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民主党代表選の立候補届け日の9月1日を目前にした8月30日夜、鳩山由起夫前総理と菅直人首相の会談が行われた結果、両氏は代表選における菅首相と小沢一郎前幹事長の 「全面的な対決を避けるため、菅・鳩山両氏に小沢前幹事長を含めたいわゆるトロイカ体制を大事にしていくことで一致」した(NHK・TV・30日午後9時のニュースおよびNHKオンライン)。
私もこのニュース(鳩山・菅両氏へのインタビューを含む)を視聴したが、鳩山氏は上記のように会談結果を説明し、また菅首相も「トロイカ体制に輿石東参院議員会長を加えてしっかりやっていこうというお話を(鳩山氏から)いただき、基本的にまったく異存はない」(この部分はasahi.com 30日による)と述べた。 鳩山氏は31日にこの会談結果を小沢氏に伝え、同氏が了承すれば、菅・鳩山・小沢3氏の、場合によっては輿石氏を加えた会談を持ちたいという。以上の動きは、いうまでもなく、民主党の代表選を無競争で菅首相の再選へもっていこうとする方策である。 この一連の動きの起点となったのは菅首相で、同首相が小沢氏との会談の斡旋を鳩山氏に依頼したことで実現した。民主党内でも、“菅・小沢の対決の結果、両氏のいずれが勝っても、民主党が分裂するのではないか”という危惧が急速に台頭したこともあって、「挙党一致態勢の構築」を主張する鳩山氏が両者の調停に乗り出したものである。
しかし、話を持ち出したのが菅首相であることを見れば明らかなように、こうした動きは、畢竟(ひっきょう)するに 、小沢氏に代表選の立候補を思いとどまらせるためのものである。もし、民主党の分裂を憂い、それを避けようとするのが本当の趣旨であるならば、“両者のどちらが勝っても党を割らない”という申し合わせを公開ですればいいのである。それを、小沢氏を引かせることで代表選を無競争にしようとするのは、まさに菅首相自身の利益のためであろう。 菅首相は25日に鳩山氏と会談した際には、鳩山氏が「小沢氏を含めた挙党体制の構築を求めた」のに対し、「菅氏は難色を示した」(読売、26日)のであり、それを受けて小沢氏は最終的に立候補を決意し、鳩山氏も小沢支持に回ったのだった。この結果、菅首相の再選を目指す人たちは、「小沢氏の出馬表明だけでなく、…鳩山氏が『小沢支持』に転換した『ダブルショック』」を受けたのだった(読売、26日夕刊)。その結果が30日の再度の菅・鳩山会談の実現である。
だが、トロイカ体制の尊重、その原点への復帰ということになると、それは「脱小沢」体制の転換であるとともに、政策的には昨年の総選挙における民主党マニフェストへの回帰ということであり、小沢氏がこれまで主張してきたところのものである。したがって、そのことは鳩山政権の「任期中は消費税を上げない」という公約を参院選に際して否定した菅首相の路線や、マニフェストの大幅修正を考える菅内閣の政策の修正を迫るはずのものである。 菅首相は「トロイカ体制」への復帰・維持ということで、そこまで受け入れたのだろうか。私には疑問だ。 菅首相は、いまは方便で「トロイカ体制」の尊重を言っているだけのように思える。もし、同首相が無事再選を果たせば、政府・党の人事を若干手直ししても、徐徐にか急速にか、政府・党の運営面でも、政策面でもその「トロイカ体制 」から離れていくのではないか。
そのように見通せるから、小沢氏がこの菅・鳩山提案をすんなり受け入れるとは考えにくい。もし、それを受け入れたと仮定すると、それは小沢氏が代表選における劣勢、さらには代表選後における党内孤立化を恐れたから、ということになりそうだ。 だが、たとえ小沢氏が以上のような経過で今回の代表選から降りても、人事面での処遇だけではなく、菅、小沢両氏の路線の違いが克服されなければ、民主党内の両氏・両派の対立は残り、将来それがまた火を吹くことは避けられそうにない。 それに、そもそも代表選で複数候補が争うこと、とくに二者が争うことを忌避する民主党内部の動きが間違っている。そうした競争(闘争)を嫌うのなら、中国や北朝鮮のように、また企業内のように、指導者を選ぶに当たっての選挙制をやめればいいのだ。
日本のマスコミもいわゆる世論も、遺憾ながら、そうした指導者選出の選挙戦を忌避する傾向が強い。また、“短期間に首相を代えるのはよくない”といった、議院内閣制を否定するような意見が横行している。 それに関することだが、30日には多くの新聞に民主党代表選についての世論調査結果が報じられたが、それについての新聞の大見出しと記事の内容の分裂ぶりには驚いた。
例えば読売は1面トップで「民主代表『ふさわしい』」(横見出し)、「菅氏67% 小沢氏14%」(縦4段見出し)、日経は1面第2トップで「首相にふさわしいのは」(横見出し)、「菅氏73% 小沢氏17%」(縦4段見出し)と伝え、世論の圧倒的な菅再選支持を強調した。 では、菅支持の理由はというと、読売の場合は、「首相が短期間で代わるのは良くない」が65%を占め、対して小沢支持の理由は「指導力がある」が40%でトップを占めている。また日経では、菅支持の理由は「小沢氏を支持できないから」が70%、小沢支持の理由は「指導力がある」が67%である。 要するに、菅首相はその指導力がまったく評価されていないのに対し、小沢氏は、その政治資金に関わる問題にも関わらず、まさにその指導力が支持者からは評価されているのである。 また、日経による菅内閣の実績・政策の評価では、「菅内閣の仕事ぶりを」評価するは31%、評価しないが49%、「政府の経済対策や円高への対応を」評価するは10%、評価しないは74%である。わずかに、「消費税引き上げに」ついては賛成45%、反対46%と拮抗している。
