文太郎の日記帳

景気、財政赤字、国際経済、政治・政局、世界情勢、日米関係など現代の諸問題を広い視野で解明します。

エコノミストの時評

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 外務省が最近公開した外交文書により、1955年(昭和30年)7月に当時の鳩山一郎内閣が日米安全保障条約(連合軍占領下の1951年9月に対日平和条約と同時に締結)に代る「日米相互防衛条約」の締結を構想、その第5条で「日本国の防衛計画の完遂年度の終了後、遅くも90日以内に」在日米駐留軍(まず陸・海の地上部隊)が撤退するとの条項を盛り込んでいたことが明らかになった(読売、7月27日)。
 この条約草案は55年8月に訪米した重光葵外相によってダレス米国務長官に提示されたが、同長官によって一蹴された(同上)。その後、日米安保条約は1960年に岸信介内閣の時に現行の内容に改訂されたが、それにより米軍の駐留は(この条約が破棄されない限り)永続することになったわけだ。
 私たちはこの鳩山構想挫折の歴史から多くを学ぶことができると思う。
 
 鳩山一郎は第2次大戦前からの政党政治家で、1920年代末から30年代前半に内閣書記官長(現在の官房長官に相当)と文部大臣を経験している。
 戦後鳩山一郎は、戦前派政治家の重鎮として1945年11月にいち早く日本自由党を結成して総裁に就任、46年4月の総選挙では自由党が比較第1党となった。その結果、幣原喜重郎内閣が総辞職、幣原首相は同5月3日に鳩山自由党総裁を次期首相に推薦した。ところが、翌4日に突如GHQ(連合国軍最高司令部)が鳩山氏の「公職からの追放」を日本政府に指令、このため鳩山は首相就任の直前に政界から追放され、無念の涙を呑んだ。
 GHQの鳩山追放の理由は、彼が滝川事件(1933年に滝川幸辰教授がその自由主義的思想を理由に京都帝大から追放された事件)に際して文相として同教授の罷免を命じたことや、軍部の政治介入を誘引するなどした「軍国主義的政治家」としての言動があったというものだった。鳩山にそうした面があったことは否定できないが、彼が敗戦・被占領国日本の早期独立を企図していたことが占領軍に忌避されたとも言える。
 
 鳩山追放の結果、自由党は急遽幣原内閣の外相だった吉田茂に党総裁就任を要請、その結果、吉田が自由党総裁・首相に就任したのである。その吉田首相の手で、51年にサンフランシスコ平和条約(戦勝国のうちソ連・中国が不参加のいわゆる単独講和条約)と日米安保条約が結ばれた。
 吉田は戦前からの外務官僚で、外務次官、駐英大使などを歴任、外務省内におけるいわゆる英米派であった。敗戦前には和平工作に携わったとして憲兵隊に拘束されたことがある。
 吉田は鳩山と異なり、東西冷戦の世界において、対米協力の下で軍備を持たない“軽装”国家として経済中心に日本の再起を図ろうとする路線を追求した。そして、誰もが暫定政権だと思っていたのに、1946年から(47,48年の片山および芦田内閣の時期の約1年半を除き)1954年までの長期にわたって政権を維持した(後に、この吉田茂が敷いた路線を受け継いだのが、池田勇人首相や佐藤栄作首相らのいわゆる「保守本流」である)。
 
 鳩山一郎は、その吉田内閣時代の51年8月(占領時代末期)に追放解除となり、政界へ復帰したが、その直前の6月に脳出血で倒れるという不運に見舞われた。そういうことも影響して、吉田は鳩山に政権を“返還”することはしなかった。そのために鳩山は吉田自由党下で少数派運動を続け、やがて反吉田勢力を結集して1954年11月に日本民主党を結成、その総裁となった。
 そして、同年12月、民主党は左右両派社会党(当時社会党は二つに分れていた)と協力して吉田内閣不信任案を提出、それにより吉田内閣は総辞職に追い込まれ、それを受けて同12月に鳩山内閣が誕生したのだった。
 このように鳩山一郎の政権掌握は実に8年越しの悲願の実現であり、それだけに自らを不当に追放した占領軍とその後の在日米軍、それに従ってきた吉田の路線とその政治勢力には強い反発を抱いていたと言える。
 
