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元祖イマヘイ学校である横浜放送映画専門学院で出逢い、今村プロダクション、日本映画学校と御一緒させて頂いた映画監督&プロデューサー武重邦夫氏の追悼文を日本映画監督協会の機関誌『映画監督』に寄稿しましたので此処に載せておきます。
宜しかったら、御読み下さい。
武重邦夫さんを悼む
細野 辰興
私は、武重さんに甘えていた。
南場事務局長から、7月2日に75歳で逝去された武重邦夫氏の追悼文を依頼されてから数週間、武重さんのことを考え続け、しかし中々、書き出すことが出来ないまま〆切りが近づき、その理由を考え、確信した。私は、武重さんに甘えていたのだ、と。
武重さんとは、「横浜放送映画専門学院」で講師と学生として出会った。1976年(昭和51年)の4月だった。説明するまでもなく、10年後に「日本映画学校」に成り、35年後には「日本映画大学」と成る「元祖・今平学校」だ。
「今村プロダクション映像企画」の一員だった武重さんは、学院の創立者の一人であり講師でもあった。と言っても武重さんはドキュメンタリーの講師、私はドラマコースを選択したので直接、担任とか実習の指導とかで相見えた訳ではなく、何となき出会いだった。その割には早々と名前を覚えて下さり、親しく声をかけて頂いた。卒業後に進んだ研究科の面接の時の満面の笑顔も忘れられない。
本格的に相見えるのは、研究科終了後、私が今村プロに入ってからだ。
当時の今村プロは、『復讐するは我にあり』で「鬼才・今村昌平」が8年振りに復活し「鬼のイマヘイ」の次回作を企画開発している真っ最中だった。
今村昌平監督、曽志崎信二社長、武重さん、森安建夫さん、横浜の1年先輩の飯野久さんと月野木隆の諸氏が居たが、武重さんの主軸はどちらかと云うと横浜放送映画専門学院の方に傾いている様だった。実務の中心は、今村監督と飯野さんが行なっている感じが強く、森安さんと月野木は夫々、助監督として出稼ぎに行っていた、そんな時期だった。 雑務で一人残業をしていると武重さんはよく車でやって来て事務所から色々な所に電話をしたり、雑談をして賑やかに帰っていた。雑談の内容は余り覚えていないが、昼間、今村監督と六畳一間の部屋に居る時の威圧感から比べると武重さんとのひと時は爽やかでもあり、解放された時間だった。学院長から監督に変貌した今村監督と比べると武重さんは、何処までも学校の良き講師であり兄貴分であり続けてくれたのだ。私だけに対することではなく、私の知っている限り誰に対してもそうであった様に思う。それでどれだけ勇気づ
けられた若者が居たことだろうか。
「鬼のイマヘイ」の次回作が中々、絞り込めず悶々としていた時期が続き、武重さんから企画書作りのアルバイトを何度かオファーされた。これは経済的に助かっただけではなく文章力、構成力を養うのに随分と私の血肉に成り今でも感謝している。主にTV企画で、中には「核融合」に関する情報番組の企画書まであって武重さんの人脈の広さや企画力の幅広さに驚かされた。実現したモノは一本も無かったと記憶するが(笑)。
2年後、大作『ええじゃないか』が完成し、埼玉県三郷市の江戸村オープンセットを解体し終えると私は、森安建夫さんに連れられ相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』に就いた。それを切っ掛けに街場での助監督修行が始まり、武重さんとも以前ほど連絡を取り合わなくなっていった。
6〜7年助監督修行をし、もう助監督は厭だッ、と監督デビューを画策している時に久し振りに連絡を頂いた。既に日本映画学校となっていた母校で演出ゼミの担任をやらないか、とのオファーだった。今思えば大胆な発想だった。監督デビューしていない一介の助監督にゼミの担任を任せようと云うのだ。勿論、今村校長の了解を得てのことだが、武重さんらしい大らかな発想に半ば呆れながらも請けさせて頂いた。
そう、武重さんは大らかだった。口角泡を飛ばして映画界の現状を嘆いたり、映画の批判をしていたことはあったが、人を怒鳴りつけたり、罵倒したりするところを見たことがなかった。共に日本映画学校で働かせて貰う様になってから改めてそのことを確認した。
私は、そんな武重さんに甘え、演出ゼミを持ちながら劇場用映画のデビューをし、その後も自作の企画開発をし続け今日まで来ている。
武重さんは、その間、専務理事として日本映画学校に尽くし、後輩を育て、監督デビューさせ、自身もドキュメンタリー映画を撮り続けて来られた。
7〜8年前に専務理事を辞し、日本映画学校を離れてからは更に映画製作に拍車がかかり何本ものドキュメンタリー映画を製作、監督し、卒業生に劇映画を撮らせて来た。
15年ほど前には一度、劇映画監督デビューの話も持ち上がった。今村昌平企画、武重邦夫・藤田傳脚本『黒念仏殺人事件』。理由は判らないが、映画界に付き物の諸々の事情から実現に至らず、そのことだけは残念だった。
私より一回り上の武重さんの少年時代であった戦後には映画しかなかった筈だ。映画を撮りたいッ、映画監督に成りたいッ、その若き想いに衝き上げられて映画界に入り、今村プロに加わった武重さん。やがて時代は変わり映画学校にシフトが移ってからも、その想いに変りはなかった筈だ。
その想いで後進を育て、教え子と共に映画製作を続け、満身創痍でありながらも一歩たりとも立ち止まらず、あの世に旅立った武重さん。
その姿は最後まで愉しげで、私の心を打った。
私は、武重さんに出会い、甘えさせて貰ったことを誇りに思っています。
武重さん、少しの間、サヨウナラ。
平成27年9月
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