を想定すればよく分かります。彼は瞬間瞬間の全ての状況を把握し、即応しながら、しかしあーだこーだと運転について考えている訳ではない。そこには静かな無心が現成しています。

ここで、いわゆる『無意識』の領域では超スピードであらゆる情報処理と判断、つまり『思考』が行われているはずなのですが、表在意識はそのような『潜在思考』の上で無心に遊んでいる。ある種不思議な状態です。

このような熟練者の楽器演奏などで見られる、無意識的な『思考』の上に遊ぶ『無心』状態。これが想定される第二のDhyanaの心象イメージです。

この第二のディヤーナを、サーマン賛歌を歌い上げるウドガートリ祭官の、祭祀におけるフォーカシング・ポイント、という視点から更に深めていきます。

古代インドにおいて祭祀と言うのは、神聖でありかつ絶対的な意味と権威を持っているものでした。それは基本的に祭祀において歌われるその言葉の力によって、神々を動かし、祭主(お金を出すパトロン)の願いを実現させよう、と働き掛けるものだったのです。

しかし司祭を初めその場に立ち会う祭主や聴衆には、実際に神々の姿が見え、その声が聞こえる訳ではありません。例え古代インドとは言え、神がその姿と共にリアルに降臨する事は決してないのです(そうですよね?)。

では人々は何をもって祭主の願いが神々によって聴き届けられた、そう判断できたのでしょうか?この点はとても面白いところです。

結局祭場には人間しかいないのですから、彼ら自身が五感六感を総動員して、何らかの変化の兆し、とでも言うものを察知して、神々に我々の声が届いたのだ、と判断するより他にない訳です。

その『変化』、あるいは『成就の兆し』とは何であったか。例えば祭式の進行に伴って雲が出たり雨が降ったり、晴れあがっていったりという空模様の変化。あるいはヤジュナの祭壇におけるアグニ、つまり炎の揺らめきの変化や煙の動き。鳥の鳴き声、風鳴りの音、気温の変化、などなど、環境世界における様々な変化が神意の兆しとして捉えられた事でしょう。

けれども、これは極めて私的な視点なのかもしれませんが、結局のところ祭祀におけるサーマン賛歌の詠唱とは、現代的に言えば歌姫ならぬ歌王?(祭官は男です)による『詠唱コンサート』に他ならない訳ですから、そこにおいて判断の基準になるのは、“どれだけ聴衆たちが、ウドガートリ祭官の歌声に魅了されて感動したか”と言う事こそが、神々に願いが届いたかどうか、という判断の根拠になったのではないか、と考えられるのです。

それをより具体的に言うならば、例えばちょっと古いですが「耳なし芳一」の話で、彼が壇ノ浦の決戦の物語を琵琶と共に弾き語る時、聴衆はその心象の中にまざまざとまるでその現場に臨場しているかの如くに、壇ノ浦の海鳴りや源平の侍たちの雄たけびをありありと聴き、その風景や姿を眼に浮かべ、血しぶきの散るさまやその匂いさえもかぐ事が出来たかも知れない。

それと同じ事が、古代インドのヴェーダの祭式においても起こっていたという事です。その祭場において、聴衆を魅了するのはヴィーナの伴奏を従えたウドガートリ祭官の詠唱に他ありません。

それは耳なし法一の場合と同じように『ものがたり』であると同時に、それ以上に『イメージ歌劇』であった、と考えられます。

聴衆、特に祭主の心を完全に魅了しその支配下に取り込んで、彼の心の中に神々の姿や声をまざまざと生起させなければ、その祭祀の誓願は成就されたとは受け止められません。

特にブッダの時代前後のバラモン教全盛の時代には、バラモン祭官の祭祀の効力は神々の力をも凌ぐ、と言う、いわゆるバラモン絶対教が幅を利かせていたのですから、その説得力(洗脳力?)は並々ならぬものがあったはずです。

分かりやすく言えば、しょぼいコンサートだったら、誰もそんな事は信じない訳です。

だからバラモン祭官たちは如何にして聴衆たちを、その心を魅了し虜にするかという『歌唱力』さらには『演出力』を、徹底的に磨き上げていった事でしょう。

(このあたりの事柄は、すでに以前 瞑想実践の科学 45 『声門』という新たな焦点 の中で若干触れています)

その証拠が、古代インドにおいて高度な発達を見た『音韻論』です。

これは単なる知識としての学問などではなく、上記のような詠唱シンガー&パフォーマーとしてのバラモン祭官たちの必要に迫られた、つまり『歌唱』という行為と完全に結びついた“実践の科学”として、発達したと考えるべきなのです。

では、そのような詠唱コンサートにおけるヴォーカル(声楽)とその基盤となる音韻論的科学、それらの核になるものとは一体何だったでしょうか?

