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日本銀行の新しい総裁に黒田東彦アジア開銀総裁、副総裁に岩田規久男学習院大教授と中曾宏日銀理事が事実上で決まり、14,15日の衆参両院本会議でそれぞれ承認される(衆院では14日に承認された)。こうして、「物価の2%上昇」を明確に目標として掲げる“黒田日銀”がスタートすることになる。黒田氏は3月4日の衆議院議員運営委員会での所信表明において、「デフレ脱却の責務は日銀にある」と明言している(日経、4日)。
果たしてこの新日銀は日本経済を長期のデフレから脱却させることが出来るだろうか。私の結論は「ノー」である。
この問題を考えるにあたっては、なによりも「デフレとはなにか」を正しく理解することが必要である。この点については、次の説明が簡にして要を得ていると言えるだろう。
「デフレーションとは本来インフレーションと反対の状態、すなわち通貨収縮による物価水準の下落を意味していた。…しかし、第2次大戦後の管理通貨制度の採用と、現代経済の価格・賃金の下方硬直性が顕著となり、経済に超過供給が存在する場合でも、物価は下落しなくなった。その結果、デフレーションは産出量水準の低下や失業の増加など景気後退現象を指すようになり、物価変動に関するインフレーションとの対称性は失われるようになった」(「体系経済学辞典」第6版、東洋経済新報社、1984年)。つまり現代においては、デフレとはなによりも経済の収縮を意味し、単純に“デフレはインフレの逆”、あるいは“インフレはデフレの逆”ではない、ということだ。
なお、上記にある「物価水準の下落」とは年間に物価が5%も10%も下落するような管理通貨制以前の時代の現象であり、「物価は下落しなくなった」とは、かつてと比較して現代では物価が下がりにくくなり、下がる場合でも著しく小幅になったという意味である。
1990年代半ば以降の日本のデフレーションにおいても、それが通貨の収縮によるものであったとは言えない。この時期の日銀の金融政策について、必要なときにおける金融の緩和が十分でなかったと批判する意見もあるが、少なくとも日銀がこの間に通貨の収縮に動いたことはない。
したがって、この時期のデフレは経済における「超過供給の存在」(上記)、言いかえれば需要の不足が続いたことがその基本的な原因だと考えなければならない。問題はそうした長期にわたる需要の不足はなぜ生じ、続いたのか、ということである。私はその原因として、人口の減少及び円高の作用などの国際的な問題(国際通貨体制の不安定化など)をあげてきた(当「診断録」2月3日号)。退任する白川日銀総裁も2012年6月4日の講演で、「少子高齢化とグローバル化という構造変化への対応が遅れていることが、低成長、ひいてはデフレの基本的な原因」と述べている(ロイター、12年6月4日)。
白川氏があげた「グローバル化への対応の遅れ」が何を意味するかは不明だが、私は変動相場制の下での無秩序な為替変動を容認してきた現在の国際通貨体制が過度の円高と、それによる輸出の抑制(対外需要の減退)及び物価の低下傾向(輸入物価の低下などによる)をもたらしたと理解する。
すなわち、現在の主要国通貨当局(政府及び中央銀行)は、「為替相場は市場が決める」との口実の下に、投機による為替相場の変動をも容認し、また過度の相場変動を抑えるための通貨当局による市場への介入を事実上で禁止してきた。日本の円は、そうした投機と、それを容認した外国当局(とくに米国)の政策の犠牲になってきたと言える。
もし、ある水準以上の円高になることを抑える通貨当局の市場介入が制約なしに行われていたならば、過度の円高が抑えられただけではなく、そうした市場介入(ドル買い)による市場への円資金の供給により、金融も自動的に緩和されて、そのことも金利の低下と円高の緩和に寄与しただろう。念のために付け加えるが、為替市場での介入操作は外国為替資金特別会計(財務省)の責任すなわち政府の責任で行われるものだ(その執行を日銀が受け持っている)。
もちろん、為替市場への介入を無制限に容認すれば、輸出促進を狙っての通貨安を推進する国が出てくる可能性がある。そうした過度の市場介入を防ぐためには、各国間少なくとも主要国間で為替相場体系についての大まかな合意が必要である。そうしたことが容易でないことは、固定為替相場制が崩壊(1973年)してからの国際通貨史を見れば明らかだが、無制約な変動相場制のマイナスが明白になった今日では、そうした合意を再建する努力が必要だ。そうしたことが真の国際協力であり、「為替相場は市場に委ねるべきだ」と確認するだけなら、わざわざG7とかG20などを開いて議論する必要などない。G7やG20が形式化したと言われるようになったのも当然である。
EU(ヨーロッパ連合)が固定相場制の崩壊以後に共通通貨ユーロの創設に動いたのも、地域的にでも為替相場の安定を実現しようとしたからである。
