文太郎の日記帳

景気、財政赤字、国際経済、政治・政局、世界情勢、日米関係など現代の諸問題を広い視野で解明します。

現代短評

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 最近また領土問題をめぐり、わが国とロシア、韓国、中国との間の緊張が高まっている。すなわちメドベージェフ・ロシア首相による国後島訪問(7月3日)、李明博韓国大統領による竹島訪問(8月10日)、香港の反日民間団体のメンバー7人の魚釣島(尖閣諸島)上陸(8月15日)がその発端である。
 これらの島が日本の領土であることは歴史的経緯で証明できるが、領土問題というのは当事国間の戦争に最も発展しやすい問題であるとともに、国際政治においては戦争の結果によって確定されるのが通常である。その点で、第2次大戦後の日本の領土の範囲を決めた対日講和条約(通称サンフランシスコ条約、1951年9月)が極めて重要である。 

 ところが日本政府はもちろん、領土問題での対外タカ派の人々もこの講和条約(以下では「サ条約」と略す場合もある)についてはほとんど言及しない。それはなぜかというと、サ条約を結んだ当時の吉田茂政権(自民党の前身である自由党政権)が「千島列島の放棄」という致命的な失敗(誤り)を犯したために、この条約について触れたがらない人が自民党をはじめとして多いためだ。
 だが、戦後日本の領土問題の理解のためには、連合国が日本降伏の条件を決めたポツダム宣言からサ条約締結に至るまでの国際関係の理解が不可欠だ。私は以前に当「診断録」でこの問題を取り上げた(2010年10月3日号、同11月15日号ほか)が、以下にこの10年10月3日号の「診断録」の要点を採録するかたち(部分的に修正あるいは加筆して)で、問題の要点を説明したい。

 第2次大戦終結に伴う日本の領土問題に関する国際取り決めの直接の出発点は、連合国が日本政府に「戦争の終結」の決定と「全日本国軍隊の無条件降伏」を迫った「ポツダム宣言」(1945年7月26日、原署名国は米国、中華民国、英国。後にソ連が参加。日本は同8月14日にこの受諾を通告)である。
 この宣言は第8条で、戦後における日本の領土について、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及ビ四国並ビニ吾等ノ決定スル諸小島ニ極限セラルベシ」(六法全書所載の文言による)と指定した。問題は、この「諸小島」の範囲をどう決定するかということで、それは連合国と日本の平和条約の課題として残された。
 この平和条約は、戦後の連合軍(実質的には米軍)による日本占領の時期に、サンフランシスコにおいて、全連合国との「全面講和」ではなく「片面講和」(当時は単独講和といわれた)として結ばれた。

 この平和条約が「全面講和」とならなかったのは、1949年に北京で成立した新中国政権(中華人民共和国)を米国や日本が承認していなかったために(それまでの中華民国・国民党政権は台湾に逃避)、サンフランシスコ講和会議に出席すべき中国政府を北京、台湾両政府のいずれにするかについての連合国間合意が成立しなかった(英国はすでに北京政権を承認)ことによる。その結果、この講和会議は対日戦争の一主役であった中国の代表が参加しない不正常なものとなった。
 またソ連(当時の国名)、ポーランド、チェコスロバキアの東側3ヵ国は、サンフランシスコ会議には参加したが、中華人民共和国の会議への不参加を理由に会議の無効を主張し、署名を拒否した(当「診断録」10年8月15日号参照)。
 このような「片面講和」のひずみを是正するため、その後「日ソ共同宣言」(1956年10月9日、日本代表は鳩山一郎首相)や「日中共同声明」(1972年9月29日、日本代表は田中角栄首相。)がソ・中両国との間で合意された。 

 さて、サンフランシスコ条約においては、ポツダム宣言第8条に述べられた戦後日本の領土について、第2章「領域」第2条で次のように決定した。
 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 
 (d)〜(e)は省略
 (f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 このサンフランシスコ条約の領土条項については、次の諸点についてコメントしておく必要がある。
 (a)について。日本は独立する朝鮮に対し、済州島、巨文島及び鬱陵島を放棄することを受け入れたが、竹島については領有権を放棄していない。
 (b)日本は台湾及び澎湖諸島(台湾西方海上)を放棄したが、尖閣諸島の領有権は放棄はしていない。なお、放棄した台湾等の帰属先については、この条約は定めていない。
 (c)日本は千島列島を放棄した(日本固有の領土であるにもかかわらず)。地理的には千島列島とは、本来は国後、択捉から占守島(しゅむしゅとう)に至る列島を指す。したがって、いま国後、択捉島を含む諸島(歯舞、色丹島に加え)を「北方領土」と称して(南千島とは言わないで)ロシアに返還を求める日本の立場は、サ条約を無視していることになり、国際的にははなはだ弱いものである(この点は後でも述べる)。
 なお、サ条約は、日本が放棄する千島列島と南樺太の帰属先については述べていない(つまりソ連に割譲するとは決められていない)。
 (f)について。新南群島とは現在の南沙諸島のこと。そして、サ条約は日本が放棄する南沙、西沙両群島の帰属先についても決定していない。ここに、この両群島の領有権をめぐる今日のASEAN諸国と中国の対立の一原因がある。

