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このところ政界やジャーナリズムそしてブログで政府紙幣発行論をめぐる賛否両論が盛んである。前にもこのブログで書いたが、私は政府紙幣について考えること(研究すること)は必要であると考えている。
しかし、人類はすでに紙幣の発行、あるいは一般に通貨の供給について数多くの経験を重ねてきた。いま紙幣発行について考えるに際しては、そのような経験、あるいはそれらの経験から引き出せる理論を踏まえるべきだということも私は主張している。その点で、前に紹介した「政府紙幣発行の財政金融上の位置づけ−実務的観点からの考察−」(財務省財務総合政策研究所のディスカッションペーパー)などは、実務的検討とことわっているが、大いに参考になる。
ところが、政府紙幣をめぐる論議の一方の主役である発行推進論者の議論がいかにも便宜的かつ陳腐なのだ。その代表例として、推進論の最近におけるいわば火付け役で、かなりの信者を集めている(と見える)丹羽春喜の議論(たとえば「月刊日本」平成19年10月号)をとりあげてみよう。
丹羽の説くところは、要するに国の新しい財源として政府紙幣の発行を行うべきだ、ということである。すなわち「インフレ・ギャップ発生の怖れが無い現在のわが国のような状態のときには、財政政策の財源は、基本的には、政府紙幣を含む政府貨幣(日銀券のような銀行券ではない)についての貨幣発行特権の発動にこそ依拠するべきなのである」(丹羽、同上)と。
ここに見られるように、丹羽は政府紙幣(彼は広く政府貨幣と述べている)の発行を財政上の手段として、つまり、課税なしに政府が財政収入を得る手段として、丹羽自身の言葉によると「打ち出の小槌」として、考えているのである。
このような議論は、政府紙幣発行反対論者にとって、論破するのにもっとも容易な議論である。なぜなら、財政収入を得るために貨幣を創り出すやり方は、金属貨幣時代における王(King)による貨幣悪鋳(鋳貨の含有金属量を減らす)であれ、近代における政府紙幣の発行であれ、大部分は放漫財政と貨幣価値の低落を引き起こしたからである。そもそも人は、「打ち出の小槌」と聞けば、それだけでこの議論をうさんくさいものと感ずるであろう。
だが、繰り返しになるが、私は紙幣発行一般に反対するわけではないし、紙幣をめぐる議論は避けるべきではないと考える。しかし、この問題は基本的にはなによりも貨幣供給のあり方の問題、すなわち貨幣論の問題なのであり、財政問題に従属させて考えるべき問題ではない。
前回の記事で、私が植民地時代におけるアメリカの紙幣発行の例を紹介したのも、そのような考えからである。当時の植民地アメリカでは通貨不足が深刻で、以上のような州植民地政府による紙幣発行は、財政需要を満たす目的もあったが、そのような状況での貨幣需要に応ずるためであった。
しかも、前回には触れなかったが、マサチューセッツ植民地政府紙幣は、当初はその通貨としての信認を獲得するために、紙幣は「いずれ硬貨によって支払われるという約束」のもとに発行された(ガルブレイス、「マネー」)。だが、やがて紙幣の放漫な発行が始まり、紙幣の硬貨にたいする減価が進行した次第である。
これに対し、詳細な紹介は省略するが、「中部の諸植民地は紙幣を運用するにあたって、今日考えてみても驚くほど上手な、また用心深い方法を採用した」という(ガルブレイス、同上)。
なお、丹羽は「政府貨幣」を発行するにあたっては、現実に紙幣を発行する必要はなく、政府が日銀に「政府貨幣の発行権」を売り、その代価を日銀における政府口座で受け取ればすむ、と述べている。私にはこのアイディアは貨幣論としては興味がある、と付け加えておく。
他方で、政府紙幣発行に対する反対論者に対しては、あたりまえではあるが、現在の日銀券(一般に中央銀行券)も紙幣であることを再認識すべきだ、と述べておきたい。
このところ、私は予定以上に政府紙幣論をとりあげる結果となった。先になってまたこの問題に立ち返るが、次回からはまた世界不況問題に論議を戻したい。 (この項、終り)
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お初に*^:^確かに丹羽理論は陳腐化もね?だけれども、今日本は大変良いチャンスの時期を迎えている事は確実でしょう。
優秀で勤勉な日本人を失業地獄に置いておく手は無いでは有りませんか?もったいないでしょう!!
政府発行通貨でも特別な役目をもったもの、それと特別な配布方法、それと、人材開発政策が有れば、あなたの方が陳腐になりませんかね〜〜〜
2009/2/6(金) 午後 8:25 [ sanmariko ]