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菅直人首相は13日、APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議(横浜)に出席中のメドベージェフロシア大統領と会談、先に(11月1日)同大統領が日本の北方領土である国後島を訪問したことに対して抗議したのに対して、同大統領は「国後島はロシア領であるからロシア大統領が訪問するのは当然だ」と反論した。これは、いわば型通りの抗議と型通りの返答である。そうした応酬の上で、日露両国首脳は、両国の協力関係を発展させていくことで一致した(各紙、14日)。
菅首相のこうした抗議からは、北方領土問題を実際に解決しようという真剣さ、意気込みは感じられない。国会や国民、マスコミに向けて、一応の政治姿勢を示しただけのことと言っても過言ではなかろう。おそらく菅首相もこの領土問題を本当に解決できるとは思っていないのではないか。 そして、それは当然で、北方領土を日本の主張通りに解決することは、過去の関連国際条約から見て至難のことだからだ。日本の歴代内閣は、そうした真相に蓋をしてきた。 問題の核心は、「日本との平和条約」(いわゆるサンフランシスコ講和条約、1952年)と 「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」(日ソ共同宣言、1956年)、及び「樺太・千島交換条約」(通称。1875年)である。 平和条約はその第二章領域・第二条(c)で、次のように規定した。「日本国は、千島列島(the Kurile Islands、クリル諸島)並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」。すなわち、国後島、択捉島が千島列島の一部分(南千島)であるならば、日本はサンフランシスコ条約でその領有権を放棄したことになるのだ。日本政府は後にこれらの島は千島には属さず、日本固有の「北方領土」であるとの主張を行うに至ったが、同条約締結時にはそれを主導した米国も日本も上記両島は千島の一部だと認めていた。
すなわち、講和会議の冒頭でこの条約を説明したダレス米国務省顧問は、千島列島の範囲について次のように述べた。「第二条(c)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞群島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります」。すなわち、「ダレスは千島列島の範囲問題が歯舞群島問題だということを明確にした」のである(和田春樹『北方領土問題』、朝日選書、1999年 p.220)。
また、この会議に日本の首席全権として出席した吉田茂首相は、この領土問題について次のように演説した。 「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張は承服いたしかねます。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議も挟まなかったのであります。ただウルップ以北の北千島群島と樺太南部は、当時日露両国人の混在の地でありました。1875年5月7日、日露両国政府は平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。…千島列島および樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連に収容されたのであります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」(同上p.222)。 吉田はここで、択捉、国後両島は千島列島の一部であり、色丹島及び歯舞諸島は北海道の一部であると述べ、「千島列島の範囲についてはその時までの国際通念に完全に同調していた」のだった(同上、p.224)。
吉田が引き合いに出した1875年の日露両国の交渉とは、上述のいわゆる「樺太・千島交換条約」のことである。 なお、この「交換条約」についても、外交評論家の伊藤憲一氏は「千島列島がウルップ島以北の十八島をさすということは1875年の千島樺太交換条約に…明確に定義されている」と解釈・主張したが、この主張は「千島樺太交換条約の日本語訳文に含まれる誤訳に基づくもので、正文であるフランス語のテキストをみれば、クリル諸島(千島列島−引用者加筆ー)のうちロシアが所有する一部が日本に割譲されたということになるということがわかった」(p.288)。すなわち、この交換条約においても、ウルップ島以北は北千島であって全千島ではなく、それに隣接する択捉島と国後島は南千島、すなわち千島列島の一部であるととらえられていた、というわけである。 ちなみに、私が戦前・戦時の小学校及び中学校(旧制)で教えられたところでも、千島列島とは北海道からカムチャツカ半島に至る諸島とされていた。この点を確かめるために、当時の教科書(東京書籍附設『東書文庫』の所蔵本による)を調べた結果は次の通りであった。
小学校の教科書(尋常小学地理巻一、文部省、昭和15年=1940年)では、「千島列島は北海道本島とロシヤ領のカムチャッカ半島との間に連なり、択捉島その他、多数の島々から成り立っている」。なお、ここでとくに代表として択捉島があげられているのは、同島が千島列島の最大の島で、同島の紗那(しゃな)が千島の主邑(しゅゆう)であったからである。 また、中学校の教科書(守屋美津雄著『新選地理・日本編 中学校用』、修正版、帝国書院、昭和15年)では、第十章「北海道地方」の「概観」で、「北海道本島と千島列島から成る」とした上で、「処誌」の「千島列島」で「三十余の島々から成り、外側に日本海溝がある。…択捉島の紗那が主邑である」と記されている。すなわち、択捉島は千島の一部であるとされていた。 以上が戦前・戦時中における千島列島についての日本政府の定義であった。これは、サンフランシスコ条約における千島列島の範囲とほぼ同じである(ただしサ条約では歯舞・色丹は北海道の一部と解釈されている)。 さらに、当「診断録」10月3日号でも触れたが、サンフランシスコ条約の批准国会で西村外務省条約局長は千島について次のように答弁した。「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。…なお歯舞と色丹島が千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました」(和田、同上、p.225)。