 このように、日本は1951年の対日平和条約において、竹島と尖閣諸島の放棄はしなかったが、千島列島の放棄という重大な過失を犯した。第2次大戦の終結に際しての国際交渉と国際関係に関する優れた研究である「ヤルタ−戦後史の起点」(藤村信、岩波書店、1985年)は、このことについて次のように論じている。
 「サンフランシスコ条約で千島全島の放棄を承認した日本は、それ以後、『四つの島々は日本固有の領土であったから千島諸島には含まれない』という苦しい論理を発見し、《北方領土》という、世界の世論にアピールするには説得力の弱い、概念の不明確な言葉をつくりだして、四つの島々の返還を求める運動を展開しています。しかし、これも矛盾した用語であって、『固有の領土』というからには千島の全島を含めなければならないでしょう」。
 この藤村の説明には若干の補足が必要だろう。

 藤村が「『固有の領土』というからには千島の全島を含めなければならない」というのは、1875年(明治8年)の日露両国の「樺太・千島交換条約」により、平和的に(つまり戦争の結果としての獲得物ではなく)、千島全島が日本領土となった事実を指している。
 したがって、従来の日本政府(主として自民党政府)は二つの矛盾を犯していることになる。
 すなわち、その第一は、サ条約で全千島を放棄しておきながら、あとになって南千島の国後、択捉を「固有の領土」だとしてその領有権を主張するために、この2島を千島列島から除外しようとしていることである。
 その第二は、「固有の領土」の返還を求めるなら、なぜ全千島の返還を求めないか、という問題である。

 サ条約で日本が放棄した千島列島とはどこかという問題については、当時の西村熊雄外務省条約局長が同条約を批准するための衆院での審議(1951年10月)に際し、放棄した千島列島には南千島(国後、択捉島)が含まれると答弁している。なお、戦前の日本の小学校・中学校の地理の教科書(私もそれで教わった)では、千島列島とは北海道からカムチャツカ半島にいたる諸島とされていた(「診断録」10年11月15日号参照)。
 そうした日本の主張が変化するのは、日ソ国交回復のための交渉が鳩山一郎内閣の手で始められた時(1955年)以降である。すなわち、交渉の始まる頃から、保守合同後の自民党内から「四島返還論」(北方領土返還論)が台頭し(55年11月には四島返還が自民党で党議決定された)、鳩山首相の対ソ交渉を制約した。この要求にソ連は反発、それが主因で国交再開交渉は難航したのである。

 その結果、到達した結論が、平和条約の締結を先送りしての、「日ソ共同宣言」(1956年)の合意であったが、この宣言は第9条で次のように述べている。「ソビエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」。ここで、ソ連が「返還」とは言わず、「引き渡し」としている点にも注目する必要がある。 

 その後の日ソ交渉(ソ連解体後は日露交渉)は、曲折を経たが、依然として領土問題が最大の障害になって今日まで妥結に至っていないことは周知の通りである。「四島返還」を主張する日本の立場にとっては、やはり「日ソ共同宣言」における歯舞・色丹返還の条項が弱みとなっていることは否定できない。当時の日ソ交渉では、むしろ領土問題をすべて未解決事項とした方が望ましかったと私は思う。
 しかし、問題の発端は、なんといってもサンフランシスコ平和条約において日本が認めた「千島列島の放棄」である。この時の吉田政権の無思慮、その結果としての国益の毀損あるいは外交的大敗北(主としてソ連に対する)を、今日あらためて検証する必要があろう。
 なお日本共産党は、千島列島は「1875年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約により、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土して確定」しており、したがって「四島返還」だけを求める日本政府の方針は大きな誤りで、「全千島の返還」を要求すべきだと主張している(しんぶん赤旗電子版、10年1月27日)。そうした要求の実現は現実には不可能に近いと思うが、要求の論理としては最も筋が通っている。

 以上のように、戦後の日本はその建て直しの出発点において、吉田内閣の手で外交上の大失策(対連合国とくに対ソ連)を犯し、それによって戦後の日本の国際的立場を弱める大きな原因をつくってしまったのである。
 こんご日本としてはサンフランシスコ条約を一つの重要な基礎として竹島、尖閣諸島の領土権を主張するとともに、千島列島についてはその帰属先が同条約では未定であることを根拠として再交渉を主張するのが國際条約上でも筋が通ると私は考える。(終り)
 

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尖閣諸島は,1885年から日本政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行い,単に尖閣諸島が無人島であるだけでなく,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で,1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って,正式に日本の領土に編入しました。

この行為は,国際法上,正当に領有権を取得するためのやり方に合致しています。
同諸島は,それ以来,歴史的に一貫して日本の領土である南西諸島の一部を構成しています。

なお,尖閣諸島は,1895年5月発効の下関条約に基づき,日本が清国から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれません。
また,サンフランシスコ平和条約においても,尖閣諸島は,同条約第2条に基づいて日本が放棄した領土には含まれていません。
尖閣諸島は,同条約第3条に基づいて,南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ,1971年の沖縄返還協定によって日本に施政権が返還された地域に含まれています。

【サンフランシスコ平和条約第2条】
日本国は,台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を

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