文太郎の日記帳

景気、財政赤字、国際経済、政治・政局、世界情勢、日米関係など現代の諸問題を広い視野で解明します。

エコノミストの時評

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 かつて当「診断録」3月27日号で「ドイツ次第のギリシャ支援」を論じた際、私はその最後で次のように書いた。「同じ敗戦国でありながら、アジアで孤立(これまで)している日本と、ヨーロッパで大きな存在感を示しているドイツの違いはいかにして生じたか… について後日に論じてみたい」と。
 また{アロー}さんから、この違いについての説明を早く読みたいとのコメントがその時の「診断録」に寄せられていた(その他の方からも個人的メールなどで同様のご希望があった)。そこで今回は、持ち越しのこの問題を取り上げたい(1回では無理なので、すくなくとも2回に分けて説明する−続編の日にちは未定)。
 
 まず、敗戦時点ではドイツは日本よりはるかに不利な状態に陥っていたことを強調したい。1945年4月時点でドイツへは西方からは米英軍、東方からはソ連軍が攻め込み、23日にはソ連軍が首都ベルリンに突入、30日にはヒトラー総統(国家社会主義ドイツ労働者党=ナチ党の総統で、ドイツ国家の独裁的指導者)が自殺、5月7日に(ベルリンでは8日)ドイツ軍は無条件降伏した。
 
 このような戦争へ至る過程の大筋は次の通り。ドイツは①1939年9月にソ連と結んで(不可侵条約を締結)ポーランドに侵入して同国をソ連と2分割。これに対して英仏が対独宣戦布告(同年9月。これをもって第2次世界大戦の開始とみなされている)。ドイツは反撃してフランスを占領(1940年7月にパリ陥落)。同6月には在欧の英軍はダンケルク(北仏)から英本土へ撤退。
 ②次にドイツは41年6月に一転して(不可侵条約締結にもかかわらず)ソ連に電撃侵攻(ドイツは2正面戦争へ)、一時はモスクワ、レニングラード(現サンクト・ペテルベルグ)へ迫った。③同年12月にドイツはさらに米国に宣戦布告(同月の日本の対米英宣戦に追随)、米英仏ソと交戦状態に。④42年12月に米英軍が北アフリカに上陸(南部からの対独反攻)、44年6月にノルマンディー上陸(西方からの対独「第2戦線」の結成)。④43年2月、独軍はスターリングラード(現ボルゴグラード)でソ連軍に降伏、東部戦線で敗退へ。
 
 こうして、ドイツ国土のほとんど全域で地上戦が行われた上で(米英軍による空爆も徹底的に行われた)ドイツは敗北、米英ソの軍隊によって(あとでフランスが参加)全土が分割占領された(大まかに西部は米英仏、東部はソ連によって)。ベルリンはソ連軍が占領、ソ連支配地域に入ったが、同市も米英仏ソ4ヵ国が分割統治した。
 ヒトラー自殺後、ドイツ政府はデーニッツ海軍元帥(元海軍総司令官)が大統領となって引き継いだ(ヒットラーの遺言によるとされる)が、降伏後5月23日には政府全閣僚が英軍に逮捕されてドイツ政府は消滅し、以後は米英仏軍(連合国軍)とソ連軍による直接統治となった。こうしてドイツ国家は消滅した。  
 
 これに対し日本は、沖縄での地上戦での敗北(1945年6月)、広島・長崎への原爆投下(同8月)、ソ連軍の対日参戦(同8月。なお当時日ソ中立条約が存在していた)のあと、日本が8月15日に鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏(天皇が「終戦の詔勅」を発布、同日鈴木内閣は総辞職、東久邇宮内閣となる)。その後に日本に進駐・占領した連合国軍(主体は米軍)は原則的に日本政府を通して日本を統治(間接統治)した。
 その点、戦勝国の直接統治下に置かれたドイツと大きく異なる。すなわち、日本は完全敗戦にもかかわらず、国家は生き残った。
 
 ここで、補足として、対英仏戦争(1939年)、対ソ開戦(41年)に至るまでのドイツの欧州内でのその他の主な国際関係について述べておきたい。
 ドイツはポーランド侵攻(39年)に先立ち、1938年3月にオーストリーに侵攻してこれを併合、ついで同年10月チェコスロバキアに同国西部のズデーテン地方(ドイツ人が多数居住する)の割譲を認めさせ、さらに39年3月には独軍が同国のボヘミアとモラヴィア(チェコスロバキア国のチェコの部分)を占領、ドイツの保護領とした(チェコスロバキアの解体)。
 また39年9月の英仏との開戦以後は、独軍は40年4月にノルウェーとデンマークに侵攻、同年5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ(対仏攻撃の通路)へ侵攻した。  
 このように、ドイツはヨーロッパの極めて多くの国と敵対したわけである。また、ヒトラー・ドイツは徹底的な反ユダヤ政策(ユダヤ人を劣等人種として根絶する)をとり、敗戦までに600万人(Manfred Mai:Deutsche Gesichichte =ドイツ史 による)のユダヤ人をガス室等で虐殺した(ホロコースト holocaust)。
 
