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ここで「消滅」というのは、「与謝野新党」を作り、自民党に代って民主党に対抗しようとした与謝野元財務相が、こと志と違って「平沼新党」へ参加するだけのことになってしまったこと、つまり与謝野新党は陽の目を見ずに流産してしまったことを指す。結局、与謝野氏はいったい何をしたのか。
与謝野氏が自民党を出て、平沼赳夫氏と合流して作る新党では、与謝野氏と平沼氏が「共同代表」となる予定だった(当「診断録」4月4日号参照)。しかし、平沼氏は5日午前には、「新しい政党の代表は私がなることになっている」と報道陣にこう強調した(産経、6日)。
実際、5日夜に平沼、与謝野両氏に、園田博之前自民党幹事長代理と藤井孝男元運輸相が加わった協議(石原慎太郎東京都知事も同席)の結果でも、平沼代表ということは「与謝野氏が譲歩するかたちで決着した」(同上)。この点は、他の新聞も「党首には平沼氏が就くことがすでに決まっており」(日経、7日夕刊)と遅れて確認している。 上記の産経によると、平沼氏には「新党立ち上げのもう一方の主役、与謝野氏への対抗心があった。…報道も『与謝野新党』との文言が先行した。しかし、個人事務所を党本部事務所として提供し、資金面でも勝る平沼氏にとっては不快な話だった」。 また、与謝野氏に同調して新党に参加すると見られていた鳩山邦夫元総務相の処遇も、「平沼氏の論理が勝った」。すなわち、鳩山氏の参加は見送られた。平沼氏が鳩山氏の参加を拒否したのは、「鳩山氏が兄の鳩山由紀夫首相と同じく実母から多額の資金を提供されていたため、新党結成当初から問題を抱えることを警戒したため」である。さらに、「鳩山氏が事前の相談もなく…新党結成を宣言したことにも、平沼氏側からは『鳩山新党』を作ろうとしているとの不満が噴出した」という。 こうして、「与謝野氏側は、国会論戦で鳩山首相を追求したときに協力を得た邦夫氏を『仲間』として扱おうとしてきたが、断念せざるを得ない状況になった」(産経、同)。 このように、万事が平沼ペースで進められることになったわけで、与謝野氏は新党共同代表になり損ねた上、有力援軍と頼んでいた鳩山邦夫氏の新党参加も平沼党首に拒否されてしまった次第だ。要するに、新党は完全に「平沼新党」となったのであり、したがって「与謝野新党」は新党発足前にあっけなく消滅してしまったわけだ。そもそも与謝野氏は、新党の事務所も資金も自前で用意できないでいて(結果として党首になれるような力量もないことが証明された)、よくも新党樹立などと言えたものだと思う。
結局において、いったい、与謝野氏の政界における位置はどう変ったのか?要するに、彼は自民党の一党員(しかし、一応重鎮として遇されていた)から、平沼新党の一党員(党内の位置は未定)に変っただけなのだ。しかも、自民党はやせたり(文字通り)とはいえ野党第1党の大政党なのに対し、平沼新党はまったく先行き不透明な、保守の(端的に言えば自民党右派的な)小政党に過ぎない。これでは、簡単に言えば、与謝野氏は“落ちぶれた”だけではないか。 いったい、なんのための自民党離党だったのか? 私は与謝野氏が今年2月の衆院予算委員会での論戦で、鳩山首相を「平成の脱税王」と非難する激しい政府・民主党攻撃を行ったときから、なにか非常な違和感を感じていた。つまり、そこにいままでの落ち着いた(悪く言えば迫力がない)与謝野像との大きな隔たりを感じたのである。私は、それはあるいは、彼が麻生内閣末期に突然麻生首相(当時)に退陣を迫って断られた上、その後の総選挙で自民党が大敗北を喫した結果、総理就任(近づいていたと思っていた)の夢が完全に消えたための恨みの爆発か、と推察した。