以上、要するに、近年における日本のデフレは、基本的には国内と国際におけるいわば構造的要因がもたらした需要の不足によるものであり、日銀の収縮的金融政策の結果ではなかった、ということである。したがって、いまここで日銀が物価の2%上昇を目指して無制限の金融緩和策を推進して、短期的には物価を上昇させることができても、それでデフレの根因である長期的な需要不足を解消することはできないのだ。ところが黒田次期日銀総裁等は、2%の物価上昇さえ達成できればそれで即デフレ脱却だと考えているようである。つまり、インフレはデフレの逆だという古典的な教義を信じているようなのだ。
もっとも黒田氏は、慎重にデフレ脱却に際しての政府の役割についても言及している。すなわち同氏は上述の衆院議運委における所信表明の中で次のように述べている。「金融政策は政府の経済政策と整合性を持って運営することでより高い効果が発揮できる。…政府は機動的な財政政策、成長力・競争力強化、中長期的な財政健全化に取り組むことになっている。…金融緩和と並行して、政府が実需をつくりだし、消費・投資の拡大を通じて賃金・雇用を改善することができれば、さらに物価上昇につながる好循環も期待できる」と。つまり、実需と成長をつくり出す責任は政府にあるとも言っているのだ。
では、物価2%の上昇を目指す日銀の金融施策は現実になにをもたらすのか。金融の超緩和は、現在すでに低い金利をさらに押し下げ、日本での資金運用よりは相対的に高い金利国での資金運用を促し、また低い金利でも元本が安定している国債などへの投資よりも、元本割れのリスクがあってもリターンが大きい資産(株式や不動産等のいわゆるリスク資産)への投資を刺激する。前者は円売り・外貨買いによって円安をもたらし、後者は株や不動産の価格を上昇させる。そして円安は、輸出企業の収益改善(為替益)と輸出増によっても株価を上昇させる、等々。
安倍政権の発足後現在まで、現実の金融政策はそれほど変化していないが、政府が日銀に徹底した金融緩和政策の実施を命ずるというので、その期待(予想)で円安・株高が進行しているのである。ただし、この間に米国など外国でも株価が上昇しており、それによるドル高の影響で円安が促進されている部分もある。
そして円安は、円建て(円換算)での輸入価格を上昇させて、その面から国内での物価を押し上げる。また不動産価格の上昇は、建築費や家賃の上昇を促進する。政府による2012年度の大型補正予算等による景気刺激策も、当面の景気を押し上げる効果を持ち、その面から物価の上昇を強めるだろう。そうした点で、私は安倍政権の脱デフレ策は当面の景気回復の促進と物価の上昇をもたらすと見る。
だが、それだけでは長期的な需要不足=デフレの要因を克服することにはならない。例えば企業は、成長の長期的持続を確信しなければその設備投資と雇用を本格的に増加させはしないだろう。安倍政権も長期的な「成長戦略」を策定すると言っているが、その内容は乏しい。
他方で、現在のような手放しの円安促進策(金融政策を通ずる)と物価上昇促進策には大きなリスクが伴っている。
仮に年間の物価上昇率が2%になったと仮定し、それが長期的に続くとすると、合計の上昇率(複利式で計算)は10年では21.9%に達する。すなわち、現在の例えば月間10万円での生活内容を維持するには、10年後には12万2000円近くを必要とするということだ。
それは円の購買力の低下、すなわち通貨価値、貨幣価値の低下にほかならない。そうなれば、円安は一層進む(外貨の貨幣価値は変わらないとすれば)わけだし、さらに円を忌避する動き、すなわち円からの逃避が進むだろう。そうした中では日本の長期国債の相場は下がり、その利回りの上昇が進む(それは長期金利全般を上昇させる)。こうして国債の発行や利払いは困難となり、いよいよ財政破綻が表面化するだろう。
要するに、円高是正の範囲での円安推進は是認されるが、無制約の円安促進策(安倍政権が現に推進し、黒田日銀がそれに迎合する政策)はとるべきではないということだ。いま現在の円安進行にも、すでに円の通貨価値下落を理由とする“円からの逃避”という要因が働き始めているかも知れない。日本の動きとは逆に、例えば最近の米国では3月8日(現地時間)の発表で雇用の改善が進んだことが明らかになって米国経済への信用が若干ながら回復し、そのためにNY株価もドル相場も上昇した。では、いったい最近の円の下落は日本経済の何を表しているのか?
ちなみに世界のファンドの動きを見ると、世界最大の政府系ファンドであるノルウェーの「政府年金基金グローバル」(SWF)のCEOは3月8日のインタビューで、「リスク軽減の投資戦略」として、「ドルと円、ユーロ、ポンド建ての資産を減らす」との方針を明らかにした。このCEOはその理由として、「これらの主要4通貨には、政府債務、民間部門の負債、非伝統的な金融政策、成長と人口構成の特徴という点で構造的な問題がある」と述べている(Bloomberg、3月11日)。
長期的あるいは短期的のいずれにせよ、現にとられつつあるような無制限の金融緩和と拡張的財政政策が壁に打ち当たることは避けされないだろう。(終り)
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