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小部落の近くに来たときだった。後ろのほうに騒がしい声が聞こえた。不吉なものを感じたので、いそいで、道を逸れ、物陰に隠れて時を過ごした、どのくらい経ったか分からないが、もう大丈夫と確信を持てた訳ではないけれども、じりじりしてきた。濃霧に紛れて行動を起こすことにした。走っては人目に付きやすいし、遅くては気が急く。注意深く四方に目配りをしながら歩く。ようやくのことに、この部落を抜けることが出来た。
とうとう、後続の組と連絡が取れなくなった。瀋陽までは、まだ遠い、四分の一にも達しないというのに、九人が三人になった。二,三年かけてもよいとは言うものの、こんなに早く躓くとは思いもかけなかった事だった。
其の夜は、道を尋ねたのが縁で、その人の家に泊めてもらうことが出来た。鶏冠山の農家だった。以前、日本人に世話になったことがあり、「君達に協力するのはその人への恩返しだ。」といった。またしても、地獄に仏が居られた。
鉄道は、ここから上り線と下り線が分かれている。そして、噂のとおり、一方の線路はソ連軍によって持ち去られ、廃線になっている。廃線になったほうの線路には兵隊の監視は居ないだろうと教えてくれた。この夜、ご馳走になった黍のスープはこの世一番のグルメだった。
翌日は、教えられたとおり、廃線敷きを辿って、東の山を越える道を行くことにした。出発してから五日目になった。
昨日の農民の話のとおり、レールの無い線路は歩きにくいけれども、監視兵の姿はなく、ひさしぶりにゆったりとした気分で歩を進めることが出来た。四囲の景色を眺める余裕すら出てきた。山の間を縫うように通じている線路は、時には断崖の上を通り、時には景色の良い川の流れに沿うときもあった。鶏冠山の名の由来はその姿からと思われるように、切り立った山は鶏の「とさか」のようにゴツゴツと幾重にも並んでいた。道に沿って高圧電線があり、鉄塔には無数のカササギが巣を造っていた。朝鮮鴉だと芳賀くんが言った。胸は白く、羽根は黒い。日本の鴉ほどの大きさは無い。私にとっては始めて見る鳥だった。妙に寂しい想いを抱いたのは、その鳥の持つ独特の雰囲気に引き込まれたからだろうか。鳴き声もたしか、物悲しい響きを持っていたように思う。
劉河洞の町が見えるあたりで、今まで上下線が離れていたのに、ここから、再び並行するようになったので線路警戒の兵の姿が見える。。またわき道に逸れねばならない。
農家の傍を通り過ぎ、角を曲がった途端、出し抜けに、八路軍の兵隊に誰何された。出会い頭なのでどうしようもなかったとはいえ、不注意だった。そんな雰囲気の所ではなかったのにと、悔やんでも仕方が無い。
銃を構え、「ニー、ナーベンチュイ、ショマカンナ、」(何処へ行くか、何をしているのか)などと質問されたが、胸は高鳴るばかりで、言葉にならない、平静を保とうとすればするほど、しどろもどろになる。日本人であることは、とっくにばれている。荷物の検査を受けたが、もともと何も無いので、気楽に開いたのだったが、前にも書いた万年筆が出たとき、これが欲しいと言い出した。提供することでこの場が逃れられるのなら安いことだと思ったので、丁寧に進呈する旨を告げた。本当はもっと、駆け引きをするのだろうが、そんな心の余裕はなかった。父親の写真が出たときには、鼻髭を蓄えた姿を見て「大人だ、大切にしろ。」といってくれた。万年筆を提供したお返しらしい。「他のものに見つからないうちに早く行け。」という。「謝々」を繰り返し、早々にその場を離れた。自分達と同じ年頃の兵隊だった。
このとき、他の兵隊のところに連行されていたら、無事ではすまなかっただろう。そのまま、炭鉱などの労働に駆り出されていたに違いない。長姉の形見だった万年筆が我々の命を救ってくれたのだった。
それからの道はどう辿ったか覚えが無い。その夜も藪の中で体を休めただけで、眠れない。東の空が白みかけたときには、もう、じっとして居られなくなったので、早々に出発することにした。狭い谷あいに通じて居る鉄道と道路のほかには道が無く、畦道を行けばまともに歩けるはずも無く、川に当たれば橋はなし、何度も胸まで浸かりながら増水した川に挑戦したものだった。濁っているので深さが分からないまま飛び込んで、意外に深く早い流れだ。足を取られ、何十メートルも流されたこともあった。頭に括りつけた荷物は其の甲斐も無く、水浸しになった。
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