それこそが、私の考えるところでは、“声帯を中心とした発声器官”の『トータルかつ精緻なコントロール』に他ありません。

先に紹介した「アイタレーヤ・アーラニヤカ」引用部分の前後には極めて面白い内容が並んでいます。

煩雑になるので原文は載せませんが、そこには子音、母音、歯擦音などの専門用語を、その発声の呼吸法と共に様々な事物に重ね合わせて想起もしくは念想(Represent)する、というフレーズが並んでいます。

このような音韻論的な極めてマニアックな事柄を祭祀や瞑想、あるいは宗教的な探求において深く重ね合わせて論ずるという特性は、ウパニシャッドにおいても顕著に認められ、いまざっと見たところ、ウーシュマン音とか閉塞音とか、素人には何のことやら分からない類のものが羅列されています。

もちろんこのような音韻論と言うものはダイレクトに発声学と結びついており、その発声学とは何よりも祭祀における『発声器官のトータルかつ精緻なコントロール』と不可分一体であったと考えるべきでしょう。

現代においても、例えば「カラオケ 歌唱法 声帯」などというキーワードで検索をかけると、実にマニアックなカラオケ道場的サイトがぞろぞろとヒットし、その中では呼吸法と共に声帯を中心とした全発声器官(舌、歯、唇、喉、etc.)のコントロール法が詳細に綴られています。

これは、私などには分かりませんが、おそらくクラシック声楽家にとっても同じことが言えるのではないでしょうか。

ヴォーカリストの命は呼吸と発声器官のコントロール。その原理・原則は、ヴェーダを詠唱するバラモン・ウドガートリ祭官にもまったく該当するのです。

そこで話は戻るのですが、『ヴィーナとしての身体の上に瞑想する』というこの瞑想営為の実際において、先に紹介した『熟練ドライバーが車を運転する』という喩えの中のその『運転』に当たるもの、あるいは楽器ヴィーナにおける『演奏』に当たるものこそが、神々の手になるヴィーナであるウドガートリ祭官ボーカリストの場合は、この『発声器官のトータルかつ精緻なコントロール』であったと考えられるのです。

発声器官をその全領域に渡って、呼吸と共に精密に運転(ドライブ/コントロール)する訳ですね。

カラオケ道場のサイトを見ると、それは限りなく“意識的”なコントロールであるようです。もちろん上級者においては熟練ドライバーの無心と重なり合う部分も多いのでしょうが、この声楽における発声器官のコントロールは、それ以上に意識的と無意識的が相半ばする営為である様に読みとれます。

これはカラオケとか声楽とかヴォイス・トレーニングとかを実際につきつめて実践した事のある人ならば、かなりリアルに理解することができるのでしょう。

私自身もインドを初め様々な所でマントラ詠唱の経験があるので、感覚的に分かる部分もあります。それは車の運転などの日常行為よりも、相当以上に“意識性”の強いものです。

何というか、意識が無意識の領域に半歩、踏み込んでいる、と言うか。

その理由のひとつが、このヴォーカル(発声・発音)という行為が、“自己表現”と深く結び付いているからでしょう。自分の感情や思考の表出、さらに宗教と言う文脈であるなしに関わらず芸術としての表現性。つまりヴォーカルというものは何よりも意志や心と深く結び付いている。

普段は何も考えず無意識的に発声器官がコントロールされ発話している人も、何かここぞという瞬間には意識的にその発声を変える。人は発話している時、意識と無意識の境界線を常に行ったり来たりしている。

この事実は、かのゴエンカジーの「呼吸は意識と無意識をつなぐ架け橋」という言葉と深く結び付いています。何故なら、発声・発音をコントロールする時、それは常に呼吸のコントロールと不可分一体だからです。

常日頃はほぼ完全に無意識下で行われている自然呼吸単体が、ひとたび発声・発音という営為と重なると極めて意識性が高い状態に変わる。この切り替えを、普通私たちは何も考えずに無意識的に行っているのです(ややこしいですね)。

以上を踏まえた上で、アイタレーヤ・アーラニヤカにおいて、

神々によって造られたヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者(そのメロディである音声=賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼を知るだろう。

と説かれたその内容を吟味するとどうなるでしょう。

その『瞑想』の“核心”にあったのは、神々について一心に『想う』(それは歌詞の内容でもある)と同時に、意識と無意識の境界領域において自らの『発声器官』のコントロールに『専念』しつつ賛歌を歌いあげる、そんな心的状態だった。

そして、その『瞑想』という言葉の前段にある“ヴィーナである人の身体を知り、その上に”、という文脈は、直接的に、発声器官としての身体の仕組みを知悉し、それを緻密にコントロールする事を意味している。

(その「緻密なコントロール」こそが、正に“チューニング”に他ならない!)

