文太郎の日記帳

景気、財政赤字、国際経済、政治・政局、世界情勢、日米関係など現代の諸問題を広い視野で解明します。

エコノミストの時評

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 本稿は当「診断録」2010年4月19日号の「敗戦国ドイツと日本の相違(1)」の続編である。前回から大分間を置くことになったが、途中で“時の話題”を取り上げるのに追われてつい遅くなった。今日はちょうど終戦記念日。続編を取り上げるにはいいタイミングではないかと思う。
 
 上記4月の前編では、第2次世界大戦とその敗戦から、戦後の国家の分裂にいたるドイツ史について、以下のようにその要点を説明した(今回若干補足した部分もある)。
 ①第2次大戦においてドイツは1945年5月までに東からはソ連軍に、西からは米英仏(実質的には米英)の連合軍に攻め込まれて全土が敵軍に占領されて降伏、ドイツは国家・政府が崩壊した(文字通りの国家の滅亡)。
 ② 戦後のドイツは米英仏ソ4ヵ国の占領軍に分割統治されたが(ベルリンはソ連地区にあったが、そのベルリンも4ヵ国によって分割統治された)、やがて「冷たい戦争」の先鋭化とともに米英仏の占領地区(ドイツ西部)は統合されて、ソ連地区(同東部)と対峙(たいじ)するようになり、1949年には米英仏地区にいわゆる「西ドイツ」(正式にはドイツ連邦共和国、BRD)、ソ連地区に「東ドイツ」(ドイツ民主共和国、DDR)という二つの国家が出来上がり、ここにドイツ国家が復活するとともに二つに分裂した。
 ③ 西ドイツはアデナウアー首相指導の下に、冷戦における西側陣営に積極的に参加することを通じて、主権の完全回復と国際的地位の回復・向上を目指し、その中で長年のライバルだったフランスとの和解に努めた。
 
 このように西ドイツ国家は49年に成立したが、その時点ではまだ完全な主権の回復を遂げてはいなかった。ところが、50年6月における朝鮮戦争(注)の勃発により、ヨーロッパでは西ドイツが次の東西の“熱い戦争”の標的にされるのではないかと西側諸国間で危惧されるようになった。アデナウアー首相はそこに西ドイツの主権回復と国際的同権化への「大きなチャンス」を見いだした(Manfred Mai;「Deutsche Geschicte」、ドイツ史。2003、Beltz & Gelberg)。 
 以上のような情勢の下で、西ドイツは51年4月にフランスとともに西欧6ヵ国(仏独伊とベネルックス3国)による「欧州石炭鉄鋼共同体」(今日のEU=欧州連合の原初形態)設立条約に調印、52年5月には同じ6ヵ国による「欧州防衛共同体」条約に調印。そして54年10月には米英仏を含む西側9ヵ国会議の「パリ条約」で西ドイツの占領の終結と主権回復およびNATO(北大西洋条約機構)への加盟が承認された。
 そして、55年5月にパリ条約が発効したことを見届けて、同6月に西ドイツは国防省を設置し、56年7月には徴兵制を導入。こうしてドイツは西半分ながら敗戦後10年で通常の独立国家に戻った。  
 
 (注)韓国が北朝鮮軍によって侵攻され敗退した(釜山近くにまで迫られた)が、米軍が国連軍の旗印を得て戦争に介入(仁川に逆上陸)、韓国軍とともに反撃して北朝鮮に攻め入った。それに対して中国軍が「義勇軍」の名目で北朝鮮軍を支援して戦争に参加した(米中戦争)。ソ連は戦闘に参加しなかったが、東側陣営の盟主として中朝両国を支持。53年7月に休戦協定調印。
 
