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『趣味の中国通史』

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今回で魏明帝青龍二年が終わります。
 
[十九] 『三国志蜀書三後主伝』と『資治通鑑』からです。
蜀漢後主(蜀主劉禅)が左将軍呉懿(「呉懿」は『資治通鑑』の記述で、『三国志後主伝』では「呉壹」です)を車騎将軍に任命し、符節を授けて漢中を督(監督)させました(假節,督漢中)
『資治通鑑』胡三省注によると魏延の代わりです。
 
また、丞相長史(「丞相長史」は『資治通鑑』の記述で、『三国志後主伝』では「丞相留府長史」です)蒋琬を尚書令に任命して国事を統領させました(総統国事)。暫くして行都護の官を加え、符節を授けて益州刺史を兼任させました(假節,領益州刺史)
 
当時は元帥を喪ったばかりで遠近が危悚(危惧)しましたが、蒋琬は能力が群を抜いており(出類抜萃)、群僚の右(百官の上)にいて戚容(悲傷の様子)も喜色もなく、神守挙止(情緒や挙動)が平時と同じだったため、衆望がしだいに服していきました。
 
呉人は諸葛亮が死んだと聞くと、魏が衰退に乗じて蜀を取るのではないかと恐れ、巴丘に守兵一万人を増派しました。一つは蜀に対する救援とするため、もう一つは事に乗じて蜀を分割するためです。
それを聞いた漢人(蜀漢の人)も永安(白帝城)の守備を増やして非常事態に備えました。
『資治通鑑』胡三省注によると、この「巴丘」は「巴陵」です。かつて羿が洞庭で巴蛇(伝説の大蛇)を殺し、その骨が丘陵のようだったので、巴陵と呼ばれるようになった、といわれています。
 
蜀漢後主が右中郎将宗預を使者にして呉に送りました。
呉大帝(呉主孫権)が問いました「東()にとって西()との関係は一家のようなものである(東之與西,譬猶一家)。しかし西が白帝の守りを更に増やしたと聞いた。それは何故だ(何也)?」
宗預が答えました「臣が思うに、東が巴丘の戍(守備)を増やし、西が白帝の守りを増やしたのは、どちらも時勢においてそうするのが相応しいからです(皆事勢宜然)。お互いに問うには足りません(俱不足以相問也)。」
大帝は大笑いして抗尽(『資治通鑑』胡三省注によると、「抗」は呉に屈しなかったこと、「尽」は思いを言い尽くして隠さなかったことです)を嘉し、芝(劉備の死後、呉を訪れて蜀と呉の同盟を成立させました)に次ぐ礼を用いて厚遇しました。
 
[二十] 『三国志呉書二呉主伝』と『資治通鑑』からです。
呉の丹陽は山が険阻で民の多くが果勁(勇猛果敢)だったため、今まで兵を発しても外県の平民を得ただけで(東漢献帝建安二十二年217年に陸遜が丹陽の山越を討伐して兵や民を得ました)、他の者は深遠な地におり、全てを捕えることはできませんでした。
そこで諸葛恪が自ら当地で官に就いて民を山林から出させることを繰り返して請い(屢自求為官出之)、三年で甲士四万を得られると言いました。
衆議は皆こう考えました「丹陽の地勢は険阻で、呉郡、会稽、新都、番陽の四郡が隣接しており、周旋(周囲)が数千里に及んで、山谷がいくつも重なっています(山谷万重)。その幽邃な人民(深遠な地に住む民)は未だ城邑に入ったことがなく、長吏に対しては、皆、武器を持って従おうとせず(皆仗兵野逸)、林莽(森林草むら)の中で年をとり(白首於林莽)、逃亡中の悪人も皆、共に逃げ隠れしています(逋亡宿悪咸共逃竄)。山が銅鉄を産出するので、自ら甲兵を鋳造しています。風俗は武を好んで戦に習熟しており(俗好武習戦)、気力(威勢・体力)を尊んでいます(高尚気力)。彼等が山を登って険阻な地を越え、叢棘(棘の森)を突き進む姿は、魚が淵を泳ぎ、猿猴が木を登るようです(其升山越険,抵突叢棘,若魚之走淵,猿狖之騰木也)。時折、間隙を観て、出て来て寇盗を為しており、その都度、兵の征伐を招いてその窟藏(隠れ家)を探させていますが、彼等は戦ったら蜂のように一斉に至り、敗れたら鳥のように逃げ去り、前世(先代)以来、制御できたことがありません(其戦則蠭至,敗則鳥竄,自前世以来不能羈也)。」
 