少なくともそう私は、理解しています。

(おそらく、この時、熟練のウドガートリ祭官はある種のトランスに入っていた。そしてトランス特有の気配を強力に発していた可能性があります。この事はまた後日)

そして、そのように考える事によって、アイタレーヤ・アーラニヤカ的な“瞑想”と『ブッダの瞑想法』がリンクしていく、その“接点”が浮かび上がってきます。

何故なら、このウドガートリ祭官が全身全霊で集中し精緻にコントロールする『発声器官』こそが、パーリ経典において parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā すなわち『Mukhaの周りに気付きを留めて』という時の“Mukha”そのものだからです。

〜長くなるので、次回に続けます。


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Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."
Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti. 
「それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。
もろもろの器官平等なありさまに達せよ。」

上記の『箜篌の喩え』の最終節の中に、ブッダの瞑想行法を理解する上での様々なキー概念が凝縮して提示されている。

その様な視点のもと、前回は色々な角度から考えてみました。

そこで私が最も注目したのがViriyaです。

まずは中村元訳の日本語を見ると、
汝は平等な(釣り合いのとれた)努力(Viriya)をせよ。
(その事によって、)
もろもろの器官(Indriya)平等なありさまに達せよ。
と読む事が出来る。

つまり、平等な(釣り合いのとれた)Viriyaを“手段”として体現する事によって、もろもろの器官(Indriya)の平等という“目的”もまた実現されるのだと。

しかし、この日本語訳には様々な問題があります。

第一に、努力と訳されたViriyaが本当は一体何を意味していたのか(英語では端的に“Energy”)、という事。第二に、Viriyaと器官(Indriya)というものが、どのように関連しているのかという点。

もうひとつはViriyaとIndriyaにおいて共有されている平等(Samatam)という概念が、瞑想実践という文脈上、何を意味していたのか、という点です。

中村元博士自身、この日本語訳を自ら読んで、その意味を“本当の意味で”理解できていたのでしょうか?

その様な視点から、前回私は英訳とパーリ原語を対象しつつ考察してきた訳ですが、今回はまずはViriyaについて、サンスクリットの語義の中に、その原像を探っていきたいと思います。

前回パーリ語辞典(Pali text society)に参照した様に、このViriyaの原義は"state of a strong man," であり、英語でvigour, energy, effort, exertion、などを意味します。

日本語の努力や精進に該当する意味も含んでいるけれど、どちらかというと男性的なエナジー、活力、勢力、など単純な『力(ちから)』を意味する度合いが強い印象でした。

そこでサンスクリット語のViriyaである“Vīryam”を引いてみると面白い事が分かります。

1 Heroism, prowess, valour; 2 Vigour, strength. 3 Virility、4 Energy, firmness, courage. -5 Power, potency、9 The seed of plants. -1 Dignity, consequence、-प्रपातः seminal effusion, discharge of semen.

赤字以外の部分はパーリ語とほぼ重なり合いますが、3 Virility、と複合語の-प्रपातः seminal effusion, discharge of semen.において、明確にある心象が顕在化します。

このVirilityは英語辞書で引くと、

となっていて、男性の生殖力、あるいは精力に焦点を合わせた能力やパワーという心象が顕在化します。

(この英語のVirilityは語源的にViriyaと重なるかも?)

更に、seminal、semen、を英語辞書で引くと、そのものズバリ『精液』を意味し、-प्रपातः seminal effusion, discharge of semen.とは、端的に言って『射精』する事、あるいはその力、を意味する事が分かります。

何やら、単なる『努力・精進』などという心象からは、どんどん遠ざかっていきますね。

そこで再び登場するのが、前回もチラッと紹介した、パーリ語のViriya(Skt:Vīryam)の原像となる“Vīra”の存在です。

वीर vīra
 [अजेः रक् वीभावश्च Uṇ.2.13] a. 1 Heroic, brave. -2 Mighty, powerful. -3 Excellent, eminent. -रः 1 A hero, warrior, champion;
4 Fire. -5 The sacrificial fire.
-ईशः, -ईश्वरः 1 epithets of Śiva. -2 a great hero.
-गतिः Indra's heaven. -जयन्तिका 1 a war-dance. -2 war, battle.
 -भद्रः 1 N. of a powerful hero created by Śiva from his matted hair