結局、上記のような新聞調査の内容の詳細によると、世論は菅内閣の実績をほとんど評価していないし、また菅首相の指導力もほとんど評価していないのである。それなのに、民主党代表として、あるいは首相としては、菅氏が小沢氏よりはるかに支持率が高いという。それは、「首相が短期間で代わるのは良くない」、あるいは「小沢氏を支持できないから」という理由(本当は理由にはならないもの)からだけだ。 それを大新聞は、あたかも世論が本当に菅氏が首相にふさわしい人物と評価しているかのように伝えている。そのようにして、民主党内の意見を菅支持に傾けさせようとしているわけである。 たしかに、いったん選ばれた首相は、なるべくじっくりと国政に専念できることが望ましい。しかしながら、もし失政、あるいはそれに類することがあれば、その首相は早急に除かれる方が望ましい。
菅首相は、党の公約を無視したあげくに参院選挙に大敗し、いわゆる「ねじれ国会」という政治不安定化を招いたのだから、その責任は重い。その結果をどう総括するか、それこそが今回の民主党代表選の最大の課題であるはずなのに、「首相が短期間で代わるのは良くない」とか、「二人の領袖が対決するのは好ましくない」といった理由(実は屁理屈)で、大事な代表選に“談合”を持ち込もうというのはまさに問題外だ。 その意味でも、31日の鳩山・小沢会談で、どういう結論が出るか、注目したい。 (この項 終り) |
エコノミストの時評
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小沢一郎民主党前幹事長・元代表が9月14日の民主党代表選挙に立候補する意向を8月26日に明示した。その結果、この代表選は、すでに立候補の意思を表明している菅直人首相と小沢氏の一騎打ちとなる見通しとなった。
小沢氏が最終的に出馬の意思を固めるに当たっては、挙党態勢の構築を目指して鳩山由起夫前首相が菅・小沢両氏の協力を模索し、菅首相に対して代表選後に小沢氏を党の要職で処遇するよう求めたのに対し、同首相が25日の鳩山氏との会談でこれを拒否したため、鳩山氏が菅支持を撤回して小沢支持に回ったことが決定打となった。
それまでは、鳩山氏が挙党態勢の構築を条件として菅支持の意向を表明していたことが大いに影響して、小沢氏の立候補は困難化したとの観測もあった(例えば朝日、26日の記事:「焦る小沢系」)。もし、菅首相が鳩山氏の要請を受け入れていれば、小沢氏も立候補を断念して、同首相の無競争再選があり得たのに、「脱小沢」にこだわってそのチャンスを捨て、自らを窮地に追い込んでしまった。 ただしそのことは、必ずしも代表選で小沢氏が勝つことを意味するのではない。菅氏にももちろん勝つ可能性はある。だが、仮に菅氏が再選され、首相として続投することになった場合でも、菅内閣は明春頃までには退陣か、衆議院の解散へ追い込まれる公算が大きい。
その理由は、一つには、仮にこの代表選後に民主党が分裂(後述)しないとしても、菅首相は「ねじれ国会」を乗り切る有効な方策を見出せないまま、野党の攻勢に会って立ち往生する公算が大きいことにある。具体的には、菅内閣は衆議院での与党過半数をたのんで2011年度予算案を成立させることはできる(予算は衆議院の議決があれば参議院で否決されても成立する)が、予算関連法案(例えば子ども手当を実施するための法律案)は衆院と併せて参議院の議決がなければ成立せず、したがって執行できないから、野党(すくなくともその一部)の協力がなければ事実上は執行可能な予算を決定できないのである。 そのような場合には、内閣は立ち往生状態となり、総辞職か衆議院の解散を選択せざるを得なくなる。 実際、自民党の執行部はそういうかたちで政府を攻め立て、菅内閣を総辞職か、衆議院解散の決定へ(できるだけ後者へ)追い込む戦略を考え、その旨公言している。総選挙の場合には、自民党は先日の参院選の余勢を駆って、衆院で第1党の地位を回復しようと狙っているわけだ。そして、事実、その総選挙を経て民主党が再び野党に転落する(つまり菅内閣が退陣する)可能性は小さくない。
菅内閣はそのような「ねじれ国会」に対しては、政策ごとに特定野党の協力を得る「部分連合」で対処できるという考えであるが、それが実行可能であるとの見通しはまだ立っていない。実際、鳩山前首相もいうように、「この法案はこの政党、この法案は別の政党という(部分連合の)話でうまくいくのか。将来的に連立の体制を作ることが必要」(読売、26日)であろう。 なお、付言すると、鳩山氏が菅首相に対して、菅再選後における小沢氏の起用を強く求めた理由の一つも、その点で「小沢氏は『一日の長』というか、様々な政党と組んだ経験上、以心伝心の(通じる)方々もいる」(読売、同上)との判断にあった。 民主党の代表選で菅首相が再選されたとしても菅内閣が危機に陥るもうひとつの可能性は、敗北した小沢派が民主党を集団離党する(つまり党を割る)場合である。 