 主権を回復した西ドイツ(BRD)の次の大きな国際外交上の転換点は、ヴィリー・ブラント首相(69年に成立した社会民主党《SPD》と自由民主党《FDP》との連立政権において戦後初の社民党出身の西ドイツ首相となり74年まで在位。71年にノーベル平和賞を受賞)による「東方外交」の展開によってもたらされた。
 それに先立ち、ブラントは66年に成立したキリスト教民主・社会同盟(CDU・CCU)と社民党との初の大連立政権(キージンガー首相、CDU)において社民党党首として副首相兼外相に就任、その外相時代に東欧のルーマニア(67年)、ユーゴスラヴィア(68年)と国交を結んで、それまでの西ドイツ外交の原則とされた「ハルシュタイン・ドクトリン」(注)を事実上で廃棄し、東側諸国との共存を図るその東方外交を始動させていた。  
 
 (注)西ドイツは、55年9月にアデナウアー首相がモスクワを訪問してソ連と外交関係を樹立したが、帰国後に同首相は、「東ドイツはソ連の傀儡(かいらい)国家に過ぎず、西ドイツのみが全ドイツを代表する」との立場から、東ドイツを承認する第三国(ソ連以外の)とは国交を結ばない方針を打ち出した。この方針が当時の外務次官の名をとってハルシュタイン・ドクトリンと呼ばれる(石田勇治「20世紀ドイツ史」、白水社)。
 
 首相に就任したブラントは議会での施政方針演説で、「ドイツ連邦共和国《BRD》とドイツ民主共和国《DDR》の樹立から20年経った今日、われわれはドイツ国民のさらなる疎遠化(Auseinanderleben)を阻止し、両者の秩序ある共存(Nebeneinander)を通じて、協同(Miteinander)の関係の樹立に向かうべきだ」と「接近を通じての変化」の考え方を説き、その東ドイツおよび東欧諸国との外交関係樹立の方針を明示した(M.Mai、上記)。 
  具体的にはブラント政権は、まずソ連との間で、現存するヨーロッパ国境の不可侵を約した西ドイツ・ソ連条約(モスクワ条約、70年8月)、ポーランドとの間で相互の武力不行使と、ドイツ東部のオーダー・ナイセ川をポーランド西部国境とする西ドイツ・ポーランド条約(ワルシャワ条約、70年12月)を結んだ。
 次いでベルリンに関して、西ドイツ・西ベルリン間の自由往来と東西ベルリンの往来の保障などを約したベルリン4国協定を結び(71年9月)、72年12月に東ドイツとの間で「両ドイツ基本条約」を調印 して相互に国家として認めあった (石田、上記)。
 
 このオーダー・ナイセ川をドイツ・ポーランドの国境とすることは、戦前のドイツのプロイセン州東部(ドイツ旧領土の四分の一)を放棄することになるので、野党CDU・CSUなどは猛反対した。
 しかしブラント首相はそうした反対に対し、「これらの地域はわれわれがすでに長期間失っていたものだから、われわれは新たに何ものをも放棄するものではない。何人も現存のヨーロッパの国境を力で変更する権利を持っていない」と反論した(M.Mai、上記)。
 というのは、敗戦国ドイツの処理を決定したポツダム協定(注)において、米英ソはドイツ軍の完全な解体、戦争犯罪人の処罰、賠償などとともに、領土については講和条約までの措置として、1937年末までのドイツ領のうち東プロイセン北半をソ連管理下に、オーダー・ナイセ川以東をポーランド管理下におくことを決定、以後それが実行されていたからだ。
 
 (注)45年7月17日から8月3日までベルリン近郊のポツダム(ブランデンブルグ州の州都)で、米(トルーマン大統領)、英(チャーチル首相)、ソ(スターリン共産党書記長)の3国(対独主要交戦国)首脳が会談して、敗戦後ドイツの処理の方針を決定したもの。
 ちなみに、対日「ポツダム宣言」はこのポツダム協定とは直接には無関係で、ポツダム会談の合間に、米、英、中国(蒋介石総統の代理が出席。総統は交戦中のためポツダムには来られなかった)の3ヵ国(対日主要交戦国)が対日降伏呼びかけと降伏条件を決定して日本に対し発した(7月26日)ものである。ポツダム会談時点ではソ連は対日交戦国ではなかったので当初の対日ポツダム宣言には加わっておらず、8月9日の対日参戦後に宣言に参加した。
 ポツダム会談が行われたポツダムのツェツィーリエンホフ宮殿の1室などは歴史記念館として保存・公開されている(3巨頭が座った椅子やテーブルとも)が、私が訪問した2006年の経験では同館には対日ポツダム宣言の資料は一切ないし、案内役の日本人ガイド(記念館の公式ガイド)も同宣言については存在そのものさえ知らなかった。 
 
