文太郎の日記帳

景気、財政赤字、国際経済、政治・政局、世界情勢、日米関係など現代の諸問題を広い視野で解明します。

エコノミストの時評

[ リスト ]

戦後最大の外交敗北は

 尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐる9月30日の衆院予算委員会集中審議で、自民党トップバッターの小野寺五典元外務副大臣は、この事件への政府の対応を「戦後最大の外交敗北だ」と批判した(各紙、10月1日)。
 この発言は恐るべき無知の露呈で、外務副大臣(安倍改造内閣及び福田康夫内閣で)の経験者もこの程度の歴史認識しか持っていないのかと一驚した。
 戦後日本外交の最大の敗北は、吉田茂首相(現在の自民党の前身の一つ、自由党の総裁)による、サンフランシスコ条約(「日本国との平和条約」、1951年9月8日調印、52年4月28日発効)締結に際しての「千島列島の放棄」(同条約第2条c)であろう。この権利放棄が、それ以後におけるわが国の「北方領土問題」についての立場を決定的に苦しいものにした。
 それに次ぐ日本の外交的敗北は、鳩山一郎首相(元日本民主党総裁、55年の保守合同で自民党初代総裁)による「日ソ共同宣言」(1956年10月19日、モスクワで調印、同12月12日発効)の合意に際しての 、「歯舞群島及び色丹島の引き渡し」の条項(同条約第9項)である。これにより、対日二島返還で領土問題を解決しようとするソ連(現ロシア)の方針に有力根拠を与えることになってしまった。
 
 ここで、第2次大戦終結に伴う、日本の領土問題に関する国際取り決めの推移の要点を振り返っておこう。
 こうした取り決めの直接の出発点は、連合国が日本政府に「戦争の終結」の決定と「全日本国軍隊の無条件降伏」を迫った「ポツダム宣言」(1945年7月26日、原署名国は米国、中華民国、英国。後にソ連が参加。日本は同8月14日にこの受諾を通告)である。
 この宣言は第8条で、戦後における日本の領土について、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及ビ四国並ビニ吾等ノ決定スル諸小島ニ極限セラルベシ」と指定した。問題は、この「諸小島」の範囲をどう決定するかということで、それは連合国と日本の平和条約の課題として残された。
 この平和条約は、連合軍(実質的には米軍)による日本占領の時期に、サンフランシスコにおいて、全連合国との「全面講和」ではなく、「片面講和」(当時は単独講和といわれた)として結ばれた。
 
 この平和条約が「全面講和」とならなかったのは、1949年に北京で成立した新中国政権(中華人民共和国)を米国や日本が承認していなかったために(それまでの国民党政権は台湾に逃避)、サンフランシスコ講和会議に出席すべき中国政府を北京、台湾両政府のいずれにするかについての連合国間合意が成立しなかった(英国はすでに北京政権を承認)ことによる。その結果、この講和会議は対日戦争の一主役であった中国の代表が参加しない不正常なものとなった。
 またソ連、ポーランド、チェコスロバキアの東側3ヵ国は、サンフランシスコ会議には参加したが、中華人民共和国の会議への不参加を理由に会議の無効を主張し、署名を拒否した(当「診断録」10年8月15日号参照)。
 このような「片面講和」のひずみを是正するため、その後「日ソ共同宣言」(上述)や「日中共同声明」(日本側代表は田中角栄首相。1972年9月29日)がソ・中両国との間で合意された。 
 
 さて、サンフランシスコ条約においては、ポツダム宣言第8条に述べられた戦後日本の領土について、第2章「領域」第2条で次のように決定した。
 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
  (b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 
 (d)〜(e)は省略
 (f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 
 このサンフランシスコ条約(以下ではサ条約と略す場合がある)の領土条項については、念のために、広く次の諸点についてコメントしておく。
 (a)について。日本は独立する朝鮮に対し、済州島、巨文島及び鬱陵島を放棄することを受け入れたが、竹島については権利を放棄していない。
 (b)日本は台湾及び澎湖諸島(台湾西方海上)を放棄したが、尖閣諸島の放棄はしていない。なお、放棄した台湾等の帰属先については。この条約は定めていない。
 (c)日本は千島列島を放棄した。地理的には千島列島とは、通常は国後、択捉から占守島(しゅむしゅとう)に至る列島を指す。したがって、(歯舞、色丹島に加え)国後、択捉島を含む諸島を「北方領土」と称して(南千島とは言わないで)ロシアに返還を求める日本の立場は、サ条約を無視していることになり、国際的にははなはだ弱い(この点は後でも述べる)。なお、サ条約は、日本が放棄する千島列島と南樺太の帰属先については述べていない。
 (f)について。新南群島とは現在の南沙諸島のこと。そして、サ条約は日本が放棄する南沙、西沙両群島の帰属先についても決定していない。ここに、この両群島の領有権をめぐる今日のASEAN諸国と中国の対立の一原因がある。
 