 55年7月における鳩山内閣の安保廃棄と新条約締結および米軍撤退の案は、そうした鳩山の長年の執念・信念の表現だったといえるだろう。
 国際的にも、ソ連の独裁者・スターリン首相が死去(53年3月)、50年に勃発した朝鮮戦争が53年7月に休戦となるなど東西対立に若干の緩和が見られたことは、安保条約のあり方を再検討する機会であったと考えられる。
 しかし、鳩山一郎内閣起草の日米相互防衛条約案の第4条は、「西太平洋区域において、いずれか一方の締約国への武力攻撃」があった場合には、「共通の危険に対処するために行動する」とうたっていたが、当時の日本にはそうした国際責任を果たし得るような国防力(軍事力)は無かった。当時の日本の武力としては、朝鮮戦争の勃発直後にマッカーサー占領軍総司令官の命令で設置された警察予備隊が、保安隊への改組(52年)を経て54年7月に自衛隊となった直後であり、とうてい単独で国防の任を担えるような存在ではなかった。
 
 国内政治の面では、国民の間に日本が自前の国防力(軍事力)を持つことへの根強い反対があった。     
 また、そうした必要な国防力を支えるべき戦後日本の経済力も極めて不十分であった。当時は戦後10年、朝鮮戦争に伴う米軍特需ブームの刺激を経て、日本経済はようやく最低必要な範囲での戦後復興を遂げたばかりであって、本格的な高度成長が始まる少し前であった。 
 国際関係も、朝鮮戦争という熱い戦争(その際米国と中国が朝鮮半島で直接に戦った)が終わったとはいえ、ソ連と中国は未だ緊密な同盟関係の下にあり、その同盟は米国と日本を直接の対象とするものであった。そして日本は、吉田政権の下でのいわば中ソ無視の外交の結果、この両国とは平和条約も結んでいなかったのである。そうした国際関係の中では、米軍が日本から撤退することは極めて考えにくいことであった。 
 
 要するに、日米安保条約の根本的改定(実質的な廃棄)と米軍の日本からの撤収を実現するためには、それに必要な主体的・客観的条件を整えることが必要なのであって、55年当時の鳩山一郎内閣には到底その用意があったとは言えない。
 遅まきながら、鳩山一郎の民主党は、55年11月に自由党と合同して自由民主党を結成し、56年に日ソ交渉を本格化して10月に日ソ国交回復に関する共同宣言に署名、ようやく日ソ間の戦争状態に終止符を打った。しかし、日中の国交回復は、それからさらに16年後、保守本流としてはやや異端の田中角栄内閣の登場(72年7月)により、同9月になってやっと実現した。 
 
 日米安保条約そのものは、60年1月に岸信介内閣によって米国との改定交渉が妥結した(批准は6月)。この改訂により、条約の有効期限は当初10年とされ、それ以後はいずれかの当事国の1年前の通告により、一方的に破棄することが可能とされた。その最初の10年は70年に到来したが、それ以後も日米両国のいずれも破棄を通告することなく、現在に至っている。
 60年安保を結んだ岸信介は、1941年に日米開戦を決定した東条英機内閣の商工大臣で、戦後占領軍によりA級戦犯として逮捕されたが、不起訴となり、釈放後に公職追放となった。52年に追放解除となったあとで54年に自由党に入党したが、吉田首相の軽武装・対米追随路線に反対して自由党を除名され、同年11月に鳩山一郎とともに日本民主党を結成して幹事長に就任した。
 岸はその後鳩山首相退陣後の石橋湛山内閣(56年12月成立)で外相となったが、石橋首相の病気退陣を受けて57年2月に首相に就任した。つまり、岸信介は鳩山一郎の系譜に連なる政治家で、その手による安保条約改定は、当初の安保条約の片務的(要するに米国都合優先の)性格を是正し、それに期限を付することを目的とした。つまり、吉田茂の保守本流に連ならない岸には、やはり日米安保条約を破棄する意図があったということだ。
 