 しかし先に述べたように、ブラント首相が結んだオーダー・ナイセ川を対ポーランド国境として承認する条約は旧ドイツ領土を放棄するものとして、また東ドイツを国家として認める方針はドイツ再統一を断念するものとして野党の激しい抵抗にあったので、同首相は72年9月に議会を解散して国民に信を問うた。結果は、社民党は選挙で45.8%を獲得してCDU・CSUの44.9%を抜いて第1党に躍進、与党のFDPも8.4%を獲得して、東方外交は国民の支持を得る結果となった(石田、上記)。
 このようなブラント首相の東方外交により、戦後ドイツは東欧の旧敵国、侵略相手国などとの和解に成功した。
 なおブラント首相は70年12月にワルシャワ条約締結のために同地を訪問した際、ワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人強制収容所)の跡地を訪ね、(虐殺された)ユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いた(ひざまづいた)。この跪きの写真は全世界に報道され、「自らの歴史上の罪を告白し、すべての古い隣国との和解を求める新しいドイツのシンボルとなった」(Mai、上記)。
 89年のベルリンの壁の崩壊に続き、90年に東西ドイツの再統一が両国民および米英仏ソの旧戦勝国によって承認されたのも、以上のような真摯で謙虚なドイツ外交の積み重ねの成果だと言える。  
 
 ひるがえってわが日本は、51年に米英仏蘭などの連合国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだが、それはソ連と中国など抜きの片面的なものとなった。
 中国は、革命の結果、国民党統治の中華民国に代わって共産党支配の中華人民共和国が成立した(49年)が、講和会議で中国を代表すべきなのが国民党政権(台湾に逃れた)か新政権(北京)かで米英の意見が分かれた(米国が北京政権を承認していなかった)ため、講和会議への招請が見送られた。また、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの東側3ヵ国は講和会議には出席したが、中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を主張し、署名を拒否した。
 その後、日本は56年に鳩山一郎首相が訪ソして「日ソ国交回復に関する共同宣言」に調印して国交を回復したが、領土問題などが未解決で、平和条約を結ぶに至っていない。また中国とは、71年に田中角栄首相が訪中して「日中共同声明」を発表して国交を回復したが、「日中平和友好条約の締結を目指す」としながらも未だに実現せず、またいわゆる歴史認識でしばしば両国間に対立が起きるなど、日中和解が実現したとは言い難い状態だ。
 さらに旧植民地の韓国ともしばしば領土問題や歴史認識で対立が起き、北朝鮮とは国交も回復していない。
 
 要するに、戦後日本の外交とくに対アジア外交は、若干の例外を除いて、極めて停滞的であったし、対外的な戦後処理と近隣諸民族との和解と友好関係の樹立に成功しているとは言えない。
 なぜそうなったか。ここでは詳論はできないが、あえて基本的な原因と言えるものをあげると、それは(対外関係は)日米関係さえ安泰であればよいと考えてきた大部分の歴代保守政権と保守層の意識と行動、および過去の(昭和時代の)戦争に対する批判や反省を一切拒否する人たちの意識にあると思う。
 その日米関係においても、日本が完全な独立性を回復しているとは言えない。  
 それらすべての結果として、日本が未だに国際社会で真の自前の国家としての存在と威信を回復していないことは極めて残念である。    (この項 終り) 
 

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