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『趣味の中国通史』

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今回は東漢霊帝中平四年です。二回に分けます。
 
東漢霊帝中平四年
丁卯 187
 
[] 『後漢書孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月己卯(二十一日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月、滎陽賊が中牟令を殺しました。
 
『資治通鑑』胡三省注によると、中牟は河南尹に属す県です。
『孝霊帝紀』の注が「(中牟)落皓(人名です)および主簿潘業は敵に臨んで振り返ることなく(退却せず)、どちらも殺害された(臨陣不顧皆被害)」と書いています。
 
[] 『後漢書孝霊帝紀』からです。
己亥、南宮内殿の罘(門闕に繋がる楼閣)が自然に壊れました。
 
[] 『後漢書孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、河南尹何苗が滎陽賊を討伐して破りました。
朝廷は何苗を車騎将軍に任命しました。
 
『後漢書五行志一』では、何苗は何皇后の同母弟ですが、『三国志魏書六董二袁劉伝』の注では、何皇后の同母兄となっており、母が朱氏に嫁いだ時の子としています。
恐らく、何皇后の母(舞陽君)は朱氏に嫁いで朱苗を生み、後に何真に嫁ぎました。この時、朱苗は何氏に改姓します。
何真には既に何進という子がおり、興(舞陽君)を娶ってから女児が生まれました。これが何皇后です。
年齢では何進が最年長で、その下に何進とは血のつながりがない弟の何苗(朱苗)がおり、更に下に何進にとっては同父異母妹、何苗にとっては異父同母妹にあたる何皇后ができたのだと思います。
 
[] 『後漢書孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
韓遂が辺章と北宮伯玉、李文侯を殺し、兵十余万を擁して進軍しました(献帝建安二十年・215年にも触れます)。隴西を包囲します。
隴西太守李相如は朝廷に叛して韓遂と連和しました。
『孝霊帝紀』は韓遂を「金城賊」としています。
 
涼州刺史耿鄙が六郡の兵を率いて韓遂を討ちました。
耿鄙は治中(治中従事)程球を信任していましたが、程球は姦利に通じていたため(姦邪によって私利を求めていたため)、士民に怨まれていました。
漢陽太守傅燮が耿鄙に言いました「使君が統政して日が浅いので、民はまだ教(教化)を知りません。賊は大軍がもうすぐ至ると聞いて、必ず万人が一心になっています。辺境の兵は多くが勇猛なので、その鋭鋒に当たるのは困難です(辺兵多勇其鋒難当)。しかも新合の衆(集結したばかりの我が軍)は上下がまだ和していないので、万一内変があったら、悔いても及びません。(今は)軍を休めて徳を養い、賞罰を明確にすることに務めた方がいいでしょう(不若息軍養徳明賞必罰)。賊が寛挺(緩和)を得たら(我が軍が急攻しないと知ったら)、必ず我々が怖気づいたと判断し、悪人の群れが権勢を争うことになるので、分裂するのは必至です(賊得寛挺,必謂我怯,群悪争勢,其離可必)。その後、已教の民(既に教化した民)を率いて成離の賊(分裂した賊)を討てば、その功は坐して待つことができます。」
耿鄙はこの意見に従いませんでした。
 
夏四月、耿鄙が行軍して狄道に到りました。
しかし州の別駕(別駕従事)が反して賊に呼応し、耿鄙軍を大破しました。まず程球を殺して次に耿鄙を殺害します。
 
賊は進軍して漢陽を包囲しました。
城中では兵が少なく食糧も尽きていましたが、傅燮が固守し続けました。
 
当時、北地の胡騎数千が賊に従って郡を攻撃していました。
しかし皆、傅燮の恩をかねてから思っていたため、共に城外で叩頭し、傅燮を郷里に送り帰すことを求めました。
『資治通鑑』胡三省注によると、傅燮は北地霊州の人です。
 
傅燮の子傅幹は十三歳でしたが、傅燮にこう言いました「国家(陛下)が昏乱なので、大人を朝廷に居られないようにしました(令大人不容於朝)。今、自守するには兵が足りません。羌胡の請いを聴いて郷里に還り、有道(明君)が現れるのをゆっくり待ってそれを輔佐するべきです(徐俟有道而輔之)。」
言い終わる前に傅燮が憤って嘆息し、こう言いました(慨然歎曰)「汝はわしが必ず死ぬと知っているのか(汝知吾必死邪)。聖人とは節に達し、次は節を守るものだ(『春秋左氏伝』の「聖人は節に達し、次は節を守り、下は節を失う(聖達節,次守節,下失節)」が元になっています)。殷紂は暴虐だったが、伯夷は周粟(周の食物)を食べずに死んだ。わしは世乱(乱世)に遭ったが、浩然の志(剛直な精神)を養うことができず、禄を食してきた。それでも難を避けようと欲するのか(又欲避其難乎)。わしがどこに行くというのだ(吾行何之)。必ずここで死ぬ(必死於此)。汝には才智があるから勉めよ(生きて努力せよ。原文「勉之勉之」)。主簿楊会はわしの程嬰である。」
程嬰は春秋時代晋で孤児になった趙武を援けて養育した人物です。
 
漢陽の人王国(「王国」が人名です。『資治通鑑』は「狄道の人」としていますが、『後漢書孝霊帝紀』『後漢書董卓列伝(巻七十二)』とも「漢陽の人」としています。狄道は漢陽郡ではなく隴西郡に属すので、恐らく『資治通鑑』は誤りです。)が元酒泉太守黄衍を送って傅燮を説得させました「天下は既に漢が有しているのではありません。府君には我々の帥(指導者)になる意思がありませんか(寧有意為吾属帥乎)?」
傅燮は剣に手を置いて黄衍を叱咤し、こう言いました「汝は剖符の臣(国から割符を与えられた臣。太守)でありながら、逆に賊のために説くのか!」
傅燮は左右の部下を率いて兵を進め、陣に臨んで戦没しました。
『欽定四庫全書後漢記(袁宏)』を見ると、傅燮の死を翌年(中平五年188年)五月に書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書孝霊帝紀』に従って本年に書いています。
 
耿鄙の司馬扶風の人馬騰も兵を擁して反し、韓遂と合流しました。
共に王国を主に推して三輔を寇掠(侵略)します。
 
[] 『後漢書孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
寇賊を平定できないため、太尉張温が罷免されました。司徒崔烈が太尉になります。
 
五月、司空許相を司徒に、光禄勳沛国の人丁宮を司空にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、丁宮の字は元雄です。
 
 
 
次回に続きます。



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