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『趣味の中国通史』

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今回も魏明帝青龍三年の続きです。
 
[十一] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。
(呉で)雹が降りました。
 
[十二] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月丁巳(十一日)、魏明帝が洛陽宮に還りました。
 
[十三] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚午(二十四日)、魏明帝が皇子曹芳を斉王に、曹詢を秦王に立てました。
明帝には子がいなかったため、二王を養って自分の子としました。宮省(宮内)の事は秘密にされたため、二王の由来を知る者はいません。
ある人が言うには、曹芳は任城王曹楷の子です。
『資治通鑑』胡三省注によると、曹楷は任城王曹彰の子で、曹操の孫に当たります。
 
[十四] 『三国志魏書三明帝紀(裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。
魏明帝が有司(官員)に詔を発し、崇華殿を再建させて九龍殿に改名しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、当時、郡国に九龍が現れたため、これを殿の名にしました。
 
穀水の水を引いて九龍殿の前に流し、玉井(玉石の井戸)や綺欄(絹織物で装飾した欄干)を造りました。蟾蜍(ガマ蛙)が水を含んで神龍が吐き出します。
また、博士扶風の人馬鈞に司南車(指南車)や水転百戲(水力で動くからくり人形)を作らせました。
 
『三国志魏書二十九方技伝』裴松之注にこのような記述があります。
ある人が百戲(からくり人形)を献上しました。しかしただ置いてあるだけで、動かすことができません。
明帝が馬鈞に「動かすことができるか(可動否)」と問うと、馬鈞は「できます(可動)」と答えました。
明帝が「更に巧妙にできるか(其巧可益否)」と問うと、馬鈞はやはり「できます(可益)」と答えます。
そこで明帝が詔を発して馬鈞に作らせました。
馬鈞は大木を彫刻して組み合わせ、車輪のような形を作り、平地に設置して、下から水を使って動かしました(平地施之,潜以水発焉)。上には女の楽舞の像を置き、木人が太鼓を叩いたり簫を吹くようにしました。また、山嶽を作り、木人に跳丸(おてだま)擲剣(剣でおてだまをする芸)や縁絙(綱渡り)倒立をさせました。木人は自由自在に出入りします。更に百官の行署(百官が官府で政務を行う様子)、舂磨(臼で穀物を挽く様子)、闘鶏等を作り、それらは巧妙に様々な変化をしました(変巧百端)
 
本文に戻ります。
明帝は歳首(一年の初めの月)に巨獣を作らせ、魚龍曼延(動物等を使った雑技の一種)弄馬倒騎(馬を駆けさせたり逆立ちして騎乗する芸)等、漢の西京(西漢)と同じ制度を備えました。
また、閶闔諸門闕(皇宮正門の諸闕)の外に罘(城壁の上にある防御のための建築物。または門外の小壁)を築きました。
 
陵霄闕の建築を始めた時、鵲(かささぎ)が上に巣を作りました。
明帝が高堂隆に意見を求めると、高堂隆はこう答えました「『詩』はこう言っています『鵲が巣を作り、鳩がそこに住む(惟鵲有巣,惟鳩居之)。』今、宮室を興して陵霄闕を建てたところ、鵲が巣を作りました。これは宮殿が完成せず、その身が住めないという象()です(此宮未成身不得居之象也)。天意は『宮室が完成する前に他姓がこれを制御することになる』と言っているようです。これは上天の戒です。天道には親(親しい者。親疎)がなく、ただ善人と与すものであり、太戊と武丁(どちらも商の王です)は災を見て悚懼したので(戦慄して身を正したので)、天が福を降したのです。今、もしも百役を休止し、徳政をますます崇めれば、三王(夏周の聖王)が四王になり、五帝が六帝になることもできます(明帝が三王五帝に匹敵する帝王になれます。原文「罷休百役,増崇徳政,則三王可四,五帝可六」)。どうして商宗(商王)だけが禍を福に転じられるのでしょうか(商王だけが禍を福に転じられるのではありません。原文「豈惟商宗転禍為福而已哉」)。」
明帝は心を動かされて表情を変えました(帝為之動容)
 