 敗戦後のドイツは、やがて東西冷戦の中で、1949年9月に至り、いずれも占領国主導の下で、連合国占領地区に「ドイツ連邦共和国」(die Bundesrepublik Deutschland , BRD 、通称西ドイツ、首都はボン)が、またソ連占領地区に「ドイツ民主共和国」(die Duetsche Demokratische Republik , DDR 、通称東ドイツ、首都はベルリン)が成立。こうして、冷戦下の占領政策により、ドイツは図らずも国家としては再建されることになった。だが、まさに冷戦の産物として、国家は東西2ヵ国に分裂させられてしまった。
 加えて、東ドイツがソ連圏に属したために、西ドイツは冷戦の最前線に位置することになった。 
 
 対して敗戦後の日本本土は、基本的には米英軍が占領(ソ連は旧満州国、北朝鮮、旧樺太島南部、千島列島を占領したが、日本本土には至らず)。1952年発効の連合国との講和条約(サンフランシスコ条約。ソ連と中国は不参加)によって、日本は形式上独立を回復した(同時締結の日米安全保障条約によって米軍が引き続き駐留)。しかし、とにかく日本はドイツのような国家分割はまぬがれた。
 日本の植民地とされていた旧朝鮮は日本の敗戦により解放されることになったが、北半分にソ連軍が、南半分に米軍が進駐。1948年には南に大韓民国(8月)、北に朝鮮民主主義人民共和国(9月)が樹立されて、ドイツと似た分断国家となり、また冷戦の最前線となった(そして1950年には実際に熱い戦争=朝鮮戦争が勃発した)。
 
 とにかく、以上のように惨めな出発をした敗戦後のドイツにとっての主要課題は、①荒廃した経済と国民生活を立て直すこと、②戦後の国際秩序の中でドイツの国家としての再建と独立を達成し、その国際的地位を改善・回復すること、③分裂を余儀なくされたドイツ国家の再統一を実現することであった。結果的には、ドイツの再統一は1990年にBRD(旧西ドイツ)を母体として実現されるので、そこへ至る過程は西ドイツを中心に説明する。
 
 西ドイツ、すなわちドイツ連邦共和国の初代首相にはキリスト教民主同盟党首のコンラッド・アデナウアーが選ばれた(1949年9月)。大統領には自由民主党のテオドール・ホイスが選ばれた。ただし西ドイツの基本法(憲法に相当)では、大統領は名誉職的な地位である。 
 こうして、西ドイツは基本法、国会、政府を持つ国家となったが、まだ真の主権国家にはなっていなかった。すなわち、連合国(米英仏)は外交政策、対外経済関係及び憲法に関わる問題などに関し、西ドイツの立法過程に介入する権限を留保していた。 
 そこで西ドイツ政権にとって最重要課題となったのは、この新しい国家に完全な主権と国際的な同権を回復することであった。その際、ドイツが戦時中に行った他国の併合、侵攻、占領、その他の非人道的行為により、戦争直後はヨーロッパの多くの国、国民から憎悪、反感を持たれていただけに、そうした諸国との関係をどう修復するかは極めて重要な課題であった。
 
 やがて西ドイツは、冷戦下の東西対立の中で、積極的に西側陣営に参加することで西側の一員として国家の地位を回復していくのだが、平行して、ヨーロッパ内ではまず長年のいわばライバルであった隣国フランスと和解し、両国の友好関係を回復することに極めて大きな努力を払った。
 日本は、傀儡国家「満州国」を中国東北部に樹立し(1932年)、37年から中国本土に奥深く攻め込んだが、中国を屈服させることは出来ずに、戦争の泥沼に落ち込んでしまった。さらに、中国の背後の仏領インドシナ(現在のベトナム)に侵攻、(40〜41年)、対米英開戦(41年12月)の後には、フィリッピン(当時米国領)、マレー半島とシンガポール(英国領)、オランダ領インドシナ(現インドネシア)、ビルマ(英国領。現ミャンマー)などに進攻し、占領した。
 日本は、この内とくに隣国の中国には長年の戦争と占領で多大の犠牲を強いてきたのだが、日本の対中和解の動きは1972年における田中角栄内閣の手による日中国交回復の時まで実現しなかった。
 
 こうしたドイツによる積極的な対仏和解と日本の対中和解の先送り、ここに第2次大戦後におけるドイツと日本それぞれの国際関係の相違の出発点があったと思う。       (この項 続く)
 
(追記) 私は当「診断録」の前号(4月15日号)で、今後の政界の動きの可能性の一つとして、ニュー・リーダーに率いられた自民党員による新党の樹立(事実上の自民党の分裂)、それと民主党分裂による反小沢派民主党員などによる新党との合同を「次善の策」としてあげた。この見通しについて数人の「診断録」読者同人から、その方向がベストだとのご意見をメールなどにより個人的にうけたまわり、大いに参考となった。   以上

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あろーです。ありがとうございます!。待っていた記事なので、何回も読ませていただきました(^^)。

対仏和解政策を積極的に取ったドイツに対し、対中和解を先送りした日本の政治。今回の鳩山ーオバマ外交をみても、第2次大戦直後の日本のスタンスから、あまり進歩はしていないようですね(^_^;)。

弱点を補強する手を打つコトが何故苦手なんでしょうか?。戦略論を持ち出す前に、弱点を正しく認識する能力が欠けているんでしょうか?。

続編も、期待しています(^^)。

2010/4/19(月) 午後 9:46 あろー


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