このようにサンスクリットのvīravīryaの意味をひも解くと、パーリ語のViriyaという単語が持つその基本的な心象が浮かび上がってきます。

それは明確に男性的な、戦士、あるいは英雄・勇者の戦場における力であり威力であり、勢力であり、同時に、その様な優れた雄(オス)が寝室で女を相手に発揮するであろう所の、精力であり性力であり、射精力であり、その結果としての生殖力に他ならないのです。

ここで私はふと、あの貴乃花が対武蔵丸の決勝戦で見せたという伝説的な『鬼の形相』を思い出しました。

イメージ 1

ネット上には動画もあるようなので興味のある方は是非見てみてほしいのですが、正にこの武蔵丸との世紀の決戦において、負傷した足の痛みをも乗り越えて、武蔵丸を投げ飛ばし鬼の形相とともに咆哮した、この時の貴乃花の全心身にみなぎっていた凄まじいばかりのエナジー、これこそが、vīravīryaの原像なのです。

(私がかつて弟子入りした合気道の師匠は、本当に素晴らしいvīraの持ち主でしたし、その師匠である開祖植芝盛平が目ん玉ひんむいて弟子たちを睥睨するその気迫あるいは“オーラ”もまた、典型的なMaha-vīraです。)

そしてもちろん、哺乳動物である人間において、戦闘力や戦闘意欲というものは、本来的には縄張り争いやメス資源を獲得する競争原理の中で勝ち残る、という生態・本能に根ざしていますから、戦場における英雄の威力と、寝室における閨房の精力(生殖力)というものは表裏一体となっている“男性力”であり、それら二つながらの男性的な“生命力”、それこそが、vīravīryaの原義だと考えられます。

(俗に言う、『英雄、色を好む』というやつですね。)

もちろん、ブッダがその修行道においてViriyaと語った時に、このような原像がどこまで意識されていたか断言はできません。しかし、その原イメージである『男性的な強烈な生命エナジーの爆発的な発揮(正に貴乃花の鬼の形相の様な!)』、という心象を忘れるべきではないと私は思います。

何故なら、仏教的な文脈におけるいわゆる三毒、つまり貪り、怒り、無知・無明というファンクションの背後にもまた、この『(男性的な)強烈な生命エナジーの爆発的な発揮』というものが、厳然として普遍的に存在しているからです。

ここで私は、読者の方々に思い出して欲しい事があります。それは発情期の雄象の狂ったような凶暴さを調御するという、あの喩え話です。

〜以下、「仏弟子の告白 中村元訳 岩波文庫」より引用
 
31: 密林である林の中で蚊や虻に咬まれながら、心に念じて堪えしのぶべきである。――― 戦場の先陣にいる象のように。
ガフヴァラティーリヤ修行僧
 
77: この心は、以前には望むところに、欲するところに、快きがままに、さすらっていた。今やわたしはその心を適切に抑制しよう。――― 象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全く押さえつけるように。
ハッターローハプッタ長老


この発情期に狂う雄象のその圧倒的な威力、暴力、勢力、精力(それらの背後には貪欲と怒りがある!)、それこそが正にvīravīryaそのものである、と見れば、ここで動物の調御と「Viriyaの“調節=適正化”」というものが、“実践的”に重なり合うと思うのですが、いかがでしょう。

発情期のオス象が発揮する圧倒的なまでの“力”は、象使いの巧みな技によって転化(適正化)され善用されれば、人間にとって極めて有益な『労働力』に成り、大いなる『仕事(Kammma)』を為し得ます。戦場においても、日常生活においても。

比丘に関してもまた、同じ事が言えないでしょうか?

出家したばかりの若く未熟な比丘の内部には、圧倒的なまでの男性的な生命エネルギーであるViriya(Vīryam=精力)が渦巻いている。それを瞑想修行に“向けて(シフトして)”、チューニングし、活用する。

(この男性的エナジーであるViriya:Vīryamを瞑想修行においていわば“運用”する、という視点は、
「何故サマナ・比丘たち求道者は性的禁欲すなわち“ブラフマチャリヤ”というものにこだわったのか」、
という点と深く関連します。
要は「ガス欠になったら、仕事にならない」、
という事ですが、これはまた稿を改めて。)

そのエナジー・フローを調御し、調節し、シフトし、チューニングして、瞑想実践という『仕事』の中で、針先の一点において焦点を合わせ切るpaṭivijjha : pierce=貫通・突破、あるいはPenetrate, in to jhāna

Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."
Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti. 

それが、"determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."という英訳文の真意だと考えると、様々な点で辻褄が合うと私は考えます。

そこで問題になるのが、前述したようにevenness in energy”evenness of the faculties”の意味するところとその関係性になります。

〜次回に続く。



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