要するに、日本はサンフランシスコ平和条約で択捉、国後を含む全千島列島(歯舞、色丹は含まれない)の領有を放棄したのである。ただし、これは日本による放棄であって、千島の帰属先については何も決定されていない(ソ連はサンフランシスコ会議には出席したが、1949年成立の新中国が会議に招請されていないことを理由として、条約の署名を拒否した)。 とにかく、これは当時の吉田自由党(今日の自民党の源流)政権が犯した戦後最大の外交的失策である。吉田茂元首相は後に自らの回想録である「回想十年」第三巻で、「ダレス氏が…三度目に来訪した時には、南千島が案文(平和条約の−引用者加筆ー)にいうところの千島列島に含まれぬことを明記されたいと要請した」と弁明したが、米国の外交文書にあるこの会談のメモその他から、「吉田の回想の記述は後の政治的考慮からする偽りの言葉である」ことが証明されている(和田、同上、p.210)。 下って、鳩山一郎首相(1955年の保守合同による自民党政権)が署名した「日ソ共同宣言」(1956年)では、「平和条約・領土」については次のように取り決められた。
「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との平和条約が締結された後に引き渡されるものとする」。 ソ連のこの領土についての方針が、自国は署名しなかったが、サンフランシスコ平和条約の内容に沿ったもの(ただし同条約では千島列島の帰属先は決定されていない)であることは明らかである。 この日ソ交渉に際して、日本国内とくに自民党内で、ソ連に対して国後、択捉島の返還をも認めさせるべきだとの論が台頭したので、鳩山全権団は「平和条約の交渉を継続する」という「共同宣言」部分の最初に、「領土問題を含む」との一句を挿入するよう求めたが、フルシチョフソ連共産党第一書記は次のように述べてこれを拒否した。
「この数語(領土問題を含む、という数語−引用者加筆ー)を削除してくれるように求めるのは本協定の解釈の面で将来紛争が起こる余地をとりのぞいておくためである。なぜならわれわれが一年有効の文書を締結するのではないからだ。おそらくこれは十年あるいは百年有効のものとなるだろう」(和田、p.259)。 こうして、ソ連側は「共同宣言」では、日ソ間の領土問題は歯舞、色丹両島の問題に限定したのである。 ちなみに、サンフランシスコ平和条約の批准後、そして日ソ交渉以前の段階では、日本でも「ソ連に対して要求できる領土問題は歯舞、色丹の返還だけという点で国会も一致していた」。すなわち「53年7月31日に衆議院は平和条約発効に伴い、残る領土問題の解決を政府に要望する決議を採択したが、そこでも沖縄、小笠原諸島とともに挙げられたのは、ハボマイ島、シコタン島のみであった」(和田、p.228)。
ところが、日ソ交渉の最中から、上述したように自民党内から四島返還論が台頭し、さらに鳩山首相、石橋湛山首相(病気のため2ヵ月で辞任)を継いだ岸信介首相は、日ソ共同宣言後の57年5月16日に参議院で、「ソ連が南千島を返還しない限り平和条約を結ばない」と述べるに至った。そして、池田勇人内閣の時(61年)に、サンフランシスコ平和条約における千島列島放棄の条項との矛盾を解消しようとして、国後、択捉両島と歯舞、色丹島を含む四島を「北方領土」と呼ぶやり方が生み出されたのである(和田、p.275)。 以上のような経過を見れば、歴代の日本政府が対日平和条約の領土条項と、日ソ共同宣言の領土条項を無視しながら北方領土返還要求を行ってきていることが明白になる。そうした点はマスコミにも反映している。例えば最近の読売(10年11月11日)は「基礎からわかる日露関係」という解説を掲載したが、その中の「北方領土問題とは」においてはサンフランシスコ平和条約のことには全く触れていない。
逆に、ロシアはこの条約と宣言(さらにはその背景をなすヤルタ協定など)をしっかりと踏まえて対日交渉に当たっていることは疑い得ない。そうであれば、日本が19世紀の樺太千島交換条約などを根拠に択捉、国後両島(南千島)を含む四島の返還をロシアに要求しても、ロシアがそれに応ずることはないと見るべきだ。 したがって、日本が北方領土(大まかに南千島)の返還を要求し(そのこと自体は正しい)、本当にその実現を目指すなら、まずサンフランシスコ平和条約の主要な締結国 (米英仏など)との間で、同条約の領土条項(日本の千島列島の放棄)の修正あるいは解釈の変更(択捉、国後両島を千島列島に含めないように)を交渉して同意を取り付け、その上でロシアと平和条約締結を交渉するような方法、すなわち問題の条約上の、あるいは法的な解決を図るべきだと思われる。そうすれば、日本の対露領土要求は国際的なバックアップを得ることになり、より強力なものになるだろう。(この項 終り)
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エコノミストの時評
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はじめまして。北方領土問題について政府や外務省、それにヨイショをすることで保身を考えている学者、などのゴマカシの多い説明などに惑わされずに、和田氏などの書物でこの問題を正確に理解しようとされている貴方のような人がおられることを嬉しく思います。
ただ、その解決方法には無理が有るように思います。たとえ米英などの同意を取り付け、それをバックボーンに日本がいくらロシアに迫っても、ロシアとしては同意しません、と言われればそれまでだからです。つまり<話>がそこで終ってしまうわけです。そこで私としては、サ条約に調印した<連合国>とロシアとで<千島列島>の範囲についての定義を明確にするよう、要求するしかないと思います。また連合国はそれをする責務があるのは明らかであり、なぜなら自分たちの作ったポツダム宣言に基づく対日講和条約(サ条約)なのだから、そこに<曖昧さ>が有れば明確にしなければならない責務が有るのは当然だからです。
2010/11/17(水) 午後 11:53 [ rompa ]
(つづきです)そしてそこでの協議で<明確な範囲>が決定したのならば、その決定の中身がどんなものであれ、<それ>を受け入れなければならない立場(ポツダム宣言を受諾した敗戦国)である、という<厳粛なる事実>を忘れてはならないでしょう。
どうも日本には、日本がどういう<立場>でこの条約に調印したのかあるいは調印させられたのか、という<基本的な立場>を忘れてしまっている人が多いような気がします。
2010/11/18(木) 午前 0:21 [ rompa ]