小沢氏と同派の人々とすれば、もし代表選挙に負けた場合に民主党にとどまったとしても、菅内閣の前途が上述のように危ういのであれば、党にとどまる意味はまったくなく、むしろ政界再編成を通して新しい連立政権を形成し、そこで与党になる可能性を探る方がはるかに良策ということになる。そして、小沢氏ならそれは実現可能だと氏自身も小沢派の人々も考えている。 また、野党の中にも、小沢敗北の場合に起きる政界再編成を恐れ、あるいは期待する流れがある。例えば、自民党内には「小沢氏が敗れれば民主党を割って自民党の一部に秋波を送るかも知れない」と警戒する声が出ているし、たちあがれ日本の園田博之幹事長は都内の講演で「政界再編の一つのきっかけになるかも知れない」と期待を示した(日経、26日夕刊)。 では、小沢氏が代表選で勝った場合はどうか。その場合には、菅内閣は当然総辞職するが、当「診断録」前号(8月22日号)で書いたように、その後の国会での首班指名選挙で、反小沢派の人々が首班候補としての小沢氏に投票しない可能性があるし、その結果として反小沢の人たちが民主党を離党する(その数は小沢派離党の場合ほど多くはないだろうが、やはり民主党の分裂である)可能性もある。
いずれにせよ、首班選挙で民主党内から反乱者が出た場合には、かつての自民党の四十日抗争(上記「診断録」参照)の時のように、首班選挙は仕切り直しとなり、次の首班指名に向けて新しい多数派工作(民主党小沢派が中心となっての)が展開されるだろうし、そうした多数派工作が政界再編成を伴う公算も大きい。 そして、小沢氏は恐らく新しい連立政権を作って自ら首班となるか、場合によっては他の党の誰かを首班に推すことも考えられる。後者の場合でも、小沢氏はそのような連立政権で実権を握ることであろう。 もし、反小沢派も「小沢首班」に同調する場合には、一応すんなりと小沢首班が誕生することになるが、その場合でも、小沢首班はねじれ国会を乗り切り、政権を安定させるために、連立の組み替えを行わざるを得ないだろう。 とにかく、小沢内閣(おそらく新しい連立による)が誕生したと仮定すると、その場合の最大の問題はやはり小沢氏の政治資金の不透明性の問題だろう。検察審査会の審査の結果として、小沢氏が強制起訴される可能性があるほか、国会で野党から「真相解明」を求めて攻め立てられるだろう。前者の場合には、小沢総理としては憲法の規定を盾に訴追を免れることが可能だが、やはり国会での追及を避けることはできない。
小沢氏がそうした追求にどう対応するか、あるいは対応できるかは未知数で、それが小沢政権が誕生した場合のアキレス腱となる可能性が大きい。 また政策面では、小沢氏および小沢派は「マニフェスト(09年総選挙における民主党の)への回帰」を標榜しているが、財政面での制約が厳しい中で、そのことをどのように具体化するか、またできるかは未知数である。普天間問題にどう対処するのかも不明である。 その意味で、「小沢代表」への期待は、すくなくとも現時点では、もっぱら小沢氏の「剛腕」への期待という抽象的なものにとどまっている。 さて残る問題、そして当面の最大の問題は、では代表選の結果をどう読むか、である。
菅首相には現職首相としての強み(今は首相交代という大きな変化は避けたいという民主党内の気分の存在)があるが、鳩山前首相の支持を失うという失敗を犯したし、そのことはまた、挙党態勢の確立という「錦の御旗」を小沢氏側にとられることを意味する。それに、菅首相にはなによりも参院選で民主党を大敗させたという失点が極めて大きい。また、総理の現職にあるだけに、目下の円高に対して無策であるとか、ねじれ国会の苦境打開の手を打てていないといった欠点が目立つ。 対して小沢氏の場合は、参院選に際して菅首相の言動に警鐘を鳴らしたという実績があるのはいうまでもないが、小沢氏なら新しい連立内閣を作って政権を安定させられるという期待や、抽象的だが氏の「剛腕」への期待がある。だが他方で、その政治資金問題に関して、たいへんな弱みと、そのことに対する世論の逆風がある。 それでも、以上を総合すると私には小沢氏が有利のように思える。菅首相にとっては、なんといっても参院選敗北の責任が大きいし、また挙党体制確立への意欲の弱さを見せたことが大きな弱点となると思う。対して小沢氏は、政治資金問題という大きな負い目を負っているが、これまでの捜査では検察が2度にわたって不起訴としたし、とにかく今の現実においては刑事被告人ではないという弁明が可能である。
もちろん、代表選は9月1日告示、14日投票(国会議員の場合)で、これからの選挙戦を両候補がどのように戦うかで行方が左右される余地が大きいが、過去の実績などを材料に、現時点での予想をすれば上述のようになる。 最後に、過去の「診断録」の繰り返しになるが、本当は菅首相が参院選敗北の責任をとって代表選に出馬せず、他方で小沢氏は政治資金問題を理由に代表と幹事長を辞任した過去に鑑みて出馬を断念し、代表選は新しい人たちによって争われることが望ましかった。 (この項 終り) |
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9月14日の民主党代表選挙において、党代表として再選を目指す菅直人首相と、党代表として復活して菅首相を退任させようとする小沢一郎前幹事長・元代表が候補者として激突することはほぼ確実となった。その結果は、菅・小沢のどちらがこの選挙に勝っても、その新代表の下で民主党がまとまって再出発することは極めて困難だろうと予想される。マスコミにも、「現実には党分裂もあり得る展開になりつつある」(産経、22日)との見方が出てきた。
