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尖閣諸島沖での(日本の巡視船への)中国漁船衝突事件(9月7日)のビデオ映像が無断でインターネット上に流出した事件(11月4日に判明)に関しては、政府がその一般公開を拒んできただけに、それにより「政府の危機管理の土台が根本から崩れた」とか、「政府の内部崩壊だ」といった耳目を驚かせる見方が政界やマスコミ上を飛び交った。
しかし、ちょっと冷静に考えればわかることだが、流出したビデオは、その存在自体も、そのおよその内容もすでに一般に知られていたことであり、なにも国家機密に属するようなものではない。したがって、それが政府の意図に反して公開されても、そのことでわが国の国益がとくに害されるようなものではない。たしかに菅直人内閣は中国を刺激することを恐れてこのビデオの一般公開を拒否してきた。その政府の方針が頓挫したことはたしかだが、その結果として(すくなくとも今までは)特別な事態は日中間に起きていないのである。 それなのに、いったい何故、何について、政界とマスコミはこのような大騒ぎをしたのか。 問題のビデオは海上保安庁・石垣海上保安部の巡視船乗組員が撮影し、同保安部が那覇地方検察庁に提出したもので、中国漁船が意図的に日本の巡視船めがけて衝突してきた様子が見て取れる内容のものだと前原誠司国交相(当時。海上保安庁の所管大臣)が明らかにしていた。
衝突してきた中国漁船の船長を逮捕した海上保安庁及び船長を起訴した那覇地検としては、予想される船長の裁判でこのビデオを船長の公務執行妨害容疑の証拠として使用するつもりであった。 このビデオについて自民党などはその公開を早くから要求してきたが、政府は当初はそれが公判の証拠物件であるとの理由でそれらの要求を拒否していた。しかし、9月24日に那覇地検が船長を処分保留で釈放した結果、船長の裁判はなくなり、したがってビデオ公開を拒否する政府の理由(法的理由)もなくなった。 そうすると政府は、こんどは「11月に横浜で開催のAPEC首脳会議が終わるまでは、中国を無用に刺激しないため」という外交上の理由をあげてビデオの公開に反対したが、国会の決議により、11月1日に衆参両院の予算委員会理事に限定して、編集されたビデオを公開したのである。 ビデオのネット上への流出は、この予算委員会理事への限定公開直後に起きた。その映像は5日にはすぐNHKなどで放送されたが、たしかに前原国交相(当時)らによって事前に告知されていた通りのものである。ただし、予算委員会理事に公開されたものが約6分に編集された要約版だったのに対し、流出したものは44分余のものであった。
この流出が明らかになると、中井治衆院予算委員長(民主党)は5日朝に鈴木久泰海上保安庁長官を国会へ呼び、「厳重に真相を究明してほしい。国会に申し開きが立たない」と流出経緯の調査を要求した(読売、5日夕刊)のを手始めに、石原伸晃自民党幹事長は「(国交相らの)罷免を要求する。国民をばかにしている。(問責決議は)当然だ」と述べ、井上義久公明党幹事長は「政府の責任は極めて重い。予算委員会で政府から説明を求めたい」と述べた(読売、同上)。 与党からも、枝野幸男幹事長代理は「過失で出たわけではないだろう。流れたことについて内閣として責任がある」との声が上がった(日経、7日)。 以上のような政界の反応は、ビデオの流出を「非」とし、流出を招いた政府の責任を問うものだった。同時に、石原自民党幹事長は「海上保安庁が撮影したすべてのビデオの全面公開を強く求めていく考えを表明」した(読売、同上)。
さらに“過激”だったのはみんなの党の渡辺喜美代表で、「菅政権の内部崩壊そのものだ。菅直人首相や仙石由人官房長官の言っていることが定まらない規律のなさに由来する。もし国民の生命にかかわる機密情報だったら本当に恐ろしいことだ」と述べた(msn産経ニュース、5日)。 この発言は、尖閣ビデオは「国民の生命にかかわる機密情報」では“なかった”にもかかわらず、あたかもそれと同性質の情報であるかのように聞く者を錯覚させた上で、「政権の内部崩壊そのものだ」と断じているのだ。これは詐欺的なレトリックであるとともに、かんたんに「政権の内部崩壊」などと言う渡辺代表の言葉がいかに軽いものかを痛感させる。 マスコミも渡辺みんなの党代表と同様に“過激”だ。読売はビデオの流出は「政府の危機管理の甘さや、公務員の情報管理のあり方が厳しく問われる事態だ」、「厳重に管理していたはずのビデオが流出したとなれば、政府の情報管理能力に大きな問題があったと言わざるを得ない」と断じた(5日夕刊、木下敦子署名)。また日経は「危機管理の土台が根本から崩れ落ちてしまった状態で、国際的な信用力の低下は免れない」と憂えた(6日、坂口祐一編集委員署名)。
だが、実際には、ビデオを扱った石垣海上保安部と那覇地検を通じて、「問題の映像にアクセスできた職員は合わせて数十人と見られる」(読売、7日)。つまり、なにも国家機密として当局者によって厳重に保管されていたわけではないのだ。言いかえれば、このビデオ映像は「リスク・マネジメント(危機管理)」の対象とされるほどの機密資料ではなかったのだ。 それは、本稿初めに述べたように、このビデオの存在とその内容の骨子がはじめから公表されていた(言葉でだけだが)からだ。それを「危機管理の甘さ」とか、「危機管理の土台が根本から崩れ落ちた」などと嘆くのは、勘違いジャーナリストの“騒ぎ過ぎ”というべきだ。 他方、永田町(国会のこと)やマスコミ以外では、公職者でもこの情報流出を「是」(ぜ)、「当然」と受け止めている人たちもいる。