さかのぼって、彼が総選挙敗北後の時期に自民党を再生させる意気込みを持っていなかったことは、09年9月の総裁選挙で自らの立候補を見送ったことから推察できた。ところが、突然の国会での勇ましい議論である。 与謝野氏自身はこの論戦を行った心境を次のように説明している。「この半年間、自民党執行部には本気で鳩山政権を倒そうという気概が見えなかった。だからこそ、私はたとえ『捨て石』になろうとも、自民党を再生させるために、その気概を見せたのである」と(「文藝春秋」2010年4月号、ただし発売は3月10日)。 しかも、与謝野氏はこの文藝春秋の中で、次のように述べて、事実上、新党結成の決意を表明しているのである。「執行部を交代して新生自民党を立ち上げるのか、それとも新党という旗を掲げて新しいパラダイムを求めていく方が日本を救う近道なのか、時間は差し迫っており、私が決断を下す時期はそう遅くはないだろう」と。そして、この論文の標題は「新党結成へ腹はくくった」というものであった。
この一文をみれば、与謝野氏は遅くとも3月10日(この文藝春秋の発売日)には新党結成の決意を固めていたことになる。 それなのに、彼は鳩山邦夫氏が離党届を出した(3月15日)翌16日に、自身の離党の可能性について、「すべては鳩山氏や(幹事長代理を辞任した)園田博之氏の話を聞いてからだ。なにも考えないでいるので」と述べるにとどめている(日経、3月17日)。さらに、3月31日の党首討論で谷垣自民党総裁が鳩山首相に挑んだ論戦について、「(谷垣総裁は)一生懸命やっていた。あれくらいは言わないとダメだよな」と語っており(日経、4月1日)、文春論文とは全く違う態度を見せている。 いささか細かい話になったが、要するに私が思うのは、最近の与謝野氏は明らかに異なる二つの顔を見せてきていたということだ。つまり、野党自民党の総裁に名乗りを上げる気概もなくした与謝野氏と、その総裁を引き受けた谷垣氏を「気概がない」と居丈高に攻撃する与謝野氏。その裏で早くから新党結成の決意を表明する与謝野氏と、鳩山邦夫離党でもぐずぐずしている与謝野氏という二面である。 私は、そういう与謝野氏をオポチュニストと見たのだが(当「診断録」4月4日号)、以上のような文脈の中で捉え直してみると、むしろ、彼はジャーナリズムにけしかけられ、踊らされていた(そしてなお踊らされている)のではないか、と思えてきた。
だから、無理に強気なことを言ったり、書いたりし、そして十分な準備も決意もないのに離党して新党結成を唱えたりしたのではないか。その結果、いざ新党を作る段になって、パートナーとして期待した人に、いとも簡単に「与謝野新党」の夢をつぶされてしまい、惨めな敗北を喫したのだろう。こうして与謝野氏は、現在の政治劇の中で、人は信念もないのに他人のおだてや扇動に乗るべきではない、という教訓を残してくれたのかも知れない。 なお、平沼新党と平沼氏について一言コメントしておくと、新党はその立ち上げの協議に際して石原都知事(権力主義的な政治家。最近では国際的なオリンピック招致合戦での敗者)の同席を得、また同知事から党名(たちあがれ日本)をつけてもらったことにすべてが象徴されている、時代錯誤の党のようだ。そして平沼氏自身は、一貫性はあるが、郵政民営化に反対して小泉自民党から離れたことが印象に残る程度の、これといった魅力がない政治家だと思う。 (この項 終り)
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エコノミストの時評
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はじめまして
長い文章ですが非常に論点が的確に思います。
与謝野氏は下野後、総裁選に出ず、
谷垣氏に刷新を迫りながら
離党とは何か腑に落ちません。
平沼氏との交渉でも邦夫氏も入れられず
共同代表にもなれず
この辺も小さなことでやっているな。
という印象ですね。
平沼氏も情念とか信念があるなら細かいことは
どうでもいいのに。
そのくせ石原氏は味方ってどういうこと?
薩長が細かいことをいってたら
手を組めなかったでしょう。
この調子では先行きは????ですね。
2010/4/8(木) 午前 7:48 [ ろまや ]