雁の天

水すましおのが水輪の外に出ず

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終戦前後の南嶺

   終戦前後の会社
 満州での終戦の日、誰でもそうであったように、十八歳の私にとっても、あらゆる意味で大転換を迫られた日だった。
 勉学と活躍の場を求めて、その年の五月、旧制の中学校を卒業すると同時に、今から思うと世間知らずの行動でしかなかったが、純粋にアジアの人たちのために働くことの出来る土地、満州と信じて勇躍して渡満していたのだ。とは云うものの、卒業後も引き続き学徒動員で呉海軍工廠に勤務していたので、これから抜け出したいという気持ちも強く作用していたし、通常の進学は家計上許されないことも知っていた。             
 この頃には、既に沖縄戦は終了し、日本の敗色は決定的な状況にあったにも拘らず、それさえ知らぬままの出発だった。すでに、中国などに居た人たちの中には家族を内地に引き揚げさせているという状態だったことは後から知ったのだ。早くから父を失っていた私には相談相手になってくれるものはなく、全て独断であった。
 昭和二十年八月、私が所属していた「長春市南嶺にある「満州航空株式会社写真処」の中にも、あわただしい空気がみなぎっていた。会社は、航空機の運行のほか、航空写真を利用して軍用の地図を作っている軍需工場だった。
 私は、付属の技術員養成所の生徒である。全寮制で、測量学と写真術を中心とした技術教育(四年制)を受けていたが、十日頃には十九歳になったものが軍隊に召集されて行った。残ったものは所属の写真処内外の警備に当たり、最早勉強どころではなくなった。ソ連軍の参戦である。
 夜は、ソ連機の空襲を受けた。といっても、内地で経験したような激烈なものではなく、偵察機らしいもの一機だけ。対空砲火も無く、サーチライトの光線の中をゆっくり飛んで行く機影をこちらものんびりと眺めるだけというものだった。
 それでも、地上軍が南下を始めたと伝えられる十三日頃からは、会社の構内に併設されていた我が養成所は、その組織を挙げて夜の警備に当たることになった。

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大平洋戦争終戦直後から帰国までの満州における苦労話をつづりました。ご感想をお寄せいただけたら嬉しいです。

2013/4/21(日) 午後 3:13 [ シラネ ]


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山笑
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