 だが、当時の国民の多くは、安保条約の継続そのものに反対であり、そのために岸の手による安保改訂に強硬に反対、学生運動、労働運動を中心とする大衆的安保反対闘争により、改訂条約批准の直後に岸首相は退陣を余儀なくされた。
 また、岸がA級戦犯容疑者であり、追放解除後の政治運動においては、自主憲法制定、自主軍備確立、自主外交展開を唱えていたために反動的政治家と見られたことも、反安保の大衆運動が強まった一因であった。 
 しかし、この改訂により、安保条約が1年前の通告で一方的に破棄できるようになったことの意味は大きい。ところが、岸内閣退陣後は、池田内閣、佐藤内閣と保守本流政権が続くようになり、政府の側からは安保破棄の動きは出てこなくなった。
 
 時代は下って、2009年に成立した鳩山由起夫内閣は、沖縄・普天間基地の国外への移転を主張することによって、事実上、在日米軍基地の縮小を目指す方針を掲げた。それは、いわゆる「米軍の駐留無き日米安保」への志向であり、由起夫首相の祖父・鳩山一郎が構想した「日米相互防衛条約」案に通ずるものがあった。
 しかし由紀夫首相は、普天間基地の国外移転要求とはそういう重い意味を持ったものであることを認識していなかった上、一郎首相の場合と同様に、国際情勢の現状認識の不足、駐留米軍漸減後の日本の防衛の態勢と方針の不明確性などにより、普天間問題の解決に失敗してしまった。  
 
 もし本気で米軍基地を日本からなくしたいのであれば、条約の上からは、その旨を米国に通告することにより1年後にはそれを実現することが可能なのだ。しかし、そのためには、そのことについての①米国を含む周辺諸国の了解、②日本自身の自衛力の(非核の)確立、③日本国民の承認と決意が必要だが、率直に言って、そもそも日本国民自身にその精神的用意がまだできていないと思う。
 国民は敗戦と連合軍の日本占領、それに続く長期にわたる米軍の日本駐留にならされてしまった。そして、日本政治の保守本流はそういう事態を容認してきた。だから、日本から米軍基地を無くすためには、政府と政党はそれに必要な以上のような条件を国民に示し、説得し、それらを段階的に実現させる必要がある。そうしたことを欠いた米軍基地撤廃論(社民党や共産党が主張する)は空論である。
 
 鳩山由起夫内閣の普天間基地移設方針は失敗に終わったが、その過程で、沖縄県民の米軍基地拒否の考えが極めて強いこと、沖縄以外の日本のどの自治体も沖縄に代わって米軍基地を受け入れる用意を持っていないこと、つまりは日本国民の全体が米軍基地の存在を拒否していることが明確になった。その意味で、55年前に鳩山一郎内閣が構想した「日本国の長期防衛計画の完遂」を条件とする「米駐留軍の撤退」という方向が、今後日本がとるべき長期方針としてあらためて確認されるのではないか。
 だが、それが実現するまでの期間、現在の基地をどうするか。そのためには、なによりも沖縄の負担を軽減しつつ、最低限の基地存続について沖縄県民の了解を得なければならない。しかし、そのさらに前提として、沖縄を戦場とし、その上で米軍による沖縄の事実上の長期占領をもたらした日本政府の戦争責任と戦後責任を明らかにしなければならないだろう。
 
 結局、米軍基地問題を解決することは、沖縄問題を解決することであり、そして日本の戦争と敗戦を総括することにほかならないと思う。  (この項 終り)
  
(追記)前回の「診断録」(7月25日号)へのコメントで、swimming さんは「在庫再蓄積」について質問をした。その回答をしておく。「在庫の蓄積」あるいは増加が「在庫投資」で(在庫投資の「増加」ではない)、両者は同じことである。また、いったん削減した在庫(マイナスの在庫投資)をまた増加させることをここでは再蓄積と表現しているだけ(単に蓄積でもよい)である。 以上

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今日の診断録の内容は非常に重い内容だと思いました。確かに国民は米軍の日本駐留にならされてしまっているし、平和であることが当たり前のようになって、日本自身の自衛力確立の必要性についての認識も持っていないと思います。
このような状況を変えて行くのは、政治の責任だと思いますが、現在のように短期間に政権が交代している状況では、政策の継続性を保つことはできないし、日本の戦争と敗戦を総括することもできないように思います。
在庫の蓄積に関するコメントありがとうございました。「在庫の積み増し」という表現や、「プラスの在庫投資」という表現はあっても、在庫投資の増加という表現は誤りであることを確認しました。

2010/8/1(日) 午前 3:17 [ ねずみ ]


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