そのような場合に起きる可能性が大きいのは、①菅首相が再選されても小沢派が民主党を集団離党して、残る民主党の菅首相派が衆院の議席でも多数派でなくなる、②小沢氏が代表に当選しても、国会での首班指名選挙では民主党議員の投票が小沢候補へのものと菅候補へのものとに分裂する、という事態だ。 そうなると、政局はまさに大動乱で、いよいよ新首班・新連立政権を作るための激しい政界再編成劇が演じられることになるだろう。 民主党代表選が菅対小沢の一騎打ちのかたちとなることは、菅首相がはやばやと再選への意思を明らかにしたのに対し、小沢氏が同氏を支持するグループとともに、去る19日に開かれた鳩山由起夫前首相のグループが主催する研修会に出席し、暗黙裡に代表選への出馬の意思を表明したことによって明白となった。
それまでは、小沢氏が自ら代表選に出るのか、あるいは氏の意思を体した別の議員が出馬するのかがはっきりしなかった。というのは、小沢氏の政治資金規正法違反問題に関し、検察審査会が同氏についての不起訴処分(すでに検察庁が決定した)が妥当かどうかを審議中であり、結論として起訴を決議する可能性が残っているからである。すなわち小沢派内にも、もし小沢氏が民主党代表に選出され首相に就任しても、そのあとで検察審査会が起訴を決議することになれば、首相を続けることが困難になるのでは、との危惧があった。 しかし、①実際には小沢氏に代わる力を持った議員が見当たらないこと、②民主党と与党が参院で過半数を割って国会が「ねじれ状態」となった現在、そうした難局を適切に切り抜けるには、指導者としての小沢氏の存在が不可欠だとの判断が小沢派内で強まったこと、③小沢氏自身は、検察庁が同氏を不起訴とした既成事実から、今後の展開においても有罪になる可能性はゼロと見極めて自ら立候補する意思を固めたと推察されることなど、以上により小沢派を中心に民主党内に小沢擁立への動きが強まった。
では、なぜ菅対小沢の一騎打ちが民主党分裂の危機をはらむのか。小沢氏としては、自ら鳩山氏とともに身を引いて菅政権への道を切り開いたのに、菅首相は①小沢氏及び親小沢の議員を政府・党の要職から疎外し、「脱小沢」さらには「反小沢」色を鮮明にしたこと、②鳩山政権での公約を無視して消費税引き上げを7月の参院選挙で打ち出して民主党を大敗させたことがその政治的な理由であるが、その心の底にはもっと深い怨念があるようである。
それは、小沢氏にとっての菅直人とは織田信長にとっての明智光秀と同じような存在となったという怒り、つまり信じていた副将格の部下に裏切られた(寝首を掻かれた)という思いであろう。菅氏は09年9月の鳩山由起夫内閣の組閣で副首相兼国家戦略相の要職を得たし(もちろん小沢幹事長の了承の下で)、10年元日の小沢邸での新年会(議員166人が参加)には、5人の閣僚の一人として参加して小沢氏に忠誠を表していたほどなのだ。ちなみに他の閣僚4人は、平野官房長官、原口総務相、中井国家公安委員長、川端文科相で(読売、1月3日)、いずれも鳩山派あるいは小沢派で、すくなくとも反小沢派は一人もいない。 もともと小沢一郎という人には、自らを批判する人を許さないという性格があるのは周知の事実だが、自らが裏切られたと思った場合には、その怒り、憎しみは尋常のものではなくなると推察される。
伝えられるところによると、小沢氏は鳩山氏退陣の後釜には自ら菅氏を推すつもりであったのに、菅氏がさっさと独断で鳩山後継として手を上げ、しかも民主党代表に選ばれると直ちに反小沢の筆頭格の仙石由人氏を組閣参謀とする“裏切り”を敢えてしたことから、決定的に反菅となった。そうした立場と態度は、参院選で民主党大敗のあとで、菅首相が小沢氏に面会を求めてもまったく聞き入れなかったことに端的に示されている。 そして、菅氏を党代表から降ろす機会となり得る代表選挙が行われる今、“明智”を討つべき“羽柴秀吉”が見当たらず、当の“信長”が生きているとなれば、小沢=信長が菅=明智を自ら討とうとするのは当然だと思われる。ただ、この戦いは選挙であるので、軽々に(すなわち勝算が立たないのに)出馬するわけにいかないので、これまで立候補の「環境が整う」(党内に小沢立候補への支持が広まる)のを待っていたと見られる。 要するに、小沢氏にとっては菅氏はもはや“不倶戴天の敵”であるから、もし自ら首相になれば菅・仙石ブロックの人を徹底的に干すだろうし、逆に代表選に敗れれば別の手段で菅首相の続投を阻止しようとするだろう。その手段とは、民主党を割って自ら政党再編成の口火を切り、新たな多数派を形成して菅内閣を退陣に追い込むことではないか。
その場合、小沢氏の政治資金問題が未解決のままでは、他の会派の議員が小沢氏主導の再編成と新連立政権樹立に参加することを躊躇する可能性があるが、小沢氏の手法からすると、さしあたりは他党(現民主党以外の党)の有力者を首班に推すぐらいのことは敢えて行いそうである。 逆に菅首相続投を支持するグループとすれば、どんなことがあっても代表選で小沢氏に勝たせるわけにはいかないし、もし小沢氏が勝った場合には、民主党は政治資金問題に厳しい世論の批判をあらためて受けて一層の苦境に立つと考えるだろうから、首班選挙で小沢氏に投票することを拒否する可能性がある。 その場合には、小沢氏は衆議院の首班指名選挙でも過半数の支持を得られない可能性、すなわち首班に選ばれない可能性がある。そうなれば、やはり当選可能な首班を選び出すための混迷政局が始まらざるを得ない。