皆が討伐を困難とみなし、諸葛恪の父諸葛瑾もこれを聞いて事を完遂できないと考え(亦以事終不逮)、嘆息してこう言いました「恪は我が家を大興することなく、(逆に)我が族を滅ぼすことになるだろう(恪不大興吾家,将赤吾族也)。」
 
しかし諸葛恪が必ず勝てると盛んに陳述したため、大帝は諸葛恪を撫越将軍に任命し、丹陽太守を兼任させ(領丹陽太守)、その策を実行させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「撫越将軍」の「撫越」は「山越を招撫する」という意味です。
 
[二十一] 『三国志呉書二呉主伝』からです。
九月朔、霜が降って穀物を傷つけました(隕霜傷穀)
 
[二十二] 『三国志魏書三明帝紀』からです。
冬十月乙丑(筑摩書房『三国志(訳本)』によると十四日です)、月が鎮星と軒轅を犯しました。
戊寅(二十七日)、月が太白を犯しました。
 
[二十三] 『三国志魏書三明帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、京都洛陽で地震がありました。
地震は東南から至り、地がとどろく音がして屋根瓦が震動しました(隠隠有声,搖動屋瓦)
 
[二十四] 『三国志呉書二呉主伝』と『資治通鑑』からです。
呉の太常潘濬が武陵蛮を討って数年が経ちました(魏明帝太和五年呉大帝黄龍三年231年参照)
潘濬がついに武陵蛮を平定し、戦事が収束します。斬獲(斬首と捕虜)は数万を数えました。
この後、群蛮が衰弱して一方(一方面)が寧静になりました。
 
潘濬が武昌に還りました。
 
[二十五] 『三国志魏書三明帝紀』からです。
十二月、魏明帝が有司(官員)に詔を発し、大辟(死刑に関する法)を削減改定して死刑に当たる罪を減らさせました。
 
[二十六] 『三国志呉書二呉主伝』からです。
呉大帝が詔を発し、曲阿を雲陽に、丹徒を武進にしました。
 
[二十七] 『三国志呉書二呉主伝』からです。
呉の廬陵賊李桓、羅凖が乱を為しました。


[
二十八] 『晋書后妃伝(巻三十一)』を見ると、この年、司馬懿の子司馬師の妻が殺されています。

司馬師の妻は夏侯氏で、名を徽、字を媛容といいます。沛国譙の人で、父夏侯尚は魏の征南大将軍になりました。母は曹氏で、魏の徳陽郷主です。西晋になってから司馬師が景帝という諡号を贈られたので、夏侯徽は「景懐夏侯皇后」と称されています。
『晋書后妃伝』によると、魏明帝の時代、司馬懿が上将の重任におり、その諸子もそろって雄才大略がありました。夏侯徽は司馬師が魏の純臣ではないと知ります。

夏侯徽が魏の甥(姪。兄弟姉妹の娘。夏侯徽の母は魏の皇族曹氏です)に当たるため、司馬師は夏侯徽を深く嫌って警戒し(帝深忌之)、青龍二年234年)、鴆毒で殺しました。この時、二十四歳でした。
この記述を『資治通鑑』は採用しておらず、胡三省注がこう書いています「当時、司馬懿は明帝に信任されており、まだ不臣の迹(謀反の形跡)がなかった。その諸子ならなおさらである。ただ魏の甥(姪)という理由だけで、みだりに妻を鴆毒で殺したというのは、事実ではない。」
 
 
 
次回に続きます。

三国時代68 魏明帝(三十二) 楊儀 235(1)

 


 
 
 

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