石原慎太郎東京都知事は「これは内部告発だ。みんな知りたいことなんだから」と語っている(msn産経ニュース、5日)。要するに、役所であれ企業であれ、トップが表に出したくない内部情報でも、内部から「告発」というかたちで外部に流出するのは当然かつ健全な現象だと見るわけである。 また橋下徹大阪府知事は「プライバシーにかかわる個人情報が出るのはよくないが、それ以外の情報は国民の情報。世に出回る社会である方がよい」と述べた(同上、8日)。つまり、日本は北朝鮮や中国とは違うというまともな意見である。 海上保安庁へは、この問題についての電話やメールによる意見が約200件あったが、「そのうち約8割が流出を支持する内容だった」。しかし、「情報管理が甘いといった批判はわずかだった」という(同上、6日)。永田町やマスコミより余程まともだ。 それでは、ビデオの一般公開を拒否した際に政府がこだわった中国への外交的配慮とは何だったか。
それは、尖閣問題をめぐって9月に起きてしまった衝突と、尖閣諸島の領有権についての両国の主張の対立は仕方がないものとして、以後はこの問題の鎮静化を図ろう、そのためにはいたずらにこの問題を掘り起こすようなことは避けよう、という日中両国の暗黙の合意ができたからではないかと思う。 具体的には、日本による中国船船長の釈放の後も強硬態度を変えなかった中国に対して国際的な批判が高まった結果、9月末には中国も態度を軟化させはじめた(当「診断録」9月30日号参照)ために、話し合いによる問題鎮静化の見通しが生まれた。 その後、10月半ばにいたり、突如として中国内部の諸都市で反日デモが頻発し、日中和解への道が再び閉ざされたように見えたが、これは、その間に起きた中国人反体制活動家劉曉波氏へのノーベル平和賞受賞のニュースから国民の目をそらせるための、当局の暗黙の指導による陽動作戦であった(当「診断録」10月21日号参照)。
仮に、これらの反日デモが中国のナショナリスチックな若者による自発的な行動であったとしても、もはや中国政府としてはそれを奨励する立場にはなく、むしろそうしたデモの鎮静化を図りはじめていたと言える。 ただし、この間に、10月29日にハノイ(ベトナム)でセットされた日中首脳会談が、土壇場で中国によってキャンセルされる事件が起き、再び両国間の緊張が高まった。だがこの原因は、「国内で反日デモが相次ぐ中で、安易に日本の首相に会えば中国指導部内での立場が危うくなるだけでなく、世論が沸騰する」と危惧した温家宝首相側近の緊急判断によるものであった。 このためであろう、翌30日午前、「ブルネイのボルキア国王と懇談していた菅首相に温首相から歩み寄り、手を差し出した」とされる(毎日jp、4日)。 なお、以上に加えて、予定された首脳会談の直前に、、前原外相がクリントン米国務長官と会談し、尖閣諸島が日米安保条約の適用対象である点で合意し、その旨を公表したことが中国側を痛く刺激したようだ。
このような経過を見ると、私は尖閣ビデオの公開を躊躇した政府の判断は理解できる。
それでも、日本のマスコミはビデオは公開すべきだったし、それがネットに流出した今も全面公開すべきだという。例えば読売は社説(6日)で、「もし、これが衝突事件直後に公開されていれば、中国メディアが『海保の巡視船が漁船に追突した』などと事実を曲げて報道することはできなかったのではないか。これほど『反日』世論が高まることもなかったろう」と主張した。 しかし、こうした考えは中国の強引さを理解しない全くの“甘ちゃん”の意見だ。中国は尖閣諸島は中国の領土だと主張している。そこから、日本の巡視船が“中国の領海内で”中国の漁船に対し「ここは日本の領海だ、速やかに外へ出よ」と呼びかけたという解釈になり、そのこと自体が違法だという立場をとる。現に中国外務省は、ビデオについて、「日本の行為自体が違法だ。いわゆるビデオ映像でこうした真相を変えることはできず、日本側の行為の違法性は隠せない」とする報道官談話を発表しているのだ(msn産経ニュース、7日)。 今回のビデオ流出事件は、むしろその公開を政府に迫っていた野党やマスコミの攻勢をそらす結果をもたらした点で、一面では政府の立場を救ったとも言えるし、他方で政府は流出させた犯人の割り出しに懸命になることによって、国内に対しては情報管理への努力を示し、中国に対しては火消しの“誠意”を見せる努力をしているように思える。
そう考えると、この事件にはなかなか奥深いものがあると言えるのではないか。 (この項、終り) |
エコノミストの時評
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全く先生のおっしゃるとおりだと思います。政治家やマスコミが国家機密と、騒ぎ過ぎだと思います。国民の多くは冷静な判断をしていますね。今回の事件は先生のご意見どおりなかなか奥深きものがあり、熟慮することがたくさんあると考えます。
2010/11/14(日) 午後 9:31 [ 曳馬野旅人 ]