類似のことが31年前にあった。すなわち1979年の自民党のいわゆる四十日抗争である。この年、大平正芳内閣の下で行われた総選挙(10月7日)で自民党が敗北した結果、反主流の福田・中曽根・三木・の各派と中川グループが大平首相の退陣を求めたが、大平首相と主流派(大平派と田中角栄派)がこれを拒否したため、両派の間で抗争が起き、野党を巻き込んだ合従連衡の試みが行われた上、最後は首班選挙で自民党から大平氏と福田赳夫前首相の二人が候補になるという前代未聞の事態が起きた。 投票の結果は大平、福田両氏とも(1位、2位となったが)過半数を得られず、次いで行われた両氏の決選投票で大平氏が辛うじて福田氏を抑えるという結果となった(11月6日)。しかし、第2次大平内閣の組閣は反主流派の抵抗で難航し、11月9日の新内閣発足後も文相ポストが埋まらず、同20日になってやっと谷垣専一氏(谷垣禎一現自民党総裁の父)の文相への起用で党内抗争は一応終結したのだった。 来る9月の民主党代表選挙の結果、この自民党四十日抗争と似た事態が民主党を主舞台に起きる可能性がある。要するに、この選挙で小沢氏が勝ったときに、首班選挙で反小沢派が小沢首班を拒否する場合と、菅首相が再選されて、小沢派が民主党を割る場合である。この後者の場合には、遅かれ早かれ、菅首相は退陣に追い込まれるだろう。
以上のいずれの場合でも、現民主党を中心とする政権は終わりを告げざるを得ないだろう。 民主党がこうした分裂の危機を回避するための唯一の道は、今となっては、鳩山前首相あたりの仲介で、菅首相が反小沢、脱小沢路線を修正し、小沢氏自身を含む反菅派の人たちをも政府と党の要職に起用する約束をすることだろう。現に鳩山氏は「挙党態勢で一致団結できること」(鳩山グループ研修会・懇親会での挨拶)を求め、その実現を条件に菅首相の続投を支持している。 だが、その菅首相は「政調を復活させて、全員が参加する政権運営、党運営が実現しつつある」(毎日、21日)と強弁して、事実上で鳩山提案を拒否している。 私自身の考えは、当「診断録」8月8日号で述べたが、「菅対小沢の対決を軸とする民主党の党内闘争は、民主党にとっても、さらに日本の政治にとっても不毛」で、「この不毛の対決を避ける唯一の方法、それは菅首相も小沢氏も今回の代表選への不出馬を宣言すること」である。「そうすれば、いま菅首相の続投支持を表明している反小沢派の人々も、反菅派の人々も、すべて自由に(誰に遠慮することなしに)代表選に立候補することが可能になる。そのことは、民主党としての参院選敗北の総括になるし、広く民主党の人材を発掘する絶好の機会となり、民主党の活性化の可能性を開く」というものだ。
世間には、そして民主党内にも、「首相をそうコロコロ変えてはいけない」という意見があるが、菅首相は自ら信任を賭けた参院選で敗北したのだから、その責任をとって辞任するのは当然なのだ。そして、そうした政府交替は、議院内閣制(議会が首班を選ぶ)と政党政治制をとっている限り避け難いことで、現に1950年代のフランスもそうであった。もし、そうしたことが不都合だと考えるのなら、制度を変えることが必要で、例えば先のフランスではド・ゴール首相が登場(この登場の仕方はクーデター的だったが)して大統領制を導入したものだ。 そうした論議を抜きに、首相が簡単に替わるのはよくないというのは、現在の議院内閣制を否定し、実際には菅首相の責任を免除しようとする議論である。
しかしとにかく今は、鳩山調停の見通しも立たず、菅対小沢の対決はほぼ不可避となったように思われる。私たちとしては、それが不都合であっても、これから先の混迷政局の展開をただ覚悟・傍観するしかないようだ。 (この項 終り) |
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2010年4〜6月期の日本、中国のGDP(国内総生産。名目額、ドル換算)を比較すると、日本の1兆2,883億ドル(118兆5,379億円)に対して中国は1兆3,369億ドル(9兆1,218億元)で、四半期ベースで初めて中国が日本を上回った。すなわち、国内総生産規模で中国が米国に次いで世界第2位の経済大国となり、日本は同第3位となったわけだ。これは内閣府が8月16日に発表した日本の4〜6月期GDPの速報値にもとづく推定である(各紙、16日夕刊および17日)。
10年上半期(1〜6月)の合計では日本の2兆5,871億ドル(236兆2,836円)に対して中国は2兆5,325億ドル(17兆2,840億元)で、日本がまだ中国を上回る(読売、17日)が、両国の成長率の違いを考慮すると、10年通年では中国が日本を上回ることは確実である。日本が西ドイツ(ドイツ再統一前)を抜いてGDPで世界第2位になったのは1968年だったから、42年ぶりのGDPの世界No.2交替になる。 しかし、この交替はかねて予想されていたことで、昨09年にも実現すると見られていたのだった。 それでもこの2位交替、というよりは“日本の2位からの転落”は日本の内外にとってのそれなりの大ニュースで、日本の新聞・TVが大きく取り上げたほか、外国マスコミもNYタイムスなどは16日朝の内閣府によるGDP速報値の発表から間髪を入れずにこの日中逆転を速報したほどだ。