 このように、日本は1952年の対日平和条約において千島列島の放棄という重大な過失を犯した。第2次大戦の終結に際しての国際交渉と国際関係に関する優れた研究である「ヤルタ−戦後史の起点」(藤村信、岩波書店、1985年)は、このことについて次のように論じている。
 「サンフランシスコ条約で千島全島の放棄を承認した日本は、それ以後、『四つの島々は日本固有の領土であったから千島諸島には含まれない』という苦しい論理を発見し、《北方領土》という、世界の世論にアピールするには説得力の弱い、概念の不明確な言葉をつくりだして、四つの島々の返還を求める運動を展開しています。しかし、これも矛盾した用語であって、『固有の領土』というからには千島の全島を含めなければならないでしょう」。
 この藤村の説明には若干の補足が必要だろう。
 
 藤村が「『固有の領土』というからには千島の全島を含めなければならない」というのは、1875年(明治8年)の日露両国の「樺太・千島交換条約」により、平和的に(つまり戦争の結果としての獲得物ではなく)、千島全島が日本領土となった事実を指している。
 したがって、従来の日本政府(主として自民党政府)は二つの矛盾を犯していることになる。
 すなわち、その第一は、サ条約で全千島を放棄しておきながら、あとになって南千島の国後、択捉を「固有の領土」だと主張して千島列島から除外しようとしていることである。
 その第二は、「固有の領土」の返還を求めるなら、なぜ全千島の返還を求めないか、という問題である。
 
 サ条約で日本が放棄した千島列島とはどこかという問題については、当時の西村熊雄外務省条約局長が同条約を批准するための衆院での審議(1951年10月)に際し、放棄した千島列島には南千島(国後、択捉島)が含まれると答弁している。
 そうした日本の主張が変化するのは、日ソ国交回復のための交渉が鳩山一郎内閣の手で始められた時(1955年)以降である。すなわち、交渉の始まる頃から、保守合同後の自民党内から「四島返還論」(北方領土返還論)が台頭し(55年11月には四島返還が自民党で党議決定された)、鳩山首相の対ソ交渉を制約した。この要求にソ連は反発、それが主因で国交再開交渉は難航した。
 その結果、到達した結論が、平和条約の締結を先送りしての、「日ソ共同宣言」(1956年)の合意であったが、この宣言は第9条で次のように述べている。「ソビエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」。ここで、ソ連が「返還」と言わず、「引き渡し」とした点にも注目する必要がある。 
 
 その後の日ソ交渉は、曲折を経たが、依然として領土問題が最大の障害になって今日まで妥結に至っていないことは周知の通りである。「四島返還」を主張する日本の立場にとっては、やはり「日ソ共同宣言」における歯舞・色丹返還の条項が弱みとなっていることは否定できない。当時の日ソ交渉では、むしろ領土問題をすべて未解決事項とした方が望ましかったと思う。
 しかし、問題の発端は、なんといってもサンフランシスコ平和条約において日本が認めた「千島列島の放棄」である。この時の吉田政権の無思慮、その結果としての国益の毀損あるいは外交的大敗北(主としてソ連に対する)を、今日あらためて検証する必要があろう。
 なお日本共産党は、千島列島は「1875年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約により、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」しており、したがって「四島返還」だけを求める日本政府の方針は大きな誤りで、「全千島の返還」を要求すべきだと主張している(しんぶん赤旗電子版、10年1月27日)。そうした要求の実現は不可能に近いと思うが、要求の論理としては最も筋が通っている。
 
 以上のように、戦後の日本はその建て直しの出発点において、吉田内閣の手で外交上の「大敗北」を招き、それによって戦後の日本の国際的立場を弱める大原因をつくってしまった。
 始めに紹介した自民党の小野寺五典元外務副大臣は、そういうことも知らずに、尖閣諸島問題で逮捕した中国漁船船長を釈放したこと(それで政府が尖閣諸島についての日本の領土的主張を引き下げたわけでもない)をもって「戦後外交最大の敗北」との非難を大上段で政府に浴びせた(私もTVでその場面を視聴した)。“無知なる者は(心臓が?)強い”、ということか。(この項 終り)
 
 《お断り》 当「診断録」は、このあと、急ぎの必要が起きた場合は別として、10日間ないし2週間休みとします(執筆者が学会誌への寄稿論文の締め切りを前にしているため)。ご了承ください。

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事