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麻生副総理・財務相は7月29日に都内で開かれたシンポジウム(注)で憲法改正について発言し、改憲は静かにやるべきだと強調した中で、「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法は変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と述べた(朝日新聞DIGITAL、8月1日2時)。
(注)ジャーナリストの櫻井よし子氏が理事長を務める「国家基本問題研究所が開いたもので、桜井氏が司会をし、麻生氏のほか、西村真悟衆院議員(無所属)や笠浩史衆院議員(民主)らがパネリストを務めた」(同上)。
ところが麻生氏は、あたかも「ナチ(注)の手口に学べ」と言わんばかりのこの発言が内外の厳しい批判を招くと、8月1日には一転して「私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾である」との弁明を公表した。その本文部分の全文は次の通り(同上、1日11時)。
「私は、憲法改正については、落ち着いて議論することが極めて重要であると考えている。この点を強調する趣旨で、同研究会においては、喧噪にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。私がナチス及びワイマール憲法に係る経緯について、極めて否定的にとらえていることは、私の発言全体から明らかである。ただし、この例示が、誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい」
(注)ヒトラーが率いたNSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、ナチオナル・ゾチアリスティッシェ ドイッチェ アルバイター・パルタイ =国家社会主義ドイツ労働者党)の略称(蔑称の意味も)で、ナチスあるいはナチ党と呼ばれる。
この弁明(弁解)で、麻生氏は「喧噪に紛れて……進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下の…経緯をあげた」と述べているが、上段で見たシンポジウムでの発言―「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法は変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」を、「悪しき例としてあげた」とは、まさに黒を白と言いくるめようとするナチまがいの手口である。それで「誤解を招いた」などと強弁するとは、卑怯以外の何ものでもない。
麻生氏が無知であることは、彼が前に首相であった時(2008年9月〜09年9月)に天下に明らかになったが、無知に加えて彼が卑怯者であることが今回明らかになったわけだ。
しかし本稿では、主要閣僚である麻生氏の無知・卑怯者ぶりを弾劾するよりは、むしろナチスがワイマール憲法を改正するのではなく、それを蹂躙し、実質的に葬り去った無法な手口を振り返っておきたい(以下、主として石田勇治『20世紀ドイツ史』《白水社、2005年》による。ページ数は同書のもの)。
「1920年代末にナチ党が彗星のごとく立ち現れた背景には、共和国末期の混乱した政治社会状況があった。世界恐慌下で失業者が急増し社会不安が増大したにもかかわらず、政府は有効な手だてをうてなかった。大衆は将来への展望を失ったが、既存政党は個別利益とイデオロギーをめぐる対立から分裂を繰り返し、かれらに政治的受け皿を提供できないでいた。こうしたなか、農民や手工業者、小規模経営者など中間層を中心に支持者を広げていたナチ党は徹底した抗議政党として大衆にアピールし、労働者や知識層を含む広範な社会階層を取り込む国民政党となっていった」(p.54)。
ところで、ナチ党は1932年7月の総選挙で総投票の37.4%を獲得して第1党となった(共産党も得票率14.5%と躍進した)が、パーペン内閣が下野しないで議会を解散して行った同年11月の総選挙では得票率を33.1%に減らした(共産党はさらに16.9%に得票率を伸ばした)。
「経済界の一部は、すでにナチ党の運動に陰りの見られた1932年11月にヒトラーを首班に指名するようヒンデンブルク大統領に懇請していた。選挙のたびに共産党が票を伸ばす状況にあって、ヒトラー政権は『赤色革命』を封じ込める有効な手段と考えられた。…大衆基盤を持つヒトラーを国家改造の最後の切り札と見た大統領は(33年1月に…引用者の加筆)ヒトラーを首相に任命した」(p.54)(注)。
(注)ワイマール憲法(第1次大戦敗戦後の1919年8月に古都ワイマール(チューリンゲン州)で開催されたドイツ憲法制定議会が制定した憲法)は、当時は模範的な民主的憲法とも言われたが、直接選挙で選ばれる大統領(国家元首)に首相の任免権や憲法停止の非常大権を与えるなど、過大な権限を与えるという欠陥を持っていた。