ほかでは、ウォール・ストリー・ジャーナルは「中国が活力ある自信に満ちた国になった一方、日本の20年来の停滞は世界にとっても日本人にとっても悲劇的な状況」だとコメントした(日経、18日)。またNYタイムスは「この一里塚は中国の上昇が本物だと示すこれまでで最も顕著な証拠である。世界は中国を新しい経済超大国ととらえなければならない」と述べ、「日本ではあきらめの空気が漂っている」と報じた(日経、同上)。 米国のマスコミがこの“事件”を単に(米国から見て)経済下位の国の間での勢力交替と見ているのに対し、よりグローバルな視野を持つ英国では、インディペンデント紙が「予想外なことが起きない限り、2030年までには中国が(米国を抜いて)世界第1位の経済になる」との展望を示した(同上)。 この20年来の日本経済の停滞には、自公政権の政策上の迷走の影響があったことは否定できないが、①勃興期資本主義国に特有の高度成長期の終了、②少子高齢化とそれによる人口減少の影響の始まりという日本独自の原因と、③先進資本主義諸国全体の停滞期入りという世界的な原因が働いていることは当「診断録」でしばしば指摘した(09年6月1日号、同11月11日号など)通りである。
他方で、中国、インド、ブラジルなどの新興国や、韓国、台湾、シンガポールなどの「新しい先進諸国」(新工業国あるいは新工業地域と呼ばれる)は今その「勃興期」(注)にあり、現在、従来の先進諸国が景気回復途上で悪戦苦闘しているのを尻目に、ほぼ順調に高成長を続けている。そのような成長力の違いを念頭に置けば、大国中国の経済規模が日本のそれを上回ることは極めて当然のことなのだ。 (注)この言葉は、特別のものではないが、かつて池田勇人内閣(1960年7月〜64年11月)が「所得倍増計画」を推進したときに、池田首相のブレーンだった下村治博士が当時の日本経済の成長力および慢性的インフレーションを「勃興期資本主義」に特有のものと特徴づけたことで広まった。
そもそもGDPの大きさとは「1人あたりの生産額×人口」だから、1人あたりの生産額がどのように増加しているか(それは国ごとの発展段階や政策などで異なる)を別とすれば、人口の大小によって決まる。したがって、経済が発展していれば、人口大国が経済大国になるのはまったく当たり前の話だ。
かつて米国はそのようにして英国を抜いて世界1の経済大国となり、第2次大戦後には日本が西ドイツを抜いて第2位の経済大国となった。そして今、中国が日本を抜いて第2位となり、やがて米国を抜いてNo.1となるだろうことは極めてわかりやすい理屈だ。ただ問題は、中国国内の政治的条件(一党独裁の継続可能性や異民族問題など)の動向を考慮した場合、どこまで順調に成長を続けられるかどうかである。 なお、国連の人口統計および同推計によると、中国の人口は2007年13.28億人、20年14.21億人、50年14.08億人に対して、米国はそれぞれ3.05億人、3.43億人、4.02億人である。ちなみに50年の日本の推計人口は1.03億人。 だから、いたずらに経済規模について世界における国の順位を競うということは無意味かつ有害なことである。どうしても経済規模を大きくしたいということになると、地道に1人あたりの生産額(すなわち生産性)をあげていくことを別とすれば、突拍子もないことだが、他国を併合するしかないであろう。かつて、農業が主産業であった時代に、領主や王が領土の拡大を求めたように。
したがって、私たちは日本の世界経済第3位への“転落”を嘆く必要はない(別の経済政策上に存在する問題を別とすれば)。それは、NYタイムスが書いたような「あきらめ」(上述)ではなく、事実の単なる受入れに過ぎない。あるいは、ひょっとして、米国人の場合は自国が中国に世界経済No.1の地位を奪われそうになったときには、それを“あきらめない”ということなのだろうか?(では何をするのだろうか?) いま現在、中国の経済規模=GDPが日本のそれに並び、そして上回りつつあるということは、中国の人口は日本のそれ(09年は1億2751万人)の10倍以上だから、中国の1人あたりGDP(ひいては所得水準)は日本の1/10だということである。その点につき、中国商務省の姚堅報道官が「GDPは一国の経済の実力の一面を表しているにすぎない」とし、日本との生活水準の差は大きく、「中国の経済発展は遅れている」と述べた(日経、上記)ことは、正しく、かつ冷静な評価である。
そのような発展しつつある中国を隣国として持つ日本としては、そうした大市場の存在と発展をむしろ幸運と受けとめて、それを日本の成長に活用することと、経済大国であるとともに軍事大国を目指しつつある中国とどのように共存するかを研究・模索することが必要であろう。 (この項 終り) |
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本稿は当「診断録」2010年4月19日号の「敗戦国ドイツと日本の相違(1)」の続編である。前回から大分間を置くことになったが、途中で“時の話題”を取り上げるのに追われてつい遅くなった。今日はちょうど終戦記念日。続編を取り上げるにはいいタイミングではないかと思う。
上記4月の前編では、第2次世界大戦とその敗戦から、戦後の国家の分裂にいたるドイツ史について、以下のようにその要点を説明した(今回若干補足した部分もある)。