明帝は性が厳急だったため、宮室修建の監督をして期限に間に合わなかった者がいると、自ら召して問いただし、まだ発言する前に処刑しました。
散騎常侍領祕書監王粛(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢桓帝が祕書監を置きました。秩は四百石です)が上書しました「今は宮室がまだ完成せず、現在の作者(労役の者)は三四万人もいます。九龍(殿)は聖体を安んじることができ、その内(中)は六宮(皇后の寝所。恐らくここは後宮の女官の意味です)を列するに足ります。泰極(太極殿)の前だけでも、功夫(工程、労役)はとても大きくなります(惟泰極已前功夫尚大)。よって陛下が、常に稟(国が支給する食糧)を食している士で、緊急需要な任務をもたない者を取り、その中から丁壮を選んで一万人を留め、一期(一年)で交代させることを願います(願陛下取常食稟之士非急要者之用,選其丁壮択留万人,使一期而更之)。皆が休息交替の日があると知れば咸知息代有日)、悦んで従事しない者はおらず、労しても怨まなくなります(則莫不悦以即事,労而不怨矣)。計れば一歳(年)に三百六十万夫がおり、これは少ない数ではありません。一歳(歳)で完成するはずのものを、三年にすることを許し、残った者を分けて帰らせ、皆、農業に就かせれば、無窮の計(行き詰ることのない長計)となります(当一歳成者聴且三年,分遣其余使皆卽農,無窮之計也)
民に対する信とは、国の大宝です(夫信之於民,国家大宝也)。以前、車駕が洛陽に行幸するに当たって、民を発して営(営塁)を築かせました。この時、有司(官員)は営が完成したら解散させると命じましたが、完成してもまたその功力(労力)を利とし(利用しようとし)、すぐには還らせませんでした。有司はただ目前の利を求めているだけで、経国の体(国家経営の大要)を顧みていません。臣の愚見によるなら、今から後にまた民を使うことがあったら、その令を明らかにして、必ず期日通りにさせるべきです。もし続けて事があるようなら、改めて動員させることはあっても、信を失ってはなりません(以次有事,寧使更発,無或失信)
陛下が臨時で刑を行っているのは、皆、罪がある吏や死ぬべき者に対してです。しかし衆庶(民衆)はそれを知らず、倉卒(慌ただしいこと、唐突なこと)とみなしています。よって陛下がこれを吏に下すことを願います(陛下が直接刑を下すのではなく、官吏に任せるように願います)。同じように死ぬにしても、宮掖(宮廷)を汚して遠近の者に疑われるようになってはなりません(鈞其死也,無使汙于宮掖而為遠近所疑)。そもそも人命とは至重であり、生かすのは難しいのに殺すのは容易で(難生易殺)、気が途絶えたら続かなくなるので、聖賢がこれを重んじたのです。昔、漢文帝が蹕(皇帝の警護)を犯した者を殺そうと欲しましたが、廷尉張釋之は『事が起きた時に上(陛下)がこれを誅していたら済んだことなのに、今、廷尉に下しました。廷尉は天下の平(公平な基準)なので、傾くわけにはいきません(法を曲げて死刑を用いるわけにはいきません)』と言いました(西漢文帝前三年177年参照)。臣が思うに、これは大いにその義を失っており、忠臣が述べるべきことではありません。天子の吏である廷尉でも平(公平)を失ってはならないのに、天子の身はかえって惑謬(惑乱)してもいいのでしょうか。これは自分を重んじて主君を軽んじることであり(斯重於為己而軽於為君)、不忠の甚だしいものなので、明察しなければなりません。」
 
[十五] 『三国志魏書三明帝紀』と『資治通鑑』からです。
魏の中山王曹袞(曹操の子)が病を患いました。
曹袞が官属に言いました「男子とは婦人の手の上では死なないものだ(原文「男子不死於婦人之手」。『資治通鑑』胡三省注によると、『礼記喪大記』の言葉です)。急いで東堂を造営せよ(亟以時営堂)。」
堂が完成すると、病のまま輿に乗って移動し、そこに住むようになりました。
 
曹袞が世子(後嗣)に命じてこう言いました「汝は幼くして人君(国王)となり、楽は知っていても苦は知らないので、必ず驕奢によって失(失敗)するはずだ。兄弟に不良の行いがあったら、膝を向き合わせてそれを諫めよ(当造膝諫之)。諫めても従わなかったら、涙を流して諭せ(流涕喩之)。諭しても改めなかったら、母に告げよ(喩之不改乃白其母)。それでも改めなかったら奏聞(上奏)し、あわせて国土を辞すべきだ。寵(恩恵)を守って禍を被るより、貧賎になって身を全うした方がいい(與其守寵罹禍不若貧賎全身也)。これは大きな罪悪について言っているのであって、微過細故(些細な過失)においては掩覆(庇護)すればいい(当掩覆之)。」
 
冬十月己酉(初三日)、曹袞が死にました。諡号は恭王です。
 
『三国志魏書二十武文世王公伝』によると、曹袞の死後、子の曹孚が継ぎました。景初・正元・景元年間(「景初」は明帝の年号、「正元」は少帝、「景元」は元帝の年号です)に重ねて増邑され、元の戸数と合わせて三千四百戸になりました。
 
[十六] 『三国志魏書三明帝紀』からです。
壬申(二十六日)、太白が昼に現れました。
 
 
 
次回に続きます。



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