ヒンデンブルク大統領(第1次大戦におけるタンネンベルクの大会戦でドイツ軍司令官としてロシア軍を撃破し、ドイツの国民的英雄となった将軍。戦争末期には参謀総長、元帥)はこの大統領権限を行使してヒトラーを首相に任命したことを手始めに、数々の強権発動を行った。
「ヒトラー政権はナチ党と国家人民党との連立政権として発足した。両党の議員あわせても国会の過半数を制することのできない少数派内閣であり、…11名の閣僚のうちナチ党員はヒトラーを含めて僅かに3名だけである。…政権を手にしたヒトラーは首相就任演説で『国民革命』を唱え、マルクス主義と民主主義の撲滅を宣言した。このときプロイセン州(当時ドイツ最大の州で、州都は国の首都でもあったベルリンー引用者による加筆)内相となって警察を配下においたゲーリング(ヒトラーの腹心で後にその第1後継者に指名された。空軍司令官も務めた国家元帥―引用者加筆)は、突撃隊と親衛隊(両者ともナチ党の私兵的軍事組織―引用者加筆)による補助警察を組織して反対派の制圧に乗り出した」。
そうした中、33年の「2月末に何者かの手によって国会議事堂炎上事件が発生すると、ヒトラーはこれを共産党による策謀と決めつけ、弾圧した。そして大統領を動かし、『民族と国家を防衛するための大統領緊急令』を公布し、人身の自由、言論・集会・結社の自由など共和国憲法が定めた基本権を停止した」。
以上と平行して、「ヒトラーは首相就任直後、国会を解散し選挙日を3月5日と定めた。…だが所期の目的である単独過半数を得られず、国家人民党とあわせてようやく過半数を超えたに過ぎなかった。すべての国会議員が拘束された共産党は後退したが、社会民主党は党勢をほぼ維持した」。
「あくまで自らの手に権力を集中させたいヒトラーは召集された国会に『授権法』(全権委任法)を提出した。これは国会や大統領の合意抜きに政府が法律を制定することを認めるもので、可決には憲法改正に必要な国会での3分の2の賛成投票を必要とした。共産党議員のいない国会で反対の立場を表明したのは社会民主党だけであった。…他党はすべてナチ党の威嚇と甘言を受けて賛成した。授権法は国会の立法権の否定を意味し、ワイマール共和国の議会制民主主義は自らその命脈を絶った。4年間の時限立法である同法は、その後繰り返し更新され、ナチの独裁支配に合法性の体裁を与えたのである」。
上記で見てきたようなプロセスが、麻生氏が言う「ある日気づいたら、ワイマール憲法は変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった」という「改憲」の真相である。実際には、これはヒトラーとナチによる策謀と弾圧の下で、そして多くのドイツ人の抗議と怒りの中で行われたワイマール憲法の蹂躙・放棄(事実上の憲法停止)にほかならない。そして「ナチス憲法」などは制定されなかったのだ。形式的には、改憲は行われず、ワイマール憲法はその後も“死に体”で残されたのである。
この歴史を顧みれば、麻生太郎氏が二重、三重に嘘をついていることがよくわかる。しかも彼は、そうした発言に対して国の内外から非難が集中すると、改憲の「悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげた」と白々しい弁明を行ったのである。
おそらく真相は、麻生氏がワイマール憲法死滅化の歴史過程を自ら勉強したとは思えないから、多分、7月29日のシンポジウムを主催した「研究所」のメンバーあたりから浅はかな入れ知恵をされ、その受け売りを得々としたのだろう。
だが、安倍政権No.2の大臣がナチ肯定の発言をしたことの重みは極めて大きい。すでに安倍首相自身、村山談話(日本の植民地支配と侵略を認め謝罪した村山富市首相の1995年の談話)や河野談話(1993年に宮沢内閣の河野洋平内閣官房長官が、第2次大戦中における日本軍の従軍慰安婦の存在と、その事実上の強制の例も多くあったことを認めた談話)について、これを継承すること(歴代首相は継承してきた)に消極的であることなどで、国内だけではなく、米国を含む国際社会で右翼ナショナリストとしての評価を招いてきているだけに、今回の麻生発言は、そのまま放置すれば、安倍首相への以上のような内外の危惧を決定的にする可能性がある。
第一麻生氏自身、今後財務相としてG7やG20などに出席した際、まともに他の国の代表と顔を合わせられないはずだ(それも平気なほど麻生氏は厚顔かもしれないが)。
こうした安倍政権の国際的孤立の危機(それは日本全体の名誉の危機である)を緩和するためには、麻生氏が大臣を自発的に辞任するか、安倍首相が麻生氏を閣僚ポストから解任するしかないだろう。この問題への麻生氏と安倍首相の対応を見守りたい。(終り)
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