①第2次大戦においてドイツは1945年5月までに東からはソ連軍に、西からは米英仏(実質的には米英)の連合軍に攻め込まれて全土が敵軍に占領されて降伏、ドイツは国家・政府が崩壊した(文字通りの国家の滅亡)。 ② 戦後のドイツは米英仏ソ4ヵ国の占領軍に分割統治されたが(ベルリンはソ連地区にあったが、そのベルリンも4ヵ国によって分割統治された)、やがて「冷たい戦争」の先鋭化とともに米英仏の占領地区(ドイツ西部)は統合されて、ソ連地区(同東部)と対峙(たいじ)するようになり、1949年には米英仏地区にいわゆる「西ドイツ」(正式にはドイツ連邦共和国、BRD)、ソ連地区に「東ドイツ」(ドイツ民主共和国、DDR)という二つの国家が出来上がり、ここにドイツ国家が復活するとともに二つに分裂した。 ③ 西ドイツはアデナウアー首相指導の下に、冷戦における西側陣営に積極的に参加することを通じて、主権の完全回復と国際的地位の回復・向上を目指し、その中で長年のライバルだったフランスとの和解に努めた。 このように西ドイツ国家は49年に成立したが、その時点ではまだ完全な主権の回復を遂げてはいなかった。ところが、50年6月における朝鮮戦争(注)の勃発により、ヨーロッパでは西ドイツが次の東西の“熱い戦争”の標的にされるのではないかと西側諸国間で危惧されるようになった。アデナウアー首相はそこに西ドイツの主権回復と国際的同権化への「大きなチャンス」を見いだした(Manfred Mai;「Deutsche Geschicte」、ドイツ史。2003、Beltz & Gelberg)。
以上のような情勢の下で、西ドイツは51年4月にフランスとともに西欧6ヵ国(仏独伊とベネルックス3国)による「欧州石炭鉄鋼共同体」(今日のEU=欧州連合の原初形態)設立条約に調印、52年5月には同じ6ヵ国による「欧州防衛共同体」条約に調印。そして54年10月には米英仏を含む西側9ヵ国会議の「パリ条約」で西ドイツの占領の終結と主権回復およびNATO(北大西洋条約機構)への加盟が承認された。 そして、55年5月にパリ条約が発効したことを見届けて、同6月に西ドイツは国防省を設置し、56年7月には徴兵制を導入。こうしてドイツは西半分ながら敗戦後10年で通常の独立国家に戻った。 (注)韓国が北朝鮮軍によって侵攻され敗退した(釜山近くにまで迫られた)が、米軍が国連軍の旗印を得て戦争に介入(仁川に逆上陸)、韓国軍とともに反撃して北朝鮮に攻め入った。それに対して中国軍が「義勇軍」の名目で北朝鮮軍を支援して戦争に参加した(米中戦争)。ソ連は戦闘に参加しなかったが、東側陣営の盟主として中朝両国を支持。53年7月に休戦協定調印。
主権を回復した西ドイツ(BRD)の次の大きな国際外交上の転換点は、ヴィリー・ブラント首相(69年に成立した社会民主党《SPD》と自由民主党《FDP》との連立政権において戦後初の社民党出身の西ドイツ首相となり74年まで在位。71年にノーベル平和賞を受賞)による「東方外交」の展開によってもたらされた。
それに先立ち、ブラントは66年に成立したキリスト教民主・社会同盟(CDU・CCU)と社民党との初の大連立政権(キージンガー首相、CDU)において社民党党首として副首相兼外相に就任、その外相時代に東欧のルーマニア(67年)、ユーゴスラヴィア(68年)と国交を結んで、それまでの西ドイツ外交の原則とされた「ハルシュタイン・ドクトリン」(注)を事実上で廃棄し、東側諸国との共存を図るその東方外交を始動させていた。 (注)西ドイツは、55年9月にアデナウアー首相がモスクワを訪問してソ連と外交関係を樹立したが、帰国後に同首相は、「東ドイツはソ連の傀儡(かいらい)国家に過ぎず、西ドイツのみが全ドイツを代表する」との立場から、東ドイツを承認する第三国(ソ連以外の)とは国交を結ばない方針を打ち出した。この方針が当時の外務次官の名をとってハルシュタイン・ドクトリンと呼ばれる(石田勇治「20世紀ドイツ史」、白水社)。
首相に就任したブラントは議会での施政方針演説で、「ドイツ連邦共和国《BRD》とドイツ民主共和国《DDR》の樹立から20年経った今日、われわれはドイツ国民のさらなる疎遠化(Auseinanderleben)を阻止し、両者の秩序ある共存(Nebeneinander)を通じて、協同(Miteinander)の関係の樹立に向かうべきだ」と「接近を通じての変化」の考え方を説き、その東ドイツおよび東欧諸国との外交関係樹立の方針を明示した(M.Mai、上記)。
具体的にはブラント政権は、まずソ連との間で、現存するヨーロッパ国境の不可侵を約した西ドイツ・ソ連条約(モスクワ条約、70年8月)、ポーランドとの間で相互の武力不行使と、ドイツ東部のオーダー・ナイセ川をポーランド西部国境とする西ドイツ・ポーランド条約(ワルシャワ条約、70年12月)を結んだ。 次いでベルリンに関して、西ドイツ・西ベルリン間の自由往来と東西ベルリンの往来の保障などを約したベルリン4国協定を結び(71年9月)、72年12月に東ドイツとの間で「両ドイツ基本条約」を調印 して相互に国家として認めあった (石田、上記)。 このオーダー・ナイセ川をドイツ・ポーランドの国境とすることは、戦前のドイツのプロイセン州東部(ドイツ旧領土の四分の一)を放棄することになるので、野党CDU・CSUなどは猛反対した。
しかしブラント首相はそうした反対に対し、「これらの地域はわれわれがすでに長期間失っていたものだから、われわれは新たに何ものをも放棄するものではない。何人も現存のヨーロッパの国境を力で変更する権利を持っていない」と反論した(M.Mai、上記)。 というのは、敗戦国ドイツの処理を決定したポツダム協定(注)において、米英ソはドイツ軍の完全な解体、戦争犯罪人の処罰、賠償などとともに、領土については講和条約までの措置として、1937年末までのドイツ領のうち東プロイセン北半をソ連管理下に、オーダー・ナイセ川以東をポーランド管理下におくことを決定、以後それが実行されていたからだ。 (注)45年7月17日から8月3日までベルリン近郊のポツダム(ブランデンブルグ州の州都)で、米(トルーマン大統領)、英(チャーチル首相)、ソ(スターリン共産党書記長)の3国(対独主要交戦国)首脳が会談して、敗戦後ドイツの処理の方針を決定したもの。
ちなみに、対日「ポツダム宣言」はこのポツダム協定とは直接には無関係で、ポツダム会談の合間に、米、英、中国(蒋介石総統の代理が出席。総統は交戦中のためポツダムには来られなかった)の3ヵ国(対日主要交戦国)が対日降伏呼びかけと降伏条件を決定して日本に対し発した(7月26日)ものである。ポツダム会談時点ではソ連は対日交戦国ではなかったので当初の対日ポツダム宣言には加わっておらず、8月9日の対日参戦後に宣言に参加した。 ポツダム会談が行われたポツダムのツェツィーリエンホフ宮殿の1室などは歴史記念館として保存・公開されている(3巨頭が座った椅子やテーブルとも)が、私が訪問した2006年の経験では同館には対日ポツダム宣言の資料は一切ないし、案内役の日本人ガイド(記念館の公式ガイド)も同宣言については存在そのものさえ知らなかった。 しかし先に述べたように、ブラント首相が結んだオーダー・ナイセ川を対ポーランド国境として承認する条約は旧ドイツ領土を放棄するものとして、また東ドイツを国家として認める方針はドイツ再統一を断念するものとして野党の激しい抵抗にあったので、同首相は72年9月に議会を解散して国民に信を問うた。結果は、社民党は選挙で45.8%を獲得してCDU・CSUの44.9%を抜いて第1党に躍進、与党のFDPも8.4%を獲得して、東方外交は国民の支持を得る結果となった(石田、上記)。
このようなブラント首相の東方外交により、戦後ドイツは東欧の旧敵国、侵略相手国などとの和解に成功した。 なおブラント首相は70年12月にワルシャワ条約締結のために同地を訪問した際、ワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人強制収容所)の跡地を訪ね、(虐殺された)ユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いた(ひざまづいた)。この跪きの写真は全世界に報道され、「自らの歴史上の罪を告白し、すべての古い隣国との和解を求める新しいドイツのシンボルとなった」(Mai、上記)。 89年のベルリンの壁の崩壊に続き、90年に東西ドイツの再統一が両国民および米英仏ソの旧戦勝国によって承認されたのも、以上のような真摯で謙虚なドイツ外交の積み重ねの成果だと言える。 ひるがえってわが日本は、51年に米英仏蘭などの連合国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだが、それはソ連と中国など抜きの片面的なものとなった。
中国は、革命の結果、国民党統治の中華民国に代わって共産党支配の中華人民共和国が成立した(49年)が、講和会議で中国を代表すべきなのが国民党政権(台湾に逃れた)か新政権(北京)かで米英の意見が分かれた(米国が北京政権を承認していなかった)ため、講和会議への招請が見送られた。また、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの東側3ヵ国は講和会議には出席したが、中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を主張し、署名を拒否した。 その後、日本は56年に鳩山一郎首相が訪ソして「日ソ国交回復に関する共同宣言」に調印して国交を回復したが、領土問題などが未解決で、平和条約を結ぶに至っていない。また中国とは、71年に田中角栄首相が訪中して「日中共同声明」を発表して国交を回復したが、「日中平和友好条約の締結を目指す」としながらも未だに実現せず、またいわゆる歴史認識でしばしば両国間に対立が起きるなど、日中和解が実現したとは言い難い状態だ。 さらに旧植民地の韓国ともしばしば領土問題や歴史認識で対立が起き、北朝鮮とは国交も回復していない。 要するに、戦後日本の外交とくに対アジア外交は、若干の例外を除いて、極めて停滞的であったし、対外的な戦後処理と近隣諸民族との和解と友好関係の樹立に成功しているとは言えない。
なぜそうなったか。ここでは詳論はできないが、あえて基本的な原因と言えるものをあげると、それは(対外関係は)日米関係さえ安泰であればよいと考えてきた大部分の歴代保守政権と保守層の意識と行動、および過去の(昭和時代の)戦争に対する批判や反省を一切拒否する人たちの意識にあると思う。 その日米関係においても、日本が完全な独立性を回復しているとは言えない。 それらすべての結果として、日本が未だに国際社会で真の自前の国家としての存在と威信を回復していないことは極めて残念である